八瀬比叡山口 E08

 

〈八瀬比叡山口駅〉

 

 叡電本線の終着駅だ。歌の歌詞によくのる終着駅という単語は何か物哀しい響きをもたせるが、実際はそんなことはないだろう。終着駅は、裏返せば始発駅でもあるし、それ以上に、路線にはつながってはいない空間がその先に広がっている。つまり、終着駅にはまだ見ぬ夢や希望が身震いする興奮のなかに詰まっている、と感じるのは少々大げさだろうか。

 叡電もまた八瀬駅(2002年に八瀬遊園駅から現呼称に)の先に壮大な夢を持っていた。

 現在は京阪の子会社になっている叡電だが、その昔叡電に京福電鉄の冠がついていたころの話だ。「京福は京都と福井の頭文字。だから、いつかは琵琶湖の湖西を走らせ京都と福井をつなぐ路線をつくろうとしてるんや。八瀬から叡電が延びて…」 誰から聞いたのだろうか。それはそれとして、実際に高度経済成長期が終わるころだが、京阪電鉄側にそれに近い計画があったらしい。三条京阪止まりであった電車を鴨東線で出町柳まで延ばし、ひいては八瀬駅から比叡山にトンネルを掘り、滋賀県の堅田まで路線を延伸するという。結局は実現されてはいないが、スケールのでかい計画だ。それを知って、あらためて駅舎を眺めてみる。写真の手前で線路は行き止まりになるのだが、どうかすると柵を押しやり電車がそのまま進むかのような造りにも思える。進んだ先は、川を渡り比叡山腹だ。本当はどうだったのだろう。

 

〈後ろからの駅ホーム〉

 

 改称される前の八瀬遊園駅というのは、文字通り「八瀬遊園」という遊園地があった。僕の子どもたちもお世話になっている。プールの水は夏場でも冷たくて、長い時間つかってはいられなかった記憶がある。やがて「スポーツバレー京都」「森のゆうえんち」と名前を変えるものの、当時あった比叡山頂遊園や桃山キャッスルランドなどの遊園地同様に、大型テーマパークなどに圧されるなどして現在は姿を消し、跡地は会員制のリゾートホテルになっている。

 八瀬遊園はかつて子どもであった大人たちの遠い夢のなかにあるけれど、いまだに子どもたちを集めている場所がここにはある。駅のすぐそば、ケーブルカー乗り場に続く道のちょうど橋がかかったあたりだ。その下を流れる高野川。夏場は多くの子どもたちの歓声があがる。清らかな川の流れ、適度な深さ、一部は整備されているのかもしれないが足場もよく、大人がついていれば幼児さえ楽しく遊べる。今夏は孫が川デビューした。

 

〈高野川の天然プール?〉

 

 先の橋を渡り、右手に曲がり歩めば瑠璃光院、そして御蔭神社だ。瑠璃光院は春と秋にのみ特別拝観を行っている。事前に予約が必要な期間もあるみたいだ。結構人気を博しているらしいが、拝観料が高いこともあって僕は門をくぐったことはない。その門前をゆっくり通り過ぎ、森の中にある御蔭神社までの道筋をたどる。僕の場合は、それで充分だ。

 

〈瑠璃光院門前〉

 

〈ケーブルカー〉

 

 何十年ぶりだろうか、比叡山頂へと運んでくれるケーブルカーとロープウェイに乗ってみた。いっ時、童心に戻る。山頂にはもちろん遊園地はもうない。夏は定番のように設けられたお化け屋敷が懐かしい。お化けは懐かしいと思っても、幽霊が懐かしいとは思わない。その違いはなぜなんだと、どうでもよいことをふと思う。それらの跡地は、今はガーデンミュージアムという施設になっている。

 

〈ロープウェイ〉

 

〈延暦寺 3塔案内図〉

 

 今回はとんぼ返りだったが、一日をかけて横川(よかわ)、東塔、西塔に分かれる「比叡山延暦寺」の数多の僧堂を巡り、もうひとつのケーブルカーで滋賀県坂本側に下りて日吉大社に詣でる、などの計画を立ててみるのも面白いと思う。比叡山頂も平安京の鬼門にあって国家鎮護の役割を担った延暦寺も、実は滋賀県大津市に属する。逆のルートや京阪バスを利用するなど、もちろん徒歩を含めていろいろなバリエーションがある。東塔、西塔と横川はかなり離れているので事前の計画が必要だ。

 

〈西塔「にない堂」(常行堂と法華堂)〉

 

 その延暦寺だが思わぬ関わりがもてた。

 コロナ禍があって雇い止めになるまでの一年余りを、縁あって比叡山中にあるホテルで週に2、3日だが夜勤の仕事をさせてもらっていた。晩に田の谷峠の比叡山ドライブウェイのゲートを抜け、我が物顔で闊歩する鹿をよけて必ず立ち寄ったのが「登仙台」という展望台。京都府と滋賀県の境界が敷地内に白ペンキで引かれている。西方向には京都市内ばかりでなく大阪の高層ビルさえ遠望できる。東方面に広がるのは大津市街と琵琶湖、湖南や鈴鹿の山々。それらの夜と翌朝の景色がどれほど気持ちを癒してくれたことか。そして、その景色には凝縮された時間も詰まっていた。山背の地、秦氏や賀茂氏、長岡京、平安京、源平の合戦、南北朝の争い、応仁の乱、本能寺の変、山崎の合戦、淀川、石山合戦、御土居、鳥羽伏見の戦い… 東方の景色のなかには、大津京、天智天皇、壬申の乱、俵藤太、三上山、瀬田の唐橋、源義仲、場所を変えて眺めればさらに北方の景色には姉川の戦い、安土城、彦根城、その近くに関ヶ原、賤ケ岳の戦い…  景色の中に時間軸を加えると膨大な光景が現れてくる。当然そこには名もなき人々の生活も加わる。

 比叡山は、これらの光景の中に比叡山として在るのではないだろうか。

 

〈叡山から 大津夜景〉

 

 勤務するなかでもうひとつ印象的だったのは、延暦寺の「根本中堂」で毎早朝行われる「朝のお勤め」に接することができたことだ。ホテルに宿泊するお客さんの中で希望する方をマイクロバスやハイエースなどにお乗せし、根本中堂までお連れするのだ。途中で車を停めて湖東に広がる景色を楽しんでもらう。近江大橋の方向を指しながら「琵琶湖には百を超える川が注ぎこんでいるのですが、唯一瀬田川だけが琵琶湖から流れ出て、宇治川と名前を変え、やがては淀川となり大阪湾に…」なんかの説明をしたりもしたかな。

 

〈寝覚めの琵琶湖〉

 

 「朝のお勤め」は、現在根本中堂外側、あるいは天井などが改修中ではあるけれど、「不滅の法灯」が灯る堂内で行われる。30分ほどの時間のなかで、お坊さんたちの法華経の25番かな、それと般若心経の読経が早朝の清澄な空間に響き、その後にお坊さんの簡単な法話がある。時には若いお坊さんが、タブレット端末を見ながら話をするという場面もあったりしたが、30分間は心が洗われる時間でもあった。『色即是空』のフレーズしか知らなかった般若心経にも興味を抱くようになり、今はすっかり諳(そら)んじてもいる。

 一年という春夏秋冬の季節の移ろいの中で、夜ごと、朝ごとの叡山からの景色を眺め、根本中堂での「朝のお勤め」に同席できたことは、僕の人生のひとつの宝物になっている。

 

〈叡山から東方を〉

 

 とんぼ返りした駅に戻ろう。

 駅名についている八瀬だが、その集落は駅の北方の高野川両岸をS字のような感じで続いている。Sの真ん中を国道が通るので、意図しなければ集落の中を一般車両が乗り入れることはない。国道が意外と広い集落を静かに守っている、そんな気がする。

 そして八瀬といえば、「八瀬童子」の語句を思い浮かべる者が多いのではないだろうか。歴代天皇の棺を担ぐのが八瀬童子であり、近代では明治天皇、大正天皇の葬送の際にも輿丁としての役割を担い、棺を乗せた輿(こし)を担いだ。その天皇家との関わりの歴史は古く、足利氏に追われ京を逃れ比叡山に向かう後醍醐天皇の輿を担ぎ守ったなどの記録(1336年)も残っている。さらに古くは、壬申の乱(672年)で矢傷を背中に受けた大海人皇子がこの地に窯(かま)風呂を作り養生したとされ、その「矢と背」が転じて八瀬の地名になったという伝承もある。伝承の真偽はともあれ、昔から皇室と延暦寺に縁(ゆかり)が深い土地だ。

 中世以来、公家の湯治場であった八瀬の窯風呂には一度入ってみたことがある。雪国の「かまくら」の奥行きを少し広くしたような形で、もちろん雪ではなく土で固めてあった。和風のサウナと言えばよいのだろう。中に敷いてある莚(むしろ)に寝そべった。強烈な薬草っぽい臭いが漂う。でも、嫌ではなかった。今でも匂いを懐かしく思う。

 

〈かまぶろ温泉・ふるさと〉

 

 八瀬にはほかにも触れたいことが沢山ある。例えば、平治の乱(1160年)で平清盛の軍に敗れた源義朝は八瀬に逃れ堅田へ向かうもやがて殺害されたこと。300年もの間伝承されてきた「赦免地(しゃめんち)踊り」と秋元神社のこと。

 

〈八瀬案内図〉

 

 そんななかで僕が最近になって知ったことがある。紫式部の源氏物語の舞台にこの地がなっていることだ。どの件(くだり)かというと、源氏物語全54帖の最後53『手習』と54『夢の浮橋』の帖だ。宇治川に身を投げたと思われた浮舟は横川の僧都に助けられ、その後僧都の母が住まいする「小野」に連れていかれる。そして浮舟はその地で僧都の得度で出家する。つまり、作中にある小野が八瀬の地というのだ。「三宅八幡駅」の項でも触れたが、この地一帯は古くは小野郷と呼ばれていた。地形図をみても判るが、比叡山延暦寺の横川へ行くには八瀬あるいは大原から上がる方がより容易だ。今まで細かい地名まで意識して読んでいたわけではなかったから、八瀬の地の登場には新鮮な驚きを覚えた。ただ、注解書によっては、小野=現大津市小野ともあった。確かに大津市にも小野という地名があり、古代の小野氏の勢力が広範であったことが想像できる。そこで改めて地図を広げてふたつの小野と横川との位置関係を、作中の人物の動きを重ねて比べてみた。大津市の小野では茫洋としすぎる。源氏物語最終章の舞台は八瀬であると僕は思う。紫式部も、何かの折にこの八瀬の地を訪れたことがあるのかもしれない。

 

〈横川の元三大師(良源) ※その弟子の恵心僧都源信が源氏物語に登場する横川の僧都のモデルであるとされている

 

 叡山本線は八瀬の地で終点となるが、高野川はその上流の大原の里も潤している。京都屈指の観光地である大原に多言は要しないだろう。歌や映画、小説にも三千院や寂光院が登場する。歴史的には、後白河法皇の大原御幸というものもあり、平家物語にも描かれている。壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一門を失うも生き残った平清盛の娘徳子。都に戻され、やがて出家し寂光院に隠棲するところを、後白河法皇が訪ねてくる。徳子の語りに、平家物語の主題である無常感があふれる。

 薪を頭上に載せ京の市中で売り歩く大原女(おはらめ)も、その装束とともに有名だ。里の人々は、そんな大原の歴史的景観をとても大切に守っているように思う。

 

〈江文神社〉

 

 その大原に一時期毎週のように通った場所が若い時分の僕にはあった。江文神社とそこから登る金毘羅山だ。金毘羅山は連続して岩が露出している部分があり、それがロッククライミングの結構な練習場となったからだ。土曜の最終バスを戸寺で降り、江文峠に続く道をヘッドランプの灯りを頼りに歩き江文神社へと。神社の絵馬堂で、寝袋にもぐり夜を明かす。やがて、朝靄(もや)のなかを、ザイルを繋いで仲間と岩に取り付く。登り切った岩の上からは大原の里の全容が眺められた。五月ごろだったかなあ、紫蘇畑の紫や水田の緑が作る矩(く)形のモザイク模様は忘れられない。江文峠への道は、現在は静原を結ぶ車道となっている。でも、江文神社は今でもひっそりと在り、練習にやってくるクライマーもいるそうだ。

 

〈途中集落〉

 

 大原の先には、古知平や小出石の小さな集落があり、やがて県境となっている途中峠を越え滋賀県側の「途中」の集落に至る。峠の先にトンネルができるまでは、車は狭い集落の中を通ったから、しょっちゅう渋滞したものだった。

 

〈国道477号線〉

 

 小出石から分岐している国道477号線は西方にある大原百井(ももい)の小さな集落を抜けるが、その道は一部国道マニアからは「酷道」とも評されているらしい。山間部の細いくねくね道をひたすら走り、花脊峠の下の百井分かれで鞍馬を北上してきた府道38号線と合流する。その合流地点が鋭角すぎて、一回では車のハンドルが切れないからだという。でも、国道なんだ。百井には青少年村があり、キャンプ場も設置されている。山間部の小さな集落。ゆっくりと移ろう時のなかに村人たちの生活が垣間見えた。

 

〈百井集落〉

 途中の集落からはなおも鯖街道が若狭まで続き、多くの集落が街道とともに今も息づいている。そして、百井からは大見や尾越(おごせ)の山間の小さな集落が続いている。いつか機会をみて記してみたい。

 それでは、叡山本線から、鞍馬線に。