151年前の今日,会津若松籠城戦が始まった。
151 年前の慶応4 年旧暦8 月23 日,薩長軍が会津若松城下に突入してきた。新暦に直せば,今日がその日である。この2 日前に会津の東部藩境母成峠を急襲突破した薩長軍は、40 キロメートル余りを猛進して,この日の朝に会津若松城下に来襲した。
会津鶴ヶ城
会津若松城からは,城内への避難を呼びかける太鼓が打ち鳴らされた。しかし,籠城の足手まといになることを恐れ,多くの藩士の婦女子達が自刃した。その数は200 を超えるという。なかでも,家老の西郷頼母邸では,籠城戦の兵糧の費えとなるのを憂い,一族21 人が自刃している。
また,殿様のいる御城を目指して退却してきた白虎隊の少年たちは,城下が燃えるのを見て飯森山で自刃したのも,この日であった。
飯盛山から会津鶴ヶ城を望む
飯盛山の白虎隊自刃の地から,会津鶴ヶ城 (赤矢印) を望む
飯盛山中腹にある用水トンネル
白虎隊の少年たちは,この用水トンネルを潜ぐって,退却してきた。
会津藩の洋式胴乱 (弾薬入れ)
胴乱の右にあるポーチは,胴乱のベルトに取り付けられる雷管入れ。
雷管入れの中には,雷管の紛失防止のために,樹皮繊維が入れてある。
会津藩のゲベール銃
はたして,恭順の意を表している会津藩を討つ必要があったのか。会津では戊辰戦争の話をすると雨が降ると言われている。今朝,会津若松市は,気温17 度,鉛色の雲に覆われ空から,冷たい雨が降っている。