「元田中」駅 E02
〈元田中駅 ※昔は対面にホームがあった〉
叡電が走る左京区一帯は、京都市に編入される明治時代の半ばまでは「愛宕(おたぎ)郡」の下にあった。元田中は愛宕郡田中村であり、修学院は愛宕郡修学院村、岩倉も愛宕郡岩倉村のように。不思議に思い調べようとは思っているのだが、京都市の西にある愛宕山は「あたご」山と読み、同じ漢字なのにどうして「おたぎ」郡と読むのだろう。そういえば愛宕山の麓に「愛宕念仏寺」があるが、これは「おたぎ」念仏寺と読む。
ググってみた。百科事典なんかがなくてもキー操作ひとつで調べることができるのはありがたい。でも、明確な答えは得られなかった。総合して思うには、西の愛宕山麓一帯(化野・あだしの)も、東の清水寺がある鳥辺野(愛宕郡に含まれていた)も古代から葬送の地であった。蓮台野(紫野)と併せて京都の三大葬送地である。「おたぎ」にも「あたご」にもその意味合いが含まれており、「おたぎ」の言葉の方がやや古いらしい。それがやがて「あたご」の音に変化したというのだ。愛宕山が「おたぎやま」と呼ばれたこともあったそうな。漢字は後付けで、於多木なんかの表記もかつてはみられる。明治の郡域では、愛宕山のある嵯峨野一帯は葛野(かどの)郡に入るから愛宕山の存在との直接の関連性は低い。共に葬送の地をもつ東と西で、地名としての呼び名が「おたぎ」「あたご」になったのだろうか。確としたことは不明だが、面白い。
〈「叡電交叉」 ※昔、市電が乗り入れた〉
叡電の元田中駅だが、市電が東大路を走っていたころ、市電にも元田中の停留所があった。でも、『次は元田中ぁ~元田中ぁ~、叡電交叉前ぇ~』ってアナウンスされていたのではないかなあ。確かに、叡電は東大路をやや斜めに交差するが、ことさらの言い回しに少々違和感を覚え、やがて知った。
1949年(昭和24年)に、市電が元田中駅で叡電の路線に乗り入れたのだ。当時、宝ヶ池駅近くにあった市営の競輪場(現在は「子供の楽園」となっている。このちょっとしたアイロニー!)へと利用客を運ぶためであり、競輪が開催される日に限ってのことであったという。1955年(昭和30年)まで乗り入れは続いたとのこと。1978年(昭和53年)に市電が廃止となるが、そのころまで市電の乗り入れの名残となる渡り線の一部が確かに露出していた記憶がある。
〈御蔭通〉
駅から東大路をちょっと下がった(南行する)ところに、「田中里の前」の交差点がある。そこから東方向を見ると、気持ちよいほど真っ直ぐに道が延びている。僕の好きな通りのひとつ「御蔭(みかげ)通」だ。下賀茂神社の「糺(ただす)の森」をかすめ、「御蔭橋」で高野川を渡り、田中里の前で東大路、北白川別当で白川通りと交差し、北白川仕伏(しぶせ)町で荒神口を起点とする旧志賀越道にあたる。左折して、そこから府道30号下鴨大津線、一般にいわゆる「山中越え」となる。
〈北白川仕伏町 ※正面の通りが旧志賀越え道 〉
山中越えというと、単純に山中を越える道と思ってしまうが、昭和9年に今のルートができるまでは、大津市山中町を通る道であったのだ。だからこその山中越えなのだろう。山中町の歴史は古く、壬申の乱(672年)のころに遡るらしい。中世には関銭を徴収するための山中関も置かれたという。忘れてしまったけれど、太平記だったか、明智光秀なんかに関わる本だったか、山中衆がひとつの勢力として描かれていたような。地勢学的にみて、さもありなんと思う。
〈山中町〉
その山中町への入口はルート途中に標識が出ている。「一般車両侵入禁止」の看板が掲げられていたので、控えめに訪ねたことがある。素敵な街道沿いの山村集落である。凝縮された時間、閑(しずか)な佇まいの中にある、そんな印象を受けた。「一般車両……」の掲示も首肯できる。
やがてルートは比叡山ドライブウェイの入り口がある「田の谷峠」を越して近江神宮(大津)に下りる。
〈田の谷峠、比叡山ドライブウェイ入り口〉
「山中越え」すなわち「志賀越え」だが、その名もずばり『志賀越みち』というタイトルの伊集院静氏の小説がある。志賀越道を経て東京からやってきた学生と祇園の舞妓との恋愛小説だ。時代は昭和30年代を背景としている。詳しいストーリーは措くとして、しきたり厳しい「祇園」のことや京都の処々の風景、行事の描写なんかが繊細でなかなかいい。洛北の「芹生(せりょう)」の里や「五条楽園」と推測する旧遊郭も仕掛けとして登場する。少々の不自然さはあっても、さすがは作家だなって感心してしまう。では、この小説にあって「志賀越みち」のタイトルは、何のメタファーになっているのだろうか。自分なりにいろいろと解釈してみるのも面白い。
元田中の駅を離れます。
※追記:「志賀越え道」が京の七口のひとつ「荒神口」を起点とし、北白川仕伏町から山中を越える(山中越え)道ということはすでに触れた。地形図を携え見ながら、北白川仕伏町からその道を下がってみる。やがて白川通りにぶつかる。向かいのワールドコーヒーの店の横を南西方向に道が続く。その道はやがて、今出川通りの「子安観世音(太閤の石仏)」という高さ2メートルの石仏の前にでる。かつての白川村の入り口にあたる場所という。白川村というと、古代より花の行商をしていた「白川女(め)」を思い浮かべる。だからだろうか、いつ来てもこの石仏にはお花が供えられている。でも、ここが「志賀越え道」にあたるとは以前は知らなかった。そこで途切れたその先の道筋を地形図で想像してみると、どうやら京大の構内を東一条に抜けるようだ。東大路を渡ると西に進む一条通り、やや南西に向かう道筋がある。後者の道が「子安観世音」までの「志賀越え道」と自然につながる。そして、鴨川の荒神橋を渡り、荒神口に至る。ということを、週に二日ほど通う仕事場の事務局長さんに話してみたところ、京大構内に「志賀越え道」が通っていたことはその通りだとの応えを得た。
そこで、読ませていただいた『京大百年』(1997年 京都大学発行)に記されていたことを抜き出し要約する。幕末動乱期一躍政争の中心地になった京都には多くの志士や浪人、藩士らが集まった。各藩では藩士らを滞在させるための新たな屋敷が必要となり、白川村や吉田村にも次々と藩邸が建てられた。そして、尾張藩が今の京大本部構内にあたる地に屋敷を構える結果、「斜めの道」は分断されてしまった。藩邸はやがて第三高等学校や大学の用地と変遷する。以上のようなことであり、地図上でも分断された「斜めの道」は、今は京大本部構内に眠っているのだ。
〈子安観世音(太閤の石仏)〉






