(備中国分寺 晩秋)

 

 前回に続いて、どうしても紹介したい作文がある。そして、一人でも多くの子どもたちにも読んでほしいのだが、そういう機会は作れないものだろうか。

 

  「天国の父」

         二年 矢野和美

 私は父の顔を知らない。私の父は私が生まれてまもなく戦場に出て行った。そして私が三つの時一度帰って来た。でもそれは戦争が終わって帰って来たのではない。他の兵隊を迎えに内地に帰って来たのである。それでも祖父や母は喜んで私を連れて京都駅まで父を迎えに行った。その時父はフィリピンから色々なおみやげを持って帰った。そして二十日程家にいた父に私はずいぶん甘えたそうである。自転車に乗せてもらって人形を買いに行ったり、公園で一緒に遊んだり……。しかし二十日位はすぐにすんでしまって、父は再び戦場へ出かけて行った。その時から私は人に「お父ちゃんは?」と聞かれる度に「五つになったら帰らはる」と言っていたそうだ。そしてやがて五つになった元日に母が「和美ちゃん五つになったんえ」と言って起こしに来てくれた。その時私は目を開けるなり「お父ちゃんは?」と聞いたそうだ。母は私のその言葉を聞いて目頭が熱くなったと言っている。父は私の言葉通りには帰って来なかった。そしてとうとう父は昭和一九年か二〇年に戦死したのである。

 その知らせがあったのは私が小学校一年の時であった。その時私は母と一緒に本願寺へ父の遺骨を取りに行った。母は涙を流していたが、私は訳が分からず一人でハトを見て喜んでいた。その時は父が死んだということもそんなに悲しくはなかったのであろう。でも今はわけも分かり、他の人がお父さんと一緒に楽しく暮らしているのを見る時、一人我が身の淋しさが胸いっぱいにこみ上げて来るのを感じることさえある。母は今働きに出ているが、一年程前から体の具合がよくないと言って困っている。父さえ生きていたら、いや戦争さえなかったら、母は今こんな苦労をしなくてもすむのに……。

 私は父に買ってもらった靴や人形を、今も尚大切に持っている。戦争で親や兄弟を失った人は、私だけではなく他にもたくさんあることだろう。肉親を失ったその悲しみも漸くうすれ、日本の国にもやっと明るい平和がおとずれようとしている。もうどんなことがあっても、二度とこんな悲惨なことはくり返したくない。戦争なんかで親を失うのは私達だけでたくさんである。私はいつもそう思っている。

 父はきっとどこか私の知らない天国で、いつも私達を見守っていてくださることだろう。

 

 作文の作者は、現在は八十歳を超えておられる。哀しみを胸裏に秘めながらも、きっと力強く己が人生を歩んでこられたのだと思う。

 戦争について語った文章は数多くある。決して大声で叫ぶわけではない少女の語りに、むしろ、人が起こす戦争の愚を強く思わざるにはいられない。

 

 冒頭に、「そういう機会は作れないものだろうか」と書いた。その時代を残すということは、何も歴史の表舞台に限ったことではない。市井の、名もない民の、声なき声や思いを留めることこそが大切なのではないだろうか。そのためにも、例えば今回引用させてもらった生徒会誌など、時とともに失われることは是が非でも避けたい。教育委員会、音頭をとってほしい。駄目だろうなあ…