木野駅 E11  

 

〈木野駅〉

 

 文章に添えるため、木野駅の写真を撮りに行った。なんとなく違和感を覚えた。僕が叡電を利用していた時代の木野駅は、今よりも西にあった。それが1990年に京都精華大前駅が開設されると同時に現在の位置に移された。そこからくる違和感だろうか。それにしても移転してからも結構な年数が経っている。もしかしたら、踏切と駅舎の位置関係に合点がいかないのかもしれない。僕の頭の中では、以前の駅がそうであったように、木野駅は踏切の西側にあるものとインプットされ続けている。

 現在の木野駅は、木野ではなく幡枝の地にある。

 

〈一条山〉

 

 駅の南正面に小高い山が見える。一条山という。平成生まれの若い人の中にも知っている人はいるだろう。岩倉五山の一つで比叡の景観を抱くこの山は、「モヒカン山」と呼ばれた時期があった。ちょうどモヒカン刈りのように、頂上部に緑の木々を残して周りが削り取られ地肌をむき出していたのだ。その状態が1983年から2001年ごろまで20年近く続いた。当時は、全国版の新聞やテレビでも報道された。

 事の発端は住宅地造成を進めようとする業者の景観を無視した乱開発である。放置されていれば、山そのものが消滅していたかもしれない。市は、一旦は工事中止命令をだすが、やがて市民の批判や意見書を無視して再開発許可を出した。そんな市に業を煮やした人々は、市を相手取った行政裁判を起こすこととなった。平成に入っての裁判も紆余曲折し、2001年に市と業者は全面開発を断念し、新たな是正計画を出すことで住民側と和解している。小さな一条山はさらに小さくなったがかろうじて残ったわけである。今は、一見してもモヒカン刈りの名残はない。しかし、そのような経緯があったことは歴史のひとつの教訓として忘れてはならないことだと思う。

 全くの余談だが、この問題を考える集会に参加させてもらったことがある。今は故人となられたが、作家の野坂昭如氏が講演に来られるということもあって楽しみにいていた。奔放でありながら繊細であり、どこか屈折した我の強さを感じる「焼け跡闇市派」の作家。ところが、氏の話の順番がきても姿を現さない。遅れて登場したが、完全にへべれけ、酩酊状態だった。何をしゃべったのか聞き取れないうちに、世話役の人の手を借り降板した。そんな情景にも嬉しさを感じたのは何故なんだろう。一方で世話役は大変だっただろうと同情も。その世話役の方は、僕の知人で寺の住職の奥さんだった。

 

〈地蔵堂〉

 

〈貴船神社〉

 

 岩倉木野町と岩倉畑枝町を流れるのは長代川である。長代川は国際会館手前で岩倉川と出合い、宝ヶ池駅近くで高野川と合流する。川が流れるところは古い歴史をもつものだ。 

 木野に南接する幡枝もその例にもれない。二万五千分の一の地形図を眺めていると「鞍馬街道」の文字を見つけた。その文字は上賀茂の「深泥池(みどろがいけ・みぞろがいけ)」畔から北に延びる二つの道の西側の道である。道筋には地蔵堂そして貴船神社(洛中から遠いだろうからと江戸時代に本宮からこの地に分霊された)があり、そこを過ぎると急坂になる。その西峠あるいは幡枝峠とも呼ばれた峠を過ぎると右手に円通寺、やがて幡枝八幡宮が現れ、そして長代川に架かる頼光(らいこう)橋へと出る。その先は静市市原町になり、鞍馬へと続く。その道全体を指して鞍馬街道と呼ぶのだろう。頼光橋辺りの道路状況は随分変わり、東西に大きな道路が走っている。

 

〈幡枝八幡宮〉

 

〈長代川と頼光橋〉

 

 先の急坂は、本当に勾配が強く道も狭いから車が離合するのは今も困難である。ましてや雪でも降るとそれこそ通行不能になる。昔、学生アパートの住人の一人が、薄く雪が積もった早朝その道を軽トラックで走り、制動が効かなくなり駐車していた車に当て逃げしたことがあったことを思い出した。警察がいつ来るかと、彼はしばらくびくびくしていた。

 そんな道だから、迂回路としてもあったのが深泥池畔を回るようにして、傾斜が少しましな美土呂坂を上がり、檜峠(この文を書いている場所も、修学院の檜峠の下だが)を越えて同じく幡枝に至るもうひとつの道だろう。両道とも古道としての趣が感じられる道ではある。それにしても、狐子坂といい、これらの道を己の脚だけを頼りに日常往き来していた先人たちにはほとほと頭が下がる。今、ふと大原女の姿が浮かんだ。すべてが人力に頼らざるをえない時代では、たとえば大八車に荷を積んでこれらの峠を越えるのは困難であるし、牛馬に曳かせても危険性がある。そもそも道が険しいだけでなく狭くもあったはずだ。だから荷を背負い、あるいは大原女のように軽快な衣装で荷を頭に載せるなどして、坂を、峠をわたっていったのだ。いわゆる鯖街道では、いったい幾つの大小の峠を越えて若狭から京の都へと、塩漬けした鯖を運んだのだろうか。

 

〈深泥池〉

 

 深泥池は、氷河期から生き残っている生物や温暖地に生息する生物が共存し貴重な生物の生息地として天然記念物にも指定されている。池畔は始終車が走り、家々も増えているなか、この先も大切に守っていかなければならない池である。今はどうか知らないが、ここも京都の心霊スポットのひとつであった。タクシーの後部座席に乗っていた女性乗客が、この地で忽然と姿を消したという話は言い伝えられている。

 

名を聞けば影だにみえじ みどろ池にすむ水鳥のあるぞあやしき

  和泉式部

 

〈円通寺〉

 

 円通寺は、川口松太郎氏の小説「古都憂愁」の三話『洛北再会』に登場する。主人公は、車で深泥ヶ池をめぐって細い坂道を登り、幡枝へ。幡枝の里は、「西山の山ふところに囲まれたひなびた小村で、深い繁みのあちこちにゆたかそうな山荘が建っている」と描かれている。円通寺については、「切り込み垣の外はまばらな杉木立でその先が竹藪になり、遠景には比叡山の山容が、まるで自分のもののように見えている」と、比叡山を借景とした庭を語っている。 

 1966年に京都国際会館ができる数年前の時期の幡枝と円通寺であり、僕が最初にここを訪れた時の印象と全てが重なる。そんな円通寺を若い時分は何度も訪ねた。何だろう、僕にとってはとっても気さくなお寺であった。幡枝側からは、鞍馬街道を深泥池へと下りる坂の手前左側に円通寺の入り口があった。その入り口は今閉ざされて、北側に写真のような堅牢な出入口が新たに造られている。2009年に周囲が区画整理される時に変更したらしい。新しい門を僕はまだくぐったことがない。行けば、「再会」でも待っているのだろうか。

 

〈円通寺 かつての入り口〉

 

〈円通寺門前から望む比叡山〉

 

 木野駅から岩倉方面に車で抜けるのに、昔は山裾にある狭い道を走った。その当時から不思議にも思い、とても気になる店が沿道にあった。そして、外装がお洒落になって今もあった。鰻(うなぎ)専門のお店だ。何でここに?どこのうなぎ?って思ったものだ。僕には敷居が高そうで行ったことはないが、一度はその店で食べてみたい。その店のすぐそばに、土蔵の姿がりりしい「京都民芸資料館」がある。

 

〈松乃鰻寮〉