川越文学碑・史跡めぐり

 だんごは、川越でも江戸時代から愛されたファストフードだ。

今でも、川越のだんごは、大きくて、歯ごたえがあって、生醤油の

付け焼き、いい匂いがして、つい手が出る食べ物だ。


 川越藩の領地が、大半水田だったので、米の生産が多く

その米は、城下に集められ、取引が盛んだった。明治になっても

近郊の米は川越の米市場で取引され、まちは賑わっていた。


 余った米は、だんごにされ、人々のおやつ代わりやお茶受けに

重宝されて、人気の食べ物だった。


 今、川越のだんごは、1串100円前後で売られているが、本格的な

昔ながらのだんご屋は少なくなって来た。


 さて、だんごは、1串に4個挿されている。江戸の昔、4という数は

死に繋がるとして縁起の悪い数なのに、なぜ1串4個が江戸で

定着したのか、探ってみよう。


 江戸時代、丸めただんごは、1ヶ1文(寛永通宝1枚)の相場だった

ので、1串3ヶでも5ヶでもよかったのた。ところが、明和5年(1768)

寛永通宝1枚で4文の銭が発行された。所謂「4文銭」だ。


 目ざとい江戸商人は、何でも4文銭1個で買える「4文屋」を開いた。

今の100円ショップかな。だから だんごも1串4個でないと都合が

悪いとしで、だんごは1串4個とした。以来だんごは1串4個が

一般的となった。


 1串4個でないだんご、串にささないだんごなどは、また、あとで。


川越文学碑・史跡めぐり  4文銭 裏に11波 
川越文学碑・史跡めぐり  「4文屋」(江戸職人づくし より)


川越文学碑・史跡めぐり

 昭和51年11月1日、NHKの名番組「新日本紀行」「小江戸残照~蔵造りの町川越」の冒頭、絣の着物を着た少女たちが手をつないで、輪を作り「とうりゃんせ、とおりゃんせ・・・」と歌い遊んでいた。

ナレーションは「童謡とうりゃんせ発祥の、ここ川越三芳野神社は」としたので、以来童謡「通りゃんせ」は、川越が発祥の地となった。


 境内に、「童謡発祥の地」の記念碑があり、観光名所にもなって、観光ガイドも「この神社が「通りゃんせ」の天神様です」として、発祥の地が固まって来た。

 

 三芳野神社は、戦後の呼称で、以前は「三芳野天神」、地元とでは「お城の天神様」と親しんでいた。


 歴史はふるい。社伝によれば、創建は奈良時代の大同2年。太田道灌が川越城を造った時、既に神社はあって、この神社を本丸に取り込んで城は完成し、菅原道真公を合祀して三芳野天神をした。


 歴代の川越城主はもとより、将軍家光も崇敬したので、お城の天神様は立派な社殿ともに名高かった。


 城の中、本丸の中の天神様に、お参りするのだから、歌の文句のように、事は難づかしい。江戸時代では、神社のお参りでも、城の本丸に入ることは許されなかった。


 だが、江戸時代文化年間に、この天神様に参拝した人がいた。津田大浄という江戸小石川本法寺のお坊さんで、史跡めぐりが大好きで、江戸近郊まで隈なく歩いた方だ。


 その見聞録「遊歴雑記」によると、年2回正月二月の25日に参拝をゆるした。南大手門から入り、升形から堀に沿って富士見矢倉の前の天神様にお参りした。三芳野天神の外宮での参拝だけが許されていた。


