ホテルのロビーを後にしてスロープを歩いて下る。
今日も長い会議がようやく終わった。せめて食事くらいは外に出たい。
もう辺りはすっかり夕闇のなか。
豪奢な門灯が無数に灯っている。まるで王宮の様だ。
むわっとした湿気と海の香りもする。
さすが海の真ん前のホテルだ。
エアコンで冷えきった身体には心地よい。
Good Evening,Sir!
インドの民族衣装を着たガードマン。立派な口髭を蓄えた口で笑い、重そうな門を開けてくれる。
が、一歩門の外に出ると、そこは全くの別世界。
道路は亀裂や陥没だらけ。排水溝も無いらしく朝の雨の残りがまだ大きな水溜りになって残っている。
そして、強烈な匂いのオンパレード。土、埃、排水、排気ガス、そのうえインド独特の匂いがする。やはりこれも香辛料だろう。鼻腔に粘りつく様なしつこさだ。
目の前にトタン屋根の掘っ立て小屋が2軒ある。酷くオンボロで形もゆがんでいる。あんなに傾いていて大丈夫なんだろうか。どちらも飲み物や煙草などを売っているようだ。
そこに群がる人達の身なりは、さっきそこでロビーから高級車に乗り込んでいた人達とは全く違う。
多くがサンダルで髪はボサボサである。
ゆっくりと煙草に火を付ける。
時間はたっぷりある。
さて、どうしたものだろうか。
突っ立っていると、向こうから甲高い排気音が聞こえてくる。
かつてバンコクでよく目にした”トゥクトゥク”。これは、ムンバイでは”リキシャー”というらしい。スーパーカブの様な小さなバイクの後部にお客を乗せられる様に無理やりシートや覆いをくっ付けたものだ。小回りは効くが、排気ガスは吸い放題、という代物である。
暗闇のなかから、ライトも付けずにリキシャーが次から次へとやってきては、お客を乗せて次からまた次へ闇の中へと消えていく。
煙をくゆらせながら、その黒い弧の様な流れを眺める。
すると、横で若い女性がリキシャーの運転手と大声で何やら掛け合い始めた。細身で小柄な女性だ。
値段の交渉だろうか。
何となく眺めているとそのジーンズ姿の脚の長い女性と眼があった。
「あなたはどこへ行くの?」
「え?いや、さっきホテルのコンシエに教えてもらったこのレストランに行くつもりなんだけど。。」
ハッとするような美人である。タレントのローラに似ているが、彼女より顔立ちが整っている。
思わず、たじろいだ。
今度は、私の差し出したメモを持って彼女は運転手と大声で掛け合っている。どうやら、このレストランへ行けと言ってくれているようだ。
やりとりがしばらく続いた後、静かになった。
話をまとめてくれたようである。
礼を言うと、
「もし良かったら私も一緒に乗せてもらっていいかしら、このレストランは家の近くなのよ。」
!!もちろん、I Never Mind ! というよりWelcomeだよ!
リキシャーで眼の前の人並みを追い越す。海沿いの夜風を全身に浴びながら走る。心地良い。
私の横にはさっきの美女が座っている。街明かりに薄く照らされて浮かび上がる彼女の横顔につい見とれてしまう。
すぐに前を向く。猥雑なはずの辺りの街並みが淡く映り、幻想的に見える。不思議だ。
そんな事を思っていると、彼女から話しかけてきた。
聞けば、彼女は私が投宿しているホテルの従業員で、今ようやく仕事を終えて会社の寮へ帰るところだという。
お客さんに乗せてもらってごめんね、とちょっとバツが悪そうに可愛く笑う。
そして、私は貴方をホテルで見たわ、韓国人だと思ってたのに日本人なのね、と悪戯っぽく笑う。
まだ、とてもあどけない。透き通るような笑顔だ。心がすーっと洗われる。
彼女は美女というより、美少女。それもそのはず、まだ20歳だそうだ。
セミロングのカールが掛かった髪を掻き分けながら、クリクリとしたよく笑う眼で話しかけてくる。
彼女の故郷はインドのかなり田舎。
去年学業を終えて、今年からムンバイへ一人で出てきてこのホテルで働いているそうだ。
よほど優秀でないとそんな田舎からこんな高級ホテルに就職できないだろう。
彼女は英語もとても流暢だ。
じゃあ、勉強頑張ったんだね、
というと照れくさそうに笑って返す。
すると暗闇が幾分明るくなり、通りに幾つか商店らしきものが見えてきた。
そろそろ着く頃だろうか。
運転手も場所が分からないらしく、彼女は通行人に目的のレストランの場所を大声でしきりに聞いてくれている。
でも今はもう少しだけ、この少女と話をしていたい。
リキシャーのスピードが上がる。
風が一気に強まった。
辺りの景色が慌ただしく駆け抜けていく。
彼女に話しかける。聞こえないようだ。耳に口を近づけて話しかける。彼女もこちらの耳に口を近付けて話しかけてくる。
料理、休日、と他愛も無い話をひとしきりした後、ふいに口にしてしまった。
そうかぁ、じゃあ半年ならそろそろ一人暮らしに慣れてきた頃だね。
ええ、大分慣れてきたわ、、、でも、、、
ここには働きに来たわけだから、友達はそんなに出来てないわ
彼女は、そう言って寂しく笑った。
しまった、と思った。
おそらく遊ぶ金も節約して実家に仕送りでもしているのだろう。もうそれ以上は聞けなかった。
次はいつ田舎に帰るの、とも聞けない。
そんなに遠くては滅多に帰れないだろう。
大丈夫、じきに沢山友達が出来るよ、君はしっかりしているし優しいから
何たって美人だから、すぐに素敵なボーイフレンドが沢山出来るさ
そう言うのが精一杯だった。
レストランに着いた。西洋風の洗練された冷たい雰囲気の建物だ。
リキシャーを降りながら聞いてみた。
ところで食事は済ませたかな?もし済んでいなかったら、話相手になって貰えると嬉しいな。一人で取る食事はどうにも味気なくてね。
彼女は、びっくりしていた。
そして、しばらく考え込んだ後、もう勤め先で夕食は済ませたし、私はお酒は飲まないの、と丁重に断られた。
そうか、お酒を飲めないんじゃ苦痛だね。じゃあ、残念だけど、ここでお別れだ。
それと、こんな暗い夜道を君みたいな綺麗な娘さんが一人で歩いて帰るのは物騒だから、これで帰りなさい
そう言って運賃を多めに彼女に渡した。
多め、といっても日本ではバスにも乗れない金額だ。
彼女は恐縮して受け取らない、いえ、貴方は私のお客様だから受け取れないわ、などと大きく手を振っている。
その様子がまた可笑しくて可愛い。まだ子供っぽいのだ。
いや、君のお陰でこのレストランに着けたんだ。
ありがとう、助かったよ。
これは感謝のしるしだから受け取って欲しいな。
それに、僕も君も仕事を終えた後に会ったんだ
だから、僕達は単なる友達。そうだろう?
笑ってそう話しかけると、彼女は優しく微笑みながら頷き、ようやく受け取ってくれた。これで安心だ
OK、あなたは友達よ。だから飲みすぎないようにね。帰り道は気をつけて。ありがとう!
そう言いながら可愛く手を振る彼女を乗せて、リキシャーは遠くへ消えていった。
レストランに入り夜景が見える二階のテラス席に座った。下には猥雑としたムンバイの街並みが広がっている。
その夜のビールは、いつにも増してほんのりと苦かった。

