信州の峠を歩く

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大人の遠足

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「本能寺の変」と 老ノ坂峠 (再編集)

 

 日本史最大のミステリーは  「本能寺の変」だという。

今年の NHK大河ドラマ「麒麟が来る」のクライマックスでもある。

 天正10年6月2日(1582年7月1日) 早朝に起ったこの事件は 未だ多くの謎がある。その謎は 後年種々雑多な証言から派生したものだが その謎解きも 同じくそれらの証言をつなぎ合わせたもので 推測の域を出ない。

 

 ここに一つの証言がある。

山に囲まれた京都は 古くからその時の為政者が 軍事上の防衛ラインを敷いており、山越えにかかる峠は その重要拠点とされていた。 その一つ 老ノ坂峠は 山陰道上にあり 亀山とを結んで 京都の西方の最終防衛ラインとされていた。 6月2日未明 この峠を越えて京に迫るの大軍の動向を 本能寺に知らせた者がいたとの証言である。

 獲った若鮎を本能寺に納めに来た漁師が 帰り際に告げた。「面妖な事ゆえお知らせいたしますが、老ノ坂を越えて こちらに向かう軍勢がおります。 皆 甲冑で身を固め 万全の戦闘態勢にて・・・  京に上る人を 手当たりしだい斬り殺しております。  大将は明智様との事。 いささか様子が・・・」 聞いた賄い役は一様に首をかしげたが 結局 この情報は台所役人に手元に置かれ 信長には伝わらなかった。前日は公家たちの来訪客が多く 深夜 上機嫌で床に就いた信長を起こすことは 誰も出来なかったらしい。 信長は この日早朝 門外の騒音で目を覚ましている。当初は家来同士の喧嘩だと思っていたという。

      【老ノ坂峠 頂上付近】

    標高230m  大枝山の北に位置し かつては「おおえのさか」と呼ばれていたが 後に

      「おいのさか」に変化した。 明治以降 4代目のトンネルが開通している。 旧峠道は 廃道と

      なっているようだが 歩きでの通行は可能? 機会があれば 訪れてみたい峠だ。

 

 この話は 江戸時代に編纂された「嘉良喜随筆」に出てくる話で 信憑性に乏しい。しかし 味方軍とはいえ下剋上の世の中、さらに深夜とはいえ老ノ坂峠という防衛ラインを突破してくる1万3千もの大軍の動向を 織田方が全く掴めなかったというのも信じ難い。側近は(その目的は分からなかったが) 少なくとも 明智軍の行動は ある程度承知していたと考えられる。この話は その傍証の一つか?

『峠に関する二、三の考察』Ⅴ 柳田國男

 

   「六 峠の趣味」より抜粋

 自分の空想は 一つ峠会というものを組織し、山岳会の向こうを張り、夏季休暇には徽章か何かをつけて 珍しい峠を越え、その報告をしゃれた文章で発表させることである。

 何峠の 表7分の六の左側に 雪が電車の屋根に残っていたなどというと、そりゃ愉快だったろうなどと仲間で喝采するのである。さぞかし人望のない入会希望者の少ない会になるであろう。

 👈【昭和49年結成の信州峠会】

 

 冗談は 抜きにして 峠のない旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいといっても、曲がり角から先の路の附け方を、想像するだけでも楽しみがある。峠の茶屋は 両方の平野の文明が、半(なかば)は争い 半は調和している所である。殊に 気分の移り方が面白い。さらに 下りとなれば 何のことはない、成長して行く快い夢である。頂上は 風が強く 笹がちで鳥屋(とや)の跡などがある。少し下れば 枯木沢山の原始林、それから 植えた林、桑畑と麦畠、辻堂と二,三の人家、鶏と子供、木の橋、小さな田、水車、商人の荷車、寺藪、小学校のある村と耕地と町。 こんなのが先ず 普通である。

 だから 峠の一方の側が急なら 急な方から上り、表と裏とあれば 裏の方から昇って、緩々(かんかん)と水に沿うて下って来るように路順をこしらえることを力めねばならぬ。

 

 筑波神社の宝物に 唐人の絵巻がある。開けば巻頭には、奥山の岩本清水、青蘿白雲(せいらはくうん)猿の声も聞ゆるような風景である。この水が段々と集まって淵を為し、松と岩の間を行くと、樵夫が徒渉(としょう)し、隠者が腰を掛けている。次には 渓の処に樵夫の来た径があり、人家があって 牛が行き、更に漁舟を浮かべている者があり、橋が架かって車が渡り、橋の下までは 帆をかけた船がのぼり、堤が低くなって 水田が広く見え、城壁の下を流れて都府に入れば、岸には 子供が集まって軽業師の芸を見ている。 狗(いぬ)が尾を振っている。 柳があって青楼(せいろう)が列(つらな)り、その先は即ち河口の港で、遠洋から帰った軍艦商船が 碇(いかり)を卸しているという趣向である。 絵巻物のない国の人には 解し得られない興味である。

 しかし 絵なれば高々二十尺、二十五尺の絹の上の変化であるが、天然は更に豊かである。 同じ一つの峠路でも、時代及び人の生活、季節晴雨のかわるごとに、日ごとに 色々の絵巻を我々に示して尽きないのである。

                             《終わり》

『峠に関する二、三の考察』Ⅳ 柳田國男

 

   「五 峠の裏と表」より抜粋

 旅人は 誰でも心づくべきことである。 頂上に来て立ち止まると 必ず今まで吹かなかった風が吹く。 テムぺラメント(気質・性情)が からりと変わる。 単に 日の色や 陰陽の違うのみならず、山路の光景が 丸で違っている。

  

 見下す村里は かえって左右よく似ておっても、一方の平地が他の一方より高いとか 一方の山側は急傾斜で 他の一方は緩であるとかいうことが著しく眼につく。これは火山国だから殊にそうなのであろう。 それのみならず 人の仕業の裏表というものが、大抵の峠にはある。麓から頂上までの路は 色々と曲折しておっても、結局 これを甲乙の二種に分類することが出来る。

 一言にして言えば、 甲種は 水の音の近い山道、乙種は 水の音の遠い山路である。 前者は 頂上に近くなって急に険しくなる路、後者は 麓に近い部分が独り険しい路である。 一は 低く道をつけて 力(つと)めて川筋を離れまいとする故に、何度も谷水を渡らねばならぬ。 他の一は この煩いはないが その代り見下せば千仞の云々と形容すべき、桟道 または 岨路を行かねばならぬ。 峠に由っては 甲種と甲種、または 乙種と乙種とを結び付けたのもある。殊に新道に至っては 前にもいう通り、乙種のものが多いけれども、古くからの峠ならば 一方は甲種  他方は乙種である。これを自分は峠の裏表というのである。

  【塩尻峠より諏訪湖を望む / 諏訪湖は陥没湖である。湖側に急峻な地形をつくっている 】

 

  表口というのは 登りに開いた路で、裏口というのは 降りに開いた 乙種の路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展開すべき相応の高さに達するまでは、川筋に離れては路に迷うが故に、出来るだけその岸を行くわけであるが、いざこれから下りとなれば、麓の平地に目標を付けておいて、それを見ながら下る方が便である。

 

 日本国の峠の数は 大小1万ばかりもあるであろう。誰か 統計を取って表を作って見る篤志家はあるまいか。

 

         ≪つづく≫