入学式の季節で、我が家の次女と三女がそれぞれ高校と中学校に入学した。お祝い返しとして「内祝い」を配る時に驚かされたことがある。それは贈答品の包装のことだ。

 まず驚いたのが、妻に頼まれて近所のショッピングセンターで商品券を購入した際だ。「熨斗は要りません」と告げたところ、少し厚手のケースに商品券を入れ、包装紙に包まずにケースの裏をテープで留めただけで渡されたのである。

 次に驚いたのは、老舗和菓子屋の洋館をデパートで買った時のことである。四月から箱入りのようかんは包装紙を省略し、熨斗をつける場合は箱に貼り付けるというのである。以前は熨斗が外から見えないように包装紙の中につける「内熨斗」の選択ができた。

 私も普通の商品の過剰包装はやめるべきだと思っているが、贈答品は別だと思う。包装も立派な日本文化である。やみくもな簡易包装は見直した方が良いと思う。(東海市・男性・51歳・公務員)



だそうです。


この男性・・・もうかなり時代に遅れているように思います。職業が公務員だと書かれているからこう思うのかもしれませんが、いかにも公務員っぽい体裁主義って感じです。


今時、もらう方も過剰包装には辟易するんです。ゴミが増えるし。簡易包装されている贈答品をもらうと、過剰包装を断る方なんだと、送り主の印象が良くなります。今時の過剰包装のままの贈答品をもらうと、その品のお店はそういう主義か、送り主がこういう(過剰包装好きの見栄っ張り)なんだと思っていしまいます。


内熨斗だろうが外から見えようが、こういう簡易包装の時代ですね、と手渡しするならば話題にすればよい。もちろん、殺伐とした時代ということではなく、無駄がなくなりいいですよね、という話題にすればよいと思う。そこからいい雰囲気の会話になるだろう。


きっとこの男性は、文化がどうのこうのとか、何でもすればいいモンではないとか説教くさいことになるのだろう・・・。


文化は時代と共に変化するから文化であるのだということが理解できないのだろうか?


使い捨てレジ袋も文化だから残せと言えるのだろうか(笑)



 レジ袋の有料化が浸透し、エコバッグ持参が当たり前になっている。私もエコバッグを持ち歩いている。

 先日、ドラッグストアで買い物をしたときのこと。その前に寄ったスーパーでバッグを使ってしまったので持ちあわせがなった。

 そこで店員にレジ袋は要らないので、買った商品をこのまま車に持っていっていいかと尋ねたところ、カゴの持ちだしはダメですときっぱりと断わられ、十点近くの商品にテープを張られた。

 私は仕方なくカバンに入るもの以外は手持ちで何度も商品を落としそうになりながら車まで運んだ。

 私は店のカゴを持ち帰る気はないし、レジ袋も要らない。他のお客様を待たせてまで無駄な時間とテープを費やす、その対応に疑問を感じた。

 私たち消費者にとって気持ちよく店を利用できるような対応を求めたい。(愛知県阿久比町・女性・パート・36歳)



だそうです


なんでそこまで店の人と他の周囲のお客さんに迷惑かけまくって自分もストレス溜めてまで、一枚たったの5円のレジ袋を購入するのが嫌だったんでしょう。


むしろ、5円をケチって、そこまでやるオバハンって、周囲の客にとってどこまでせこくて自分のことしか考えてないんだろうと、大ひんしゅくだったろうなぁ、と思う。


この人が言う「消費者」って、自分だけのことなんだろうな(笑)。


最後の一文も、よくある典型的な、お客様は神様だろと客自身が思うという、大勘違い!(笑)。お客様は神様です、は店側がそう思うぐらい対応を良くしようという心であって、客側が主張するための言葉ではないってことなのに。この女性、モンペになってそう・・・・。


ちなみに、エコバッグ持ち歩いてても、予備として緊急用に使用済みレジ袋をたたんでいくつか持っているけどね。それに、忘れた、使ってしまった場合は諦めて5円だもん、買うと思うんだけど・・・・。今度からはもっとたくさん持ち歩こうっていい教訓になるしね。この人はもう教訓になったかもしれない、いや、ムカついただけで終わったかな?(笑)




 市指定の四十五リットル用のゴミ袋をホームセンターへ買いに行きました。同じ種類、同じ大きさ、同じ枚数でも、同じ売り場で私の市の指定と、隣の市の指定とで値段差があります。

 レジ係りの女性も「なぜか分かりませんが、値段は違います」と。環境、二酸化炭素対策の必需品で、安い方がありがたいです。自治体によって違うのでしょうが、指定袋を使えというなら、袋を業者から購入し、店で売るまでの費用を公開して欲しいです。(一宮市・男性・65歳)



だそうです


指定ゴミ袋の値段には、ゴミ収集・処理の費用負担ということで、原価はあまり関係ないと思います。岐阜県の高山市などでは、ゴミの収集と処理値段が高いためにゴミ袋が相当高いと聞きます。たぶん税収が少ないんでしょうね。


それと、ゴミ問題は税金では賄えないようになってしまったというものらしいですね。安全とお水とゴミはただという感覚は昭和で終焉を迎えたと思います。


なので、自治体の経済的体力によって指定ゴミ袋の値段が違うのはしょうがないですね・・・。ゴミ収集・処理の値段なのですから・・・。それと、ゴミ袋を高額にすることによって、ゴミを出さないという意識を高める効果も狙っていると思います。高価なゴミ袋をバンバンと使わないようにゴミ自体を少なくしようと頑張りますからね。


私の住んでいる市では、昔は普通の指定のゴミ袋だったのですが、その形状がレジ袋のように、上部を縛れる、取っ手もある形状へと変わりました。その方がたくさん入るんです。それまでは、やはりなるべくたくさんゴミ袋にめいっぱいまでゴミを押し込みたくて、上部を縛るやり方だとゴミ袋に入れられる容量がかなり減ってしまっていたので、多くの人がゴミをめいっぱいまで