佛印進駐も順調に進行。戦地も一時小康状態を得た感で有ります。

 やがて、中隊長は内地帰還のため、欽県飛行場を出発されました。十一月に、戦隊は天河飛行場に復帰しました。十二月には、戦隊長交代です。第四代目の戦隊長は、瀬戸中佐であった様に記憶します。

 山口戦隊長は内地に帰還されます際に、直接私を呼んで「藤田、お前は戦地生活も長いので、後一ヶ月待っておれ。必ず内地に呼ぶようにするから。」と仰って帰還されたのであります。私は、山口戦隊長のお蔭で、昭和十六年二月初旬に宇都宮陸軍飛行学校附きとして、やっと内地の土地を踏むことができた次第で有ります。

 思えば昭和十二年七月十五日、動員下令と共に出征し、昭和十六年一月末日までの戦場生活。私にとっては、本当に長い長い戦地生活でもありました。

 

 戦局はいよいよ大東亜戦争に突入致しまして、最終的には終戦を迎えたわけでありますが、終戦後と雖も私の心には、田子機の真相を承知されていたか、否か。解明されぬまま今日に至った次第で有ります。

 『想い出の記録』を拝読致しまして、中隊長、戦隊長はやはり真相を承知されていたことを初めて知った次第で有ります。本当に、有り難く感じました。これで長年に渉る私の心の裡の凝りが吹っ飛んで、晴天の喜びを覚えます。これで寿命も何年か先に延びるような気が致します。

 

 

 このくだりを読む毎に、いつも私は胸の塞がる思いをする。単に哀しいのではなく、単に切ないのでもない。無情や無常を凌駕する何とも表現しがたい思いの塊が押し寄せてくる。

 父、保で言うならば、「真実だけを知ってほしい」との必死の願いは、遂に判明されないまま、それは己が裡の凝りとなり、凝りを抱きつつ戦後を生きる。晩年の一つの契機がその凝りを溶解させ、「晴天の喜び」「寿命も延びる」思いを得ながらも、翌年には生を終えた。そこに投げかけようとする言葉を、私は持たない。

 誤爆により爆砕した田子軍曹。彼もまた以前には、味方陣地に爆弾を誤って投下したとする記述があった。そこに徒な因縁を持ち込むことは、不埒に過ぎるのかもしれない。

 それら全ては、中隊長が言うところの「戦陣のつね」なのだろうか。あるいは、そのように言い切らざるを得ないところに、また、中隊長の中隊長たるやむを得ない姿があるのか。

 まさに「交々(こもごも)」である。

 そして、当時を鳥瞰できる立場にある私には、「交々」のなかに、父の記述にはないところの、たとえば爆撃を受け、あるいは銃弾を浴び傷つき命を喪ったであろう敵側の者達さえもが入る。そこにも、父と同じように一個一個の生があったはずだ。

 しかし、それもこれも一顧だにせずに、歴史は動く。