【熊谷陸軍飛行学校移転】
いよいよ待望の飛行機操縦訓練の開始も迫ってきた昭和十年十二月一日、私達操縦二期生は新しく開校された熊谷陸軍飛行学校に移転する事となった。広い飛行場であったが、草も生えていないただ黄色の平地という感じであった。ここで操縦訓練が始まる。編成は二個中隊であり、日課は午前中が操縦訓練、午後は航空機学、気象学、航空機操関等の学科である。次週は、午前と午後の内容が逆になった。
初めて空の人となる。慣熟飛行と称して、飛行機に対する安心感を抱かせるための同乗飛行である。実感として気持ちのよいものだった。何時地上を離れたのか分からなかった。高度五百㍍位だったと思う、助教が「操縦桿を握れ。右に傾けてみろ」と。飛行機は右に傾く、左にやれば左に傾く。再び、「方向舵を右に踏んでみろ」と。右に踏むと、機首は右の方向に向く。飛行機は、自分の思うように動いてくれるものだと説明された。眼下の建物が立体的に、美しく見えた。「よし、今から着陸するぞ。飛行場を見てみろ。」と言われ、飛行場を見るとそれはマッチ箱の大きさ位に見えた。あの小さな飛行場に、どう目測を定めて着陸するのかと不思議に思えた。
そして、離着陸訓練となった。離陸して場周を飛行し、着陸態勢に移り着陸するのである。助教は垣見曹長で、非常に人格者であった。助教は、五人の生徒を受け持っていたように思う。毎日、訓練が続く。一回の飛行は五分位で、交代しながら四回ほどで終わる。 やがて、単独飛行となる。助教によりそれぞれ教え方も異なるが、私の助教は、単独飛行を五人揃って同時に行った。単独飛行では、着陸に失敗し飛行機を破損する生徒もいたし、単独飛行の遅れる者は焦りも出るので、そんなことがない様に、私の助教は全部の技術が揃うまで訓練し、全員がこれでよしとなってから同一日に単独飛行をさせた。当時の飛行機はアンリョという複葉機で時速八十キロの速度であった。
※文中の「アンリョ」は「アンリオ練習機」のことだろう。胴体や翼が木製骨組みの羽布張りであった。