 確かに、長い細い道、城番が眼を光らす。怖い道が通りゃんせの道だったろう。


川越文学碑・史跡めぐり 川越文学碑・史跡めぐり
川越文学碑・史跡めぐり

   『芋せんべい』           『芋まつば』            『芋甘納豆』


川越を代表するの伝統的な お菓子は芋のお菓子だ。

写真の三種類、「芋せんべい」「芋松葉」「芋甘納豆」で サツマイモの形が残っている懐かしいお菓子だ。。


「芋せんべい」は、大きめのいもを 面積が大きくなるよう斜めにスライス。鉄板で焼き、砂糖と蜜を両面に塗って、乾燥させる。

たいへん堅いが、噛むほどに 芋の味が格別だ。


「芋松葉」は 芋を縦に 細く長く切って 油で揚げたもの。細長いことから松の葉に似ているので 名が付けられた。昔はもっと細かった。似ている物に芋ケンピか゜ある。


「芋甘納豆」は 太すぎない芋を 輪切りにして 柔らかくゆで 砂糖をまぶしたもの。

柔らかく甘いので 口当たりも良い。


これらのサツマイモは、「紅東」(べにあづま)が使われている。


川越は、サツマイモと縁が深く、江戸時代から 「栗(九里)より(四里)うまい十三里」

と江戸と川越の関係を呼ばれた。新河岸舟運で 浅草花川戸に運ばれた。


サツマイモの生産は、房総が多かったが、川越の殿様が有名だったので 川越イモが江戸での ブランドになった。


川越芋の生産は、現在「観光芋掘り」程度、江戸時代川越藩だった三富(大井町、所沢の一部)で 良質の芋を栽培し、「富の川越芋」のブランド名で有名だ。


この芋お菓子は、どこの店でも扱われているが、代表的な芋お菓子の店は、東洋堂、芋十、亀屋栄泉が 挙げられる。        

                         
川越文学碑・史跡めぐり 東洋堂

川越文学碑・史跡めぐり 亀屋栄泉


川越文学碑・史跡めぐり                           
                  

             

                




                     

芋十



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 旧川越市街地の地形は平坦のように見えるが、かなりの高低差がある。最も高い所は、札の辻から、川越城本丸を結ぶ線である。一番街の南町から仲町交差点を見るとかなり下がっている。鴫町(現仲町)は南町から見るとかなり低く見える。


蓮馨寺との間に、昔は川が流れており、鴫が飛来したので鴫町(志義町)と呼んだとも言う。


 蓮馨寺は少し高い。その蓮馨寺境内にあった熊野神社から東方面はかなり低地になったいる。すなわち窪地で、不動さん、浮島稲荷方面が最も低い。その町名が久保町、窪の町である。


 北久保、南久保、竪久保の三久保。久保稲荷、いちょう久保などの地名は、地形から発生していると考えられる。


 松江町一丁目のお稲荷さまは、窪の稲荷また出世稲荷として知られ、その参道入口に銀杏の巨木が左右対に聳えており「イチョウ窪の大いちよう」で知られ、市文化財(天然記念物)に指定されている。


大イチョウ



 『いちょう窪の出世稲荷の公孫樹』として名高い。
  向かって右は、幹回り(目通り) 5.67メートル、根回り 7.6メートル
        左は、幹回り(目通り) 7.25メートル、根回り 9.7メートル
  樹高は、ともに、約26.5メートル
  樹歳は、600余年(推定)      
  樹勢は、極めて旺盛。
 川越市指定文化財 天然記念物。 昭和33年3月6日指定。

 所有者 松江町1丁目自治会。



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出世稲荷


  由来   天保2年(1831)地主立川氏屋敷鎮守として京都伏見稲荷大社本宮より分社ものである。
      祭神  宇迦御魂大神
           佐田古彦之大神
           大宮能売ノ大神
         
 「多濃武の雁」(太陽寺盛胤宝歴3年1753)、「三芳野名勝図会」(中島孝昌享和元年1801)によれば、「窪稲荷」の項目と面白い伝承が載せられている。 

以下伝承(意訳)
 
 むかし、雑魚売り長兵衛という男がこの辺に住んでいた。貧しい商いでその日暮らし、そのうえ大酒のみの無法者だったが、この稲荷を信心して、商いに出るとき、必ず稲荷さまに小魚を1,2匹供えてから売りに出かけていた。


 ある時、商いの仕事で桶川に行き、遅くなったので、一泊して、明朝早く出立しようと思っていた明け方、「朝早くここを出ると必ず良くないことがおきるぞ。出立を遅らせよ。」という不思議なお告げの夢を見た。


 夢に従って、ゆっくり出立した長兵衛が見たものは、道端にオオカミに食い殺された娘の無残な姿だった。目もあてられない光景に身震いした長兵衛は、夢のお告げで助かったことを知った。


 これは、普段信心している稲荷さまの擁護であると、益々信心を深め、商いに励み、立派な魚商になったと言う。
 









川越文学碑・史跡めぐり
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東武東上線川越市駅前の道路を北に進むと変形の十字の交差点「駅入口」がある。その交差点に「六角形の県道」のマークに246、下に「川越市停車場線」の標識がある。普通の標識であるが、「停車場」という呼び名は古めかしく、 明治から大正時代を彷彿するレトロな雰囲気があって楽しくなる。


