※(日付を記事投稿日に変更しました)
孝蔵さんのテープは、間違いなく私の娘との会話ですし、当時の両者を知る人多数も認めています。
何を訴訟に持ち込むのか知りませんが、会話の内容は、「元夫婦の他愛も無い会話」であり、2番目の奥様が「村下孝蔵の名前を出さないでください」とお願いしたというだけのことです。
娘がブログ「雪待月」で、あれこれ嘘を書いてさえなかったら、大した内容ではありません。
都合の悪いことには蓋をして、目先を変えて行く・・・詭弁です。
私の方も訴えてはどうでしょうか?
この程度のことで、法的手段を取ると言うのなら、孝蔵さんとの離婚の時に、なぜ、法的手段を取ることができかったのでしょうか?。村下家に追い出されたのが事実であれば、このような些末な事ではありません。「自分と子供の人生」がかかっています。娘にとっては「孝蔵さんとの別離」よりも、ネットに上げられた「他愛も無い会話」が問題のようです。協議離婚であったことは、公文書に記されています。
さて、詭弁に付き合っていると本筋を外れてしまいますが、もう少しだけ指摘します。
「雪待月」2021-06-09 「露菜です 叔父と夏子さんのブログの件」 において
相変わらず、第三者の孫を出して、見苦しい言い訳をしています。
「奇岑とY子が養子縁組のことで喧嘩していた」とのことですが
養女?養子になることで揉めてはいません。
この時点では入籍や養子縁組の話は出ていませんから、この話も作り話です。ネガティヴに誘導するために、孫が言った事にして嘘の個人情報を流していますね。養子をネガティヴに捉えているのは娘ぐらいのものでしょう。
当時、国会でも夫婦別姓が議題に上がっていたこともあり、当初は事実婚のみで、入籍せずに法改正を待つ方針でした。
披露宴では、法曹関係者の多い友人たちのスピーチでこの件についても言及があります。
2000年、結婚式をした年の夏、相手側のお母様が多発性の肝臓癌であることがわかり秋に手術しましたが、悪性でもあり切除しきれませんでした。
手術後、余命の判明したお母様のたっての願いで、女系の横山の性を継ぐ事になりました。お母様は2年後に他界されています。
ちなみに横山家の家長は代々養子です。私に反対する理由はありません。船田の姓は、長男がしっかり継いでいます。
同年10月4日に法的に縁組と婚姻をしています。
その後、ことあるごとに娘はヒステリックにそのことを非難しています。
孫たちも使って、仏壇の花が枯れているとか、ありとあらゆる事に難癖をつけるようになりました。戦前の家督相続とかの時代ではないのに、屋台骨を支えてきた奇岑に噛みつくのです。
ブログ文中
「会場で、母はシンガーソングライターのHさんと立ち話をしていました。
彼は、父が再婚することが決まった時に私達に電話で連絡をくれた方です。」
というのも作り話ですね。
Hさんはデビュー当時ロック御三家と言われていた方で、奇岑個人の親友です。
広島フォーク村は関係がないですし、孝蔵さんとも面識がある程度、個人的付き合いはありません。娘の連絡先も知りません。
「東京でSさんに会った時のこと」など、娘の妄想的な攻撃は奇岑について特に顕著であり異常なほどネガティブに誘導するよう表現します。
第三者が奇岑のことを悪く言っていると、何度聞かされたことか。
また、優子の誘導で、私に意見した人もいましたが、結局娘の嘘であり、娘が思っていることを第三者に置き換えて言っていることが後に判明しています。
自分の意見を堂々と言わず、自身の子供や他人の口を借りて言い、
正当な意見をされても、自分の意にそぐわないと無視して、嘘でも強引に押し通す。
我が娘ながら・・・です。
ブログ「雪待月」は、コメント欄と孫の名前を使って読者を誘導しています。
現実社会では北海道新聞社のH記者がその役割です。
北海道新聞社H記者のインタビューメモや展覧会関係者へのメールでは、
船田玉樹の代表作「花の夕」についての記述が多く見られます。
すべて、私「辰子がそう言った」ことになっていて、録音もあると主張しています。
娘と同じ言い回しで、こちらの言うことには聞く耳を持ちません。
同様に悪質です。
(以下H記者の配布したインタビューメモと展覧会関係者とのメールのやり取りの報告)
娘は、私が娘のところに滞在していた2014年3月頃から、「奇岑が花の夕の月を黒く改変してしまった」と大騒ぎし始めました。
娘のブログ「雪待月」でも
2014-03-30 今ちょっとミステリー
2014-04-03 お月様事件+コメント
において
「京都国立近代美術館では白かった月が黒くなっている。おかしい。本の白い月は、この絵から」と書いています。
同時期に長男のところへ「私に黙って絵を広げて画集と比べる写真」付きで、「京都国立近代美術館では白かったのに、今は黒くなってしまって変である。加筆されたに違いない。」と打診。
私が娘宅に滞在している間に勝手に開いて写真を撮ったようです。
長男からは、「京都国立近代美術館の時も変色はある。光の関係で、そう見えるだけ。最初から銀だったと思う。」と写真付きでそっけなく返信されてます。
これらのことは、長男から奇岑に「2014年3月末にY子より花の夕の加筆の問題が出され、さやか経由でY子宛に送ったメールを転送します。」と報告が来ているので、リンクしておきます。
その後も弁護士からの通知書、H氏の各方面への文書、メールなどでしつこく「花の夕」について言及し、
驚いたことに、裁判でも「奇岑が改変したと辰子が言っていた。」とネットから拾った画像付きで出して来ました。
2015年2月、奇岑に送られた通知書では「花の夕」の月が黒く変色していると私が話したので気がついたとか書いてあります。
平成25年2013年12月から2014年4月頃までの間だそうです。実際の滞在は12月末日から明けて平成26年4月8日までです。
2015年6月、北海道新聞社H記者が各方面に配布した文書においても、私が語ったとする「花の夕」関連の記述があります。
インタビューしたという日付は2013年11月17日です。
私が「花の夕」について語ったとする二つの文書ですが、日付も経緯も異なります。
文書が送付された時期は「私が語ったから初めて気がついた」とする通知書の方が先ですが、「私が語ったとする日付」は後に配布されたインタビューメモの方が早いです。
2015年2月に娘が出した通知書「2014年初頭に初めて辰子が花の夕に言及」
2015年6月にH氏が配布した文書「2013年11月17日に辰子とY子が花の夕に言及」
この二つの交差した矛盾する日付は、H記者が娘の言うままに動いていることの証拠であり、インタビューした録音を正確に起こしたと言うインタビューメモは、捏造である根拠の一つです。
次は、私が自宅を引き払う作業をしているときに、H記者からかかってきた電話のやり取りです。
3分から4分の間に「あなたの発言がICレコーダーに記録されている。聞かせます。」との内容です。身内や関係者に対するメールや、詰問でも録音があると言っていますが、未だに開示されていません。
脅迫的な物言いも含めて、H記者は品格という言葉を知らないようです。
その後も激しいやり取りの末に11分40秒あたりで「退去が遅れるごとに一日10万円いただく」とかヤクザのような物言いです。
名前を出さないようにカットしてありますが北海道新聞社H記者がいかに私に対して精神的暴力を振るっているかの証拠です。
平成26年、奇岑は娘に付き合ったために不動産と老後の蓄えを失った私のため、また、作品の散逸を防ぐために、
私の所有する玉樹の作品等と附随する権利一式を相続とか贈与ではなく金銭売買で正式に購入しています。
弁護士に作成してもらった売買契約書も交わし、税金も払っています。
娘が主張する(ブログ父、船田玉樹 2021年02月24日16《雑記 母辰子》)文中でも、私が言ったこととして、奇岑のことをあれこれ書き込んでいます。第三者が言ったことにすれば、自分は責任を取らなくても良いということのようです。
和解して墨絵の半分をもらったというのですが、すでに所有権は奇岑にあり裁判所も認めていました。
刻印その他は奇岑に返却され、利害関係者である奇岑も確認の上、形見分けに絵を分けたということで公文書化されています。
ブログの文章は明らかに奇岑に対する名誉毀損であり、業務妨害です。
また、その後、奇岑は順次落ち着き先を検討しながら美術館へ寄贈しています。
「花の夕」も平成29年に東京国立近代美術館へ寄贈しました。
春先は毎年企画展示に出てくるようで、娘のブログでも宣伝していましたから、ご存知の方も多いことでしょう。
奇岑に対しては、黒く改変したと言いがかりをつけ、都合によって何事も無かったかのように自己宣伝に使っています。
「焦げついた嘘を正したい」のであれば、練馬区美術館や朝日新聞社などと同様に北海道新聞社H記者と共に美術館へ乗り込んで、
「奇岑の改変であり、元の月は白かった」と主張すべきでしょう。
現物がそこにあり専門職もいるのですから、銀ではなくチタンを使った白であったなら奇岑の非を追求するのは簡単なはずです。
また、私が「月が黒くなったと怒っている録音」があるのなら、
東京国立近代美術館の主要収蔵作品に関することでもあり、北海道新聞社でスクープ記事にすべき案件です。
私がH記者にインタビューされた時期は、娘が騒ぎ出す5ヶ月も前のことです。
これらのことからも録音があるというインタビューメモなる文書が捏造であるかがお分かりになると思います。
北海道新聞社H記者がいかに娘に加担しているか・・・これが立派な賞も受賞された高名な新聞記者とは。
呆れてしまいます。
北海道新聞社にはコンプライアンス意識というものがないのでしょうか?
この写真は、奇岑の画室にて、寄贈のために美術館から派遣された日通の美術品専門チームが梱包する時のものです。
以下の資料は、1991年広島現代美術館での企画展のポスターです。
玉樹もこの展示初日までは生きていました。
当時は長らく家のリビングにも掲示していました。
どう見ても月は白ではなく変色して黒っぽくなった銀色です。
私が「月は白かったのに奇岑が改変した」とか言うはずもありません。
娘と同様に「私の名を使って奇岑のあら探しをする」北海道新聞社H記者の行動は異常としか言えません。
北海道新聞社はH記者と私辰子や平田先生、奇岑などとの会話を録音したデータを開示すべきです。

















