【飛行第九十戦隊の終戦】
「飛行第九十戦隊史」の巻末に『飛行第九十戦隊・戦没者・遺族名簿』がある。そこに刻まれている戦没者の数は、父が戦線を離れ内地に帰還し、やがて大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発して以降、年々その数を増大させている。勃発した昭和十六年十二月から半年は、インドシナ半島やマレー半島そしてインドネシアに戦没地名を見ることができる。作戦飛行場も、コンポントラッシュやマレー半島のイボーやクアラルンプール、クルアンであったり、スマトラ島のバレンバンなどとなっている。対戦相手国は、中国から、英軍や蘭軍と拡大して行く。その後戦隊は、翌昭和十七年四月には、再び中国への転進となるが、それから終戦までは主として在支米空軍撃滅のための航空作戦の展開となる。その間、米軍はミッドウェー海戦を皮切りとして、ガダルカナル、サイパン、レイテなどの島々を攻略し、それらの島々を拠点とした日本本土への空襲も頻繁になっていく。そして昭和二十年三月十七日には硫黄島守備隊を全滅させた(その直前の三月十日には、B29百三十機による東京大空襲を行い十万人を超える死傷者をだしている)。日本本土に迫らんとする米軍を阻止するべく、日本陸海軍の航空戦力の全力を傾けたのが沖縄作戦であった。第九十戦隊からは、各中隊三~四機の選抜隊が参加している。まさに総力戦であり、四月、五月、六月は沖縄の島尻、名護、伊江島に先の戦没者の戦没地名を重ねることができる。そして沖縄作戦全体では、陸軍特攻九百五十四機、海軍特攻千三百九十三機、約三千名の特攻戦士が国難に殉じたという。『多数の特攻機の中に最年少は十七歳の少年飛行兵がおり、又九五式中型練習機という羽布張りの複葉機が出動、百㌔爆弾二発を装着して突入していった。』との記述が「戦隊史」に見られる。また、『軽爆隊の特攻は九九双軽と二式襲が主として使用され、岩本益臣少佐(注:第一中隊付として第九十戦隊に配属され、後転任)を長とする万朶(ばんだ)特攻隊を魁とし、若桜隊、旭光隊、皇魂隊、香華隊、勤皇隊五十四機、九十七名の尊い軍神を出している。』の記述もある。沖縄では地上戦を含め、壮絶な死闘が繰り広げられたのである。火がついた導火線は、やがて広島、長崎の惨劇にも繋がっていく。