 「埼玉県道246号川越市停車場線」は、「埼玉県道15号川越日高川越線」の「六軒町」交差点から東上線川越市駅前に至る一般県道である。途中交差点「駅入口」を左折して駅に至る。総延長は0.5kmと極端に短い路線である。片側1車線だが、歩道が整備されておらず、歩行、自転車の通行は、車に注意する必要がある


 古い地図によると、昔の入間川街道の一部を通っている。「入間川街道」は、現在の国道16線が無かった時代、川越町と入間川町を結んだ幹線道路であり、現在は旧街道の名が残っている。旧入間川街道は、鴫町(現仲町)の西端を左折、六軒町を南進、「駅入口」をそのまま直進、踏切を越え、やや右に曲がって、西バイバスを超えて直進、入間川(現狭山市)至る道路である。道端には、石仏、寺社など昔を物語る遺産が点在している。


 「川越停車場線」を物語る記念碑『川越町驛碑」が、六軒町六塚稲荷神社の境内に残されている。
碑文の要訳
 六軒町は川越西口の喉元に当たる。入間川、飯能、青梅などの通路になっており、諸々の貨物、人馬の往来など城下町の賑わいは、此処からの出入りでにきわっていた。ところが川越鉄道(現西武鉄道)が開通してから、人、貨物など急激に減少して、この町が廃れたきた。偶々東上鉄道設置の計画があり、町内の有志は、喜び勇み資金を集め五千坪(16500㎡)を同会社に寄付して、駅設置に奔走した。
 此処に「川越町驛」の開設したのが、大正三年五月である。列車は軌道を走り、東京への流通が開け、中、西武州 の物貨も集散しようとしている。この駅開設の努力は末永く伝えるためにこの碑を建つ。
       大正七年六月  逸見宮吉撰


 旧市街地に三つの駅があり、旧人は、この駅を「六軒町の駅」(現川越市駅)と呼ぶ。 


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川越文学碑・史跡めぐり
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 庚申塔は、庚申信仰の記念碑だ。庚申信仰とは、庚申「かのえさる」の日の夜の祭りで、実施される日は、十干、十二支の組み合わせで、60日毎に巡ってくる。


    十干   甲 乙 丙 丁 戊 己  辛 壬 癸
    十二支  子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未  酉 戌 亥


 庚申信仰のいわれは、
 人間の体の中には、三戸(さんし)の虫が住みついており、人間の悪行や邪心を調べている。60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の夜、人間が寝静まったのを見計らって、そっと人から抜け出て、天帝の許へ行く。三戸の虫が住みついている人間の悪行を逐一天帝に報告をする。


天帝は悪行の度合いによって、その人間に災害を与える。それは病気や怪我であったり、災害であったりするので、三戸の虫が天帝のところに行かれて困るのは人間だ。


 三戸の虫が、抜け出す庚申の晩に、人は眠らなければ三戸の虫は出て行けない。天帝への報告も出来ない。したがって災過も無いことになる。


 一人で一晩眠らずに過ごすのは難かしいのて、仲間が集まり、「講」をつくり、集団で一夜を明かす。人が集まれば当然行事があり、談笑や飲食が付くであろう。いわゆる庚申講だ。


 庚申講では、宿や経費、参加者のルールなどのきまりがあった。一同、青面金剛や猿田彦の掛軸の前にお供え物を捧げ、お経を唱えてのち会食をする。後は眠ら

ずに談笑して過ごし、一番鳥が鳴いてお開きになる。


 庚申講は、60日に一回だから、1年に6回行われるので、3年で18回になる。「3年待上げ」「五年十八度成就也」の碑文があり、庚申講実施の記念として庚申塔を建てたのだろう。建碑には相当な費用がかかるので、3年、5年毎の建碑は無かった。川越市内り庚申塔は92基存在する。(「川越の石佛」より)


 川越市の庚申講は、江戸時代前期に盛んだったようだ。市街地の庚申塔の建碑を見ると寛文から元禄期が多い。初期の庚申塔は、造りが丁寧で、各部位が完全に刻まれているが、時代が下がるにつれて、簡略されて、ただ「庚申」の文字のみの塔もある。


