確か午後からの爆撃だったと思います。「敵は特務機関に接近しているので、その周囲を爆撃する。今回は精密照準爆撃を実施するように。」との命令でありました。各機それぞれ真剣になって、精密照準急降下爆撃を敢行致しました。その時の爆撃効果は満点に近く、十二分に目的を達したものと考えておりました。
飛行場に帰還しまして、やがて夕刻も迫らんとする頃、五原特務機関長より無線で、「唯今の爆撃は非常に効果甚大であった。願わくばもう一度機関の周囲を爆撃してほしい。」との要請であったそうです。如何せん、夜間の爆撃は不可能な状態です。夜に入って、空しく時間は過ぎ去って行きます。私達は、明日まで頑張ってほしいと祈るのみでありました。やがて無線連絡も絶えた模様であります。
翌朝、五原上空に至りましたが、無念にも特務機関は全滅です。特務機関の広場には、馬の死骸が望見されるだけでした。
飛行隊の連日に渉る救援活動にもかかわらず、もう少し騎兵部隊が早く五原に到着していれば、或いは特務機関の救出ができていたのではないかと、騎兵部隊の遅々たる行動に対して、当時は腹立たしく思ったものです。
今考えてみますと、騎兵隊には騎兵隊としての事情もあるし、五原までは相当の距離もありますので、飛行隊のようにおいそれと目的地にも着きかねる情況だったのでしょう。当時の私は、飛行隊の観念だけを尺度に計り物事を判断したようです。これは誤りでありました。然し、あれだけ必死の救出活動のなかで、遂に救出でき得なかったことは本当に残念でありました。
かつて私が蒙古人かと勘違いした方の御高名は、初めて篠原さんであられたことを知りました。蒙古服姿の篠原さん、その熱血漢の面影が髣髴として浮かんで参ります。
「戦隊史」の『五原救援作戦協力』の項に、「この方面の敵軍管区総帥は、事変以来の宿敵溥作儀将軍。地盤奪回の意気に燃え、大軍を五原に集中して猛攻に転じ、特務機関は、まさに風雲の危急にさらされている」「現地からは、夜間制圧飛行を要請する悲痛な叫びが、電波に乗って耳を打つが、飛行場には夜間離着陸用の照明設備もなく、満疆特有の黄沙のおそれもあって、要請に応えることもできず、切歯して自滅を待つ辛さに耐えなければならなかった。『天皇陛下万歳、協力を謝す』無線電話はこれを最後に絶えた。」の記述がある。また、特務機関の「篠原さん」は、五・一五事件に連座して獄に繋がれ、特赦後特務工作員となったとある。


