八幡前 E09
〈八幡前駅〉
僕の京都での生活は、この八幡前駅からスタートした。本当に遠い昔のことになった。それまでは、父親の仕事の関係で各地を転々としていたが、今やそれらの倍以上の年数を京都で過ごしている。
当時を思い起こしてみる。駅を出ると踏切を渡ってすぐに本屋があった。時々、本を注文したこともあった。そういえば、吉行淳之介の全集を頼んだが最終巻だけが欠けたまま今に至っている。配本があったのに僕が受け取りに行かなかったのか、あるいは、そうこうするうちに閉店してしまったのか、経緯はわからない。通りに出ると道路の向かいに小さな市場があり、鯵の開きや漬物なんかを買う時もあった。喫茶店も二軒ぐらい近くにあったかな。地下にできた喫茶店には、マンガ本を読みによく通った。「ゴルゴ13」の連載も始まっていたし、「カムイ伝」も当時の学生には人気があった。作者のさいとう・たかを氏も白土三平氏も先ごろ亡くなってしまった。「レーコ」、「レスカ」、「キューピッド」なんかの呼び名もここで覚えた。やがて、「天下一品」の支店も置かれたりしたような。
通りの右手の踏切の方からも、左に折れてからでも三宅八幡に行くことができた。左に折れた道を北に7,8分歩く。岩倉花園町のバス停がある。桑田病院という名の病院があったような覚えがある。道は大きくカーブし西に向かうが、バス停手前の小径を入ったところに学生アパート「光和荘」はあった。その小径の先は、青々とした田圃に畑が叡電の線路際まで広がっていた。
「光和荘」は24部屋ぐらいあっただろうか。別に管理人さん一家が住んでいた。当時は、学生アパートの家賃の相場は1畳=1000円ほどだったから、四畳半の部屋で家賃は4000~6000円あたりだったと思う。だから仕送りしてもらった額も、2~3万円の時代だ。バイトは時給が2~3百円ぐらいだったかな。共同のトイレに炊事場。近くに銭湯はなかったから、共同の浴室もあった。そんな住環境から京都での生活は始まったわけだ。そして住人はというと、大学もさまざま、誰もが地方から来ており、それこそ北は北海道から南は九州出身の者までいた。まだ新しいアパートだったから同じ回生の者が多く、そのうちの何人かとはすぐに親しくなり互いの部屋を行き来もした。社会もまだ揺れていた時代である。議論にもなった。いろいろな価値観の交錯する中で、時には自分が試された。たとえ青臭いと言われようが、後に若気の至りと自分自身思おうが、その時の自分に蓋をすることはできない。全てが、今に繋がっているのだから。
〈今は立ち並ぶ住宅〉
その光和荘には一年余りいただろうか。その間の楽しい思い出として残っているものがある。ドジョウ捕りだ。何人かの住人と近所の小学生数人とで、裏の田圃の際を流れる用水路の泥をスコップでおこして畦道にあげ、その中に跳ねるドジョウを捕まえた。皆が夢中になった。バケツ一杯は捕れた。もちろん小学生にも分け前を与えた。彼らは、喜び勇んで持ち帰ったが、果たして親御さんの反応はどうだっただろう。それはそうとして、持ち帰ったドジョウは泥を吐かせたあとドジョウ鍋にすることにした。東北出身の者がいて、その彼のレシピに従った。土鍋に生きたままのドジョウを入れ、白く透き通った状態になったのをすりこぎでつぶし、あとはなんでもかんでも放り込み味噌と日本酒で味付けをする。野趣あふれる味で、うまかった。住人の多くが相伴にあずかったのではなかっただろうか。
先日、その光和荘のあった場所を訪ねてみた。バス停まわりも当然変化している。地道であったところも全てが舗装されている。田圃であったところも、住宅が立ち並んでいて昔日の面影はない。でも、そんな一角に光和荘は名前を変えてお洒落にあった。外観などが変わっていても、全体を見るとしっかりとした名残がある。昔日へと時間がさかのぼった。
〈元光和荘のあと〉
光和荘のあった岩倉花園町だが、八幡前駅と岩倉駅のちょうど中ほどにあったと思う。ならば、手前の方が電車の定期代が安くなるだろうから八幡前駅を利用したわけだ。
花園町はバス路線からさらに北方の山手に広がっている。ある日、地形図を頼りに歩いてみたことがある。瓢箪崩れ山という、何ともユーモラスな山に登ってみたかったからでもある。比叡山を仰いだ時に、その左手にある頂が二つ連なる山だ。確かに瓢箪を横倒ししたような形にも見える。瓢箪崩れ山に行こうとすれば、岩倉からだと主に二つのルートがとれる。花園町からと、長谷町からだ。バス停に「長谷分かれ」というのがあったかな。前者は尾根道で、足場もよく、疎林の中を遊びながら歩く心地よさがあり、自然に瓢箪崩れ山の頂(532m)に運んでくれたような印象があった。長谷側からは途中飛騨池という灌漑用の池をやり過ごして、長谷の谷筋を詰める道である。すると寒谷峠にたどり着く。瓢箪崩れ山のすぐ西にある峠であり、そこから頂上を目指すことができる。二つの道はやがてひとつになり、大原の井戸に出る。途中には八瀬方面へと下りる道が何本か走っていたり、東の静原に続く道もあったりする。高野川沿いの道がまだ十分に整備されていない大昔にあっては、これらの道が大切な役割を担ったのだろうと推測される。もうずいぶんと歩いていないが、それらの山道は僕の印象通りに今もあるのだろうか。どんな小さな山でも、地図と磁石、飲み水それに雨具と非常食は必携ですぞ。