 やがて、「塞ぎ神」の要素の取り入れられて、村の辻や村境に建てられていたが、地域の開発に伴い庚申塔も地蔵も馬頭観音も居場所が無く、近くの寺などに移築されているのが現状だ。


 大事に残したい文化遺産と思う。

 
川越文学碑・史跡めぐり 連雀町横丁庚申塔
川越文学碑・史跡めぐり 宮元町妙義神社庚申
川越文学碑・史跡めぐり

川越文学碑・史跡めぐり 末広町妙養寺庚申

川越文学碑・史跡めぐり 脇田町駅西口庚申





川越文学碑・史跡めぐり

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 喜多町に廣済寺という曹洞宗の古刹がある。山門の右手に木造の小さな祠があり、地元で「しやぶきのばば」と呼ばれる、変わった石仏がある。大きさは約1メートルほど、荒縄でグルグル巻きにされている。傍に解かれた荒縄が無造作に散らばっており、小ビンににつめたお茶、豆が供えられている


 石像に違いないか、顔や手足など判らない。ただ人らしく彫ったと思われるほどの石像であるが、200ほど前から、庶民の信仰が厚かったことは、古い記録から伺われる。


「川 越 素 麺」   寛延2年 (1749) の標題は「嚏  姥」 はなひる
「三芳野名勝図会」 享和1年 (1801)  の標題は「嚏婆々塔」 しゃぶきのばばとう
「武蔵風土記稿 」  文政11年 (1828) の標題は「嚏 婆塔」
 
    「嚏」は 「ハナヒル」と読み「くしゃみ」のこと
    「咳」は 「シワブキ」と読み「せき」  のこと


これらの、江戸時代の古典に載っている伝説は次のようなものである。


 元禄の頃であろうか、上州厩橋の生まれという一人の浪人が喜多町に住んでいた。彼は、ある時用事があって外出し、夜も大分更けてから帰って来たが、暗い夜道を歩いていると、浪人の後から誰かが付いてくるような気配がした。


 急いで門の戸を明けて、内へ入ろうとすると、やはり誰かが一緒に入って来た足音がした。見回したが誰もいるような様子が無かったが、明かりを点けて、家の中を見回すと、台所に一つの石があったがあまり気にとめずそのまましておいた。


 翌朝、その石を見ると、石塔のような石だったので、俗家に置くのは、良くないと考え、広済寺納めた。


ところが、誰となく、咳や喘息の病気の時、この石を荒縄でからげ、病気平癒の願を掛けると不思議と効能があるという噂が広まって、願を掛ける人が後を絶たない。願が成就すると縄を解き、豆を煎って供えてお礼をするとよいとされた。


 この伝承と信仰は、咳の神様として、今も続いており、地元で「しゃぶきのばば」と呼ばれ親しまれている。










川越文学碑・史跡めぐり

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仙芳仙人入定塚

 喜多院境内 鐘楼門の東、中院への道を挟んだ反対側の住宅地の中に、「仙芳仙人入定塚」と言わる八角形の塚がある。この塚は、喜多院から離れているが喜多院の飛び地である。塚の上に文化元年(1804)建立と言われる「仙芳仙人入定塚」と刻された立派な記念碑が建っている。


 喜多院の縁起には、次のような記載がある。
往古仙波の辺は海沼なりしが、仙芳眞人法力を以て海水を去り、仏像を安置し、当院の草創とす


 伝承がある
「遠い昔、一人の仙人が、この地に来て、寺を建てようとしたが、あたり一面海が広がって、寺を建てる
土地が見つからない。仙人が困り果てていると、海の主龍神が現れて
 「何かお困りのようだが・・・・・」
 「拙僧、寺を建てようと思うが、寺の敷地が無いので、いかかがしたものか・・・・」
 「して、その寺の敷地の広さは如何程かな」
 「欲は申うさぬ、私の衣の広さほどでよいのだが」
 「承知した、御坊の衣を広げなされ、そこだけ水を引いて進ぜよう。その地に寺をお建てなさい。」
忝いと仙人は衣を脱いで、さつと広げると、衣はみるみる広がって、海の水はあっと言う間に引け、広い土地が出来上がった。こうして出来た土地を仙人と波から仙波と云う。そして建てれた寺が喜多院の前身、無量寿寺だと言う。


