(前列左から二人目、岩本益臣大尉  後列右から三人目、父)

 

  僅か数百の文字で概略してしまったが、その文字の背後には、それこそ幾数十万幾百万の人間の顔があり心があり、営みがあったわけである。

 たとえば、万朶特攻隊でいうならば、昭和十九年四月に航空総監部から双軽特攻部隊編成の内示があり、鉾田教導飛行師団長の今西六郎師団長は個々の同意を得ないまま操縦士の名簿を総幹部に送っている。やがて岩本大尉(当時)以下配属隊員が発表されるが、隊員は移動途中で、自分達が特攻であることを知る。その後、特攻用に改造された機であったが、岩本大尉は独断で爆弾を投下できるように改造し、胸中の「出撃しても爆弾を命中させて帰ってこい」の思いを隊員に語ったと言う。しかし、十一月五日、マニラに向けての途上、大尉の搭乗する機はグラマン戦闘機によって撃墜され、大尉以下四人の特攻将校が戦死する。そして、数次にわたる万朶隊の特攻のあとに続き、若桜隊、旭光隊などの軽爆特攻機が出撃している。特攻作戦は、当初は一定の成果もあり、万朶隊は南方方面陸軍最高司令官より感状を授与されている。けれども、隊で生き残ったある操縦者に、「生きておったのか、師団の面汚し」と言葉を投げつけた参謀長もいたという。命令を受ける一兵卒と命令を下す戦争指導者たちの乖離を見てしまう。

 以上のようなことは、全体からすると端書きのようなものとして往々にして扱われる。でも、蔑ろにはできない。今や新たに知り得ることは少なくなってきているが、戦争やその時代を生きてきた人々のどんな些細なことでも、事実を事実として後世に残すこと、風化させないことが大切ではないだろうか。それが、人が人として生きる時代を創りあげていくことに繋がると思うのだ。もっと乱暴に言うならば、過去の記憶を無くしての未来はあり得ない。