「修学院」駅 E05
〈修学院駅〉
井上靖の小説に『本覚坊遺文』という小説がある。茶人千利休は秀吉から切腹を命じられたが、それは何故なのか。利休の愛弟子であった本覚坊の話からその糸口を探すストーリー。ストーリーはまたもやさておき、その本覚坊が遁世して住んでいる場所が修学院という設定になっていて、その本を読んだ時、長くこの地に住む者としては何やら嬉しかった記憶がある。
小説世界だけではなく、映像の中にでも“地元”が登場するときも同じだ。痛ましい京都アニメーション放火殺人事件は未だ記憶に新しいが、その事件の後に京アニ制作の作品を何本か観てみた。その中のひとつ『けいおん!』は、僕には内容が眩しすぎて?つい早送りに。でも、一時停止する箇所がいくつかあった。それが「修学院駅」、おそらく「松ヶ崎橋」(橋の西北にあったアピカルイン松ヶ崎らしき建物は今は無いが)、そして叡電の車両、出町柳駅などの場面だった。制作者たちの思いの一端が感じられるカットでもあった。
修学院駅そのものは、北山通が開ける以前はもう少しだけ北寄りにあったと思う。
〈修学院離宮 入口〉
修学院というと、「修学院離宮」がすぐさま連想されるが、離宮は江戸時代初期の造営。地名としての修学院は、かつてこの地に天台宗の寺院「修学院(しゅがくいん)」があったからだという。だから、「修学院離宮」は正しくは「しゅがくいんりきゅう」と呼ばれている。離宮へは音羽川沿いの離宮道を東へと進む。比叡山の懐に進むという感じである。自由には入れない離宮だが、過去一度予約をとって拝観させてもらったことがある。どんな印象を受けたかさえ忘れた昔である。
〈鷺ノ森神社 参道〉
離宮を左に見て、さらに音羽川沿いを歩く。夜間、闇の中をたった一匹の蛍が水平に飛行した光景を思い出す。と、右手に「曼殊院」への坂がある。「曼殊院」へは、一乗寺からの曼殊院道を進むなり、金福寺あたりから詩仙堂そして圓光寺を経るくねくね道を辿るなり、あるいは離宮道の一筋南を同じように東に進んで「鷺ノ森神社」の参道から森を抜けて武田薬品の農園の坂道を上るなりと幾つものルートがとれる。それぞれに面白い。春の桜、秋の紅葉を求めるならば鷺ノ森神社を通り抜けたい。この界隈は、よく犬を連れ、いや犬に連れられて散歩にきたものだった。
〈曼殊院 正面が勅使門〉
天台宗の門跡寺院である「曼殊院」は、山懐に抱かれたとっても魅力的な佇まいのなかにあり、四季それぞれに表情がある。坂を登り切って現れる勅使門、その両脇には下部を苔に覆われた土塀と石垣が広がる。見た途端に気持ちが浄化される。そして枯山水の庭園は飽かず眺めることができる。何だろう、“穏やかな日常”を曼殊院には思う。
〈曼殊院 勅使門脇〉
音羽川の堰堤が見えてくる。それらの堰堤が整備される以前、この小さな一級河川音羽川もよく洪水を起こしたらしい。「川」がつく町名が多いのも暴れん坊川の名残なのかもしれない。実際、僕が学生時代に鉄砲水で土石流が発生し、人家が押しつぶされて亡くなった方がいた。
〈雲母坂登山口〉
堰堤の手前に左に折れる登山道が現れる。「雲母(きらら)坂」である。白川砂と同じ花崗岩質の土地で、雲母が含まれるからの呼称であると思っていたが諸説あるようだ。京の朝廷の勅使が延暦寺に向かう道から「勅使坂」とも呼ばれてもいた。また、延暦寺の千日回峰行に励む行者の「赤山禅院」や京都大回りの道筋にもなる。何度か登ったが、案外と道は急勾配で狭く、荒れていて登り辛かった記憶がある。途中の水飲対陣跡(南北朝の内乱期、後醍醐天皇側の千種忠顕が足利直義と対陣し、この地で果てた)で、赤山禅院を北へ過ぎた檜峠からの登山道と合流するが、そちらの沢(梅谷)沿いの方が道幅は広く明るく緩やかである。そして、その道は百十余年前に夏目漱石が小説「虞美人草」の取材で比叡山へと登った道でもあったらしい。その折に漱石が立ち寄ったという修学院山端(ばな)の「平八茶屋」は四百数十年の歴史を今も刻んでいる。大原街道沿いにある茶屋の名物麦飯とろろを漱石も食したのだろう。小説「虞美人草」では、ふたりの青年を八瀬の方から比叡山に登らせている。
堰堤近くでアケビを見つけ、もいで食べたことがあった。今でも見つけられるかなあ。
※檜峠下に、「修光学園」と道を挟んで僕の「学び舎『峠下』」という小さなフリースクールがあります。
〈赤山禅院〉
修学院の駅に戻る。北山通を西に歩くと古くからの和菓子屋を角にして南北に走る道筋がある。新田街道と呼ぶが、その先の高野川沿いの川端通りが開かれるまでのメインストリートであったらしい。狭い道幅のなかバスの往来もあったと聞く。なるほどと思わせる風情がその通りにはあるように思える。北は川端通りと合流して終わるのだが、そこに先の「平八茶屋」がある。大原街道でもあるのだが、そこからは日本海へとつながる「若狭街道」あるいは「鯖街道」ともなるのだろう。白川通りが開かれたのはずっとずっと後のことだ。
〈平八茶屋〉
下に高野川が流れる松ヶ崎橋を渡ってすぐに右手斜めに岐れる道がやはり旧道であり、歩き進むと何とはなしの懐かしさを覚える。両側を水路が流れ、今でもザリガニ獲りをする子供の姿をたまに眼にすることがある。「松ヶ崎大黒天」も五山送り火の「妙法」もこの旧道とともにあるのだろう。この松ヶ崎だが、これもどうでもいい話かもしれないが、宮本輝に『にぎやかな天地』という発酵食品をめぐる小説があって、その主人公が松ヶ崎のマンションに住まいし糠漬けに凝る場面があった。彼はどうして松ヶ崎に住んだのか。松ヶ崎と発酵食品、違和感はない。
〈松ヶ崎大黒天 裏山斜面に“法”が〉
松ヶ崎大黒天は「妙円寺」という日蓮宗の寺である。寺そのものは江戸時代に創建されたものだが、以前からこの地は日蓮宗(法華宗)の影響を強く受けていたのではないだろうか。戦国時代に起こった天文法華の乱という天台宗と法華宗の武力衝突の舞台のひとつでもあったようだ。振り仰げば比叡山、延暦寺がある。天台宗も法華宗も法華経を第一義としている。骨肉相食むとしか言いようがない宗派間の争いである。異宗教間の争いも然りと思う。そこには必ず世俗的な要因が内在する。
近年、松ヶ崎には地下鉄の駅が設けられた。もう少し東にあったなら、叡電修学院駅にも近くなり、より利便性がよかったのではないかと思うのだが。
〈松ヶ崎から仰ぐ比叡山〉