 棲みかを失った龍神を憐れんだ仙人は、仙波下に龍神池を造り龍神のすみかとして安堵し、そのほとりに弁財天を祭った。今でも、その池と弁財天が残っている。


 いまから約7千年前の縄文時代、古東京湾は仙波付近まで海進しており、海水があった。武蔵野台地に沿って、南に上福岡、鶴瀬、水子に貝塚遺跡があり、その北端に仙波貝塚(市指定文化財)がある。 
こうしたことから、海にかかわる伝承が残っていると思われる。喜多院の最大なお堂は「潮音殿」と呼ぶ。


 また、仙波一帯は、6世紀と考えられる地方豪族首長の古墳が多い。慈眼堂、日枝神社、愛宕などで代表される古墳の一つがこの仙芳仙人入定塚と考えられる。


 遠古の川越を物語る一つである 



川越文学碑・史跡めぐり
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川越文学碑・史跡めぐり

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珍らしい、藩政時代の奴(武士の下僕)の墓が、一番街の法善寺に現存し、大事に保存されている。


 この寺は自然山宝林院法善寺と称し、浄土真宗大谷派に属し、開山良海は天文18年(1549)入寂というから、今から450年前に創建されている古刹である。旧地は城内あり、今の地に移ったのは寺の消失で 詳しいことは判らない。また、本堂は西向きである。普通、本堂は南か東向きが一般的で西向きは少なく、北向きは珍しい。


 寺の境内に入ると、本堂の右手、墓地の入口に、簡単な上屋があって、その中に立派な裃姿で、右足を組み酒樽にどっか腰をかけ、左手に大きな鉢をもった石像がある。奴髷を結っているので、江戸時代の奴の像と判る。


 この石像は古いもので、寛延2年(1749)に板倉良矩が書いた「川越素麺」に載せられている。それによると、奴は松平伊豆守信綱が川越城主だった時、家臣石川作右衛門が召し使っていた下僕で瀬川嘉右衛門である。奴は上総(現千葉県)の生まれで縁あって川越に移住し、元禄6年(1693)1月16日死亡、法名は浄徳。


 この嘉右衛門、姓格は生まれつき剛強で、大の酒好き、酒さえあれば肴は何でもよかった。書には「あらゆる生き物を食うこと、ひとえに人倫の業をはなれ、生冷成物、禽獣腐肉もいとわず」とある。この悪食さは、すざまじいもので、たちまち城下の名物となり、いつしか人呼んで虫食い奴呼ばれるようになった。


 この嘉右衛門は川越に無縁者だったので、生存中にみずから、自分の奴の姿を石に刻んで墓を建てた。やがて奴の墓として城下で有名になった。行年何歳だったかは判らない。


 この奴の墓は、安永年間(1772~81)法善寺が火災に逢った時崩れ、「今はない」と中島孝昌が享和元年(1801)に刊行した「三芳野名勝図会」に記載されている。その後、像は再建され、現在の「奴の墓」は、台座の墓誌銘から享和3年(1803)再建されたことが判る。奴の墓は2代目である。









   


小江戸川越文学碑めぐり

小江戸川越文学碑めぐり







所在地 川越市鯨井(名細地区)

《碑表》   名細第一土地改良区記念の碑


  伝 承    吾等は遠都祖先よリ此の地を
          継承し 報恩感謝以て努力し
          愛護しきたれり これを後世児孫に
          伝承す 冀くは時世に順応しつつ
          長久に保持されんことを

       万葉集に


    名細き 稲見の海の おき津浪


      千重にかくりぬ 山跡島根は


 この万葉の歌は、万葉集巻三 柿本人麻呂が筑紫国に下るとき
海路にて作る歌二首の内とある。


 「名細き」は「なくわしき」で 美しい、名高いの枕詞
 稲見は、兵庫県印南郡高砂市から明石市にかけての平野の呼び名。


『名細』の村名の由来


 「新名ヲ名細ト名付ハ、該村タルヤ数ケ村ノ合併ニシテ 何レモ小村ニシテ
敢エテ大小ナキニヨリ、大村名ニ採ルカ又ハ参互折衷スル能ハザレバ、歴史上
著名ナルカ又ハ該村々ニ於イテ保存置キタキ名称之アレバ 古老等問イ申ヘキ
旨 戸長ニ命ジタルニ、該地方ヲ賞賛シタル古歌ノ枕詞ヲ取リテ 斯クハ名付度
旨申シ出タリ」   (川越市合併史稿)