何か副題をつけようとしたけど思いつかない。以前、「嵐電」の駅名からあれこれ書いてみたことがあったが、今回はまたもや独り善がりの「叡電」版だ。でもそれは、僕の叡電へのオマージュでもある。

 叡電の始発駅「出町柳」駅から出発進行!

 

 

「出町柳」駅

 

 駅舎の外観は昔と変わったが、ホームが三つ並ぶ内部はほぼ変わらずにある。通勤客、観光客のみならず、それ以上に多くの学生たちも乗り降りした駅だ。駅からほぼ1㎞圏内に京大、同志社、立命館、府立医大などの大学があり、叡電沿線には学生たちの寮や下宿、アパートがそれこそ数多くあったものだ。やがて、立命館は学舎を衣笠や草津に移し、同志社も多くを田辺に移した。ずっと以前に比べると、出町柳の駅を利用する学生の割合は減っただろう。それでも三条までであった京阪電車が延伸し結ばれたことで大阪までの時間的距離も短くなり、新たな利用層も生まれたに違いない。経営母体が変わったとしても、叡電は叡電としてこれからも走り続けるのだ。市電が無くなっても、京都には東に叡電が、西には兄弟分の嵐電が走る。

 

(右、出町商店街入り口  左、「ふたば」の行列)

 

 駅名の出町柳は出町と柳町が合するところから名付けられたらしい。柳は上柳町、下柳町の地名が今も駅東方に残る。ちなみに駅前を左に「百万遍」まで続く道を柳通りという。出町は駅の西方で、駅を出て右に高野川にかかる「河合橋」を渡り、さらに鴨川をまたぐ「出町橋」を渡ると、その名も「出町(桝形)商店街」という古くからの店が並ぶ通りがある。入り口近くには、いつもお客さんが並んで絶えない豆餅の老舗もある。出町は、旧御土居の「大原口」があったから、その出たところの町からなのかな。大原口は若狭につながる「鯖街道」のひとつの起点でもある。

 

(高野川にかかる河合橋から)

 

 鴨川(ここより上流は賀茂川と表記される)と高野川が合流するところにいわゆる「鴨川デルタ(三角州)」のエリアがあり、近年「亀石」とかの飛び石が両川に置かれたりもして人々の憩いの場となっている。ただ、個人的には三角州というと川が海などに注ぐ河口につくられるものと思うから、そのエリアの呼称に少々違和感を抱くのだが。まあ、形から(それだって逆さまなのだが)そう呼んでいるのだろう。その北側は、「下鴨神社」の広い森に続いている。

 

(出町橋から賀茂川と賀茂大橋)

 

 すぐ南に見える大きな橋が今出川通りにある「賀茂大橋」。橋上をかつては市電も走っていた。この橋からは、「五山の送り火」の五山全てが眺められるということで、その夜は人々が押し寄せたものだ。もう一つ南の橋は「荒神橋」で河原町通の「荒神口」から続く。口とあれば御土居。御土居の跡が近くの紫式部ゆかりの寺でもある「蘆山寺」境内に今も残る。寺町通り沿いにあるのだが、向かいは広大な「京都御所」だ。荒神口は、おそらく東の滋賀近江へと抜ける「志賀越え道」の起点なのかもしれない。節分会で多くの人を集める「吉田神社」のある吉田山の麓を巡り、やがて白川に沿って山手に歩を進めるのだが、二万五千分の一の地形図や広域地図なんかを広げながら、この道かあの路かと想像すると楽しいし、古い時代にタイムスリップしてみたいなとも思う。

 

(上、真如堂  下、萩の花に足を止めたお寺)

 

 その吉田山の東側一帯は「神楽岡」というが、旧制三高があった古くから文人墨客の住まいする地であったらしい。たとえば「茂庵」へと向かう坂道をたどってみても、彼らが好むところの結構趣のある民家を今日も目にすることができる。そこからは「真如堂」の三重塔が見え、大文字も眺められる。大文字の麓には「銀閣寺」があり、「哲学の道」が「法然院」「若王子神社」「永観堂」、さらに南の「南禅寺」への間を結んでいる。側を流れるのは琵琶湖疎水の分流だ。どの季節に訪ねてもよい。四季折々の表情を見ることができるし、あるいは訪問者のその時々の心情を映し出してもくれる。哲学の道でいつか眼にした蛍は、代を繋いで今年の夏も飛んだのだろうか。

 

(哲学の道)

(法然院)

(南禅寺三門)

 

 だからかなあ、文学の世界にもこの一帯はよく登場する。中川与一の『天の夕顔』には神楽岡が。十代の頃に読んで大筋は忘れたが、昇華された男女の愛に感動を覚えた記憶はある。

手元に京都新聞社が30年前に発行した『京都 現代文学の舞台』(河野仁昭著)がある。目次を開いてみると、洛東の項に 野間宏と銀閣寺道界隈―「暗い絵」 竹内勝太郎と法然院―「木々の手紙」 大岡昇平と哲学の道―「黒髪」 田宮虎彦と黒谷―「比叡おろし」 谷崎潤一郎と南禅寺―「月と狂言師」 菊池寛と疎水―「身投げ救助業」 など、この界隈を舞台とした作品が列挙されている。なかには遠い昔に読んだ本もあり、読み返してみたいなとも思う。他に、一時期岡崎にも住んだ五木寛之は、その地を「燃える秋」に登場させているし、松本清張は「球形の荒野」に相応しい南禅寺三門を作中に描いている。近々では万城目学「鴨川ホルモー」や森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」などの作品があるが、僕には読み続けるにつらいものがあった。読む者の好みなんだと思う。好みでいうならば、「ゲルマニウムの夜」で芥川賞を受賞した花村萬月『百万遍』に僕は、強烈なインパクトを受けた。

 

(上、知恩寺と下、百万遍の交差点)

 

 百万遍とは出町柳駅前を左斜めに走る柳通りを進むと突き当たる、東大路通りと今出川通りが交差するところ。その北東角に浄土宗の「百万遍 知恩寺」があり、その百万遍の号に由来している。正式な地名ではないのだが、百万遍といえば京大がある所として知れ渡る場所だ。その百万遍をタイトルにした花村萬月氏の大部な小説の後半は、1970年代初頭の京都が背景となっている。ちょうど僕自身が京都にやってきて学生時代を過ごす頃である。運賃25円の市電(市バスは30円)がまだ市内を縦横に走っていた。作中の主人公惟朔と僕は、時間と空間を一時共有したわけだ。でも、そこにあっての惟朔青年の生きざまは凄まじい。ややもすると畏怖どころか憧憬の念さえ抱いてしまう。内容はさておいて、作中には当時の京都が随所に描かれている。市電もそうだが、例えば河原町今出川にあった三信衣料。確かに、ジーパンだけでなく米軍放出品なんかも扱っていた。寺町今出川「ほんやら洞」のコーヒーはいっぱい180円。荒神口「しぁんくれーる」、聖護院山王町「YAMATOYA」もその名を現す。ハイライトはひと箱80円。当時をしっかりと思い起こさせてくれる描写に溢れている。もちろん廃れてしまったものもあれば、今も残るものもある。だから、何度となく読み返してしまう。でも、なぜ花村氏はこの作品のタイトルに百万遍と名付けたのだろう。主人公惟朔は潜り込んだ京大の吉田寮を一時塒とするが、そんなことだけからではないだろう。過去、現在そして未来永劫繰り返される人間の業というものを、百万遍の響きから僕は感じてしまう。

週に二日ほど百万遍近くのとある施設で働いている僕は、百万遍の交差点をバイクで通り抜けようとするたびに、行きかう若者のなかに惟朔を見ようとしている。

 

(神楽岡からの大文字) 

 

 さて、この辺りからも大文字がとても近くによく見える。五山の送り火では、闇夜に浮かぶ「大」を多くの人が見上げる。では、「大」から見下ろしてみてはどうだろう。

 大文字火床は主峰如意ヶ嶽(472m)の中腹にあり、案外と容易に火床に行くことができる。銀閣寺山門手前の参道を左に折れ、朝鮮中高級学校脇を過ぎ、しばらく林道を歩むと右手に登り口の標識がある。そこからは大人の脚で30分ほどだろうか、大の横一の火床に着く。そこに開ける光景は是非とも体験して味わっていただきたいなと思う。そして、昼間以上に感動的なのは夜景だ。過去に三度ほど、職場の若者を案内したことがあるが、どの回も最後の石段は顔を上げずに下を向いたまま登るように指示した。石段を登り切って顔を上げた彼らは一様に歓声をあげた。僕も嬉しかった。彼らは、誰かと一緒にまた大文字を登っただろうか。そして再び喜びを共有しただろうか。