話を戻そう。昭和二十年六月、沖縄の陥落を目前にして戦隊の選抜隊は沖縄戦の任務を解かれ、九州より上海基地に引き揚げる。そして、済南に移動し、在支航空部隊を統一指揮する第十三飛行師団指揮下にはいる。師団長は、飛行師団全部を特攻隊に改編し、揚子江河口付近に上陸するだろう米軍に全軍特攻作戦を敢行し、敵輸送船団に体当たり突入して玉砕するという作戦計画を立てた。「戦隊史」には、『戦隊は双軽六機の特攻隊五隊、双発高練六機の特攻隊一隊が増加編入され、また満州から一隊十四機の中級練習機の特攻隊九隊が配属された。わが戦隊は九九双軽に八百㌔爆弾を装備し特攻戦法に徹するよう指導された。』の記述があり、そのための訓練に明け暮れていたという。訓練中の事故も多く、多数の殉職者を出している。

 八月九日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍が満州への侵攻を開始した。師団は、対ソ作戦の準備を急がせ、八月十五日早暁に、対戦車攻撃の装備を装着した戦隊各中隊は南苑を発進した。そして南下中のソ連機械化部隊を発見し、壊滅的な打撃を与えた。しかし、これが戦隊最後の戦いとなっている。帰還して第二次攻撃の準備中、終戦の玉音放送があり、停戦命令が伝達された。 その後戦隊は済南に戻り、終戦処理にあたった。やがて復員するのだが、分散配置されていた戦隊の派遣隊の中にはソ連軍に拘束されシベリア送りとなった者もいる。あるいは重慶軍の要請により、九九双軽を使っての中国軍人の訓練のため残留する者もいた。多々の思いの交錯を窺うことができる。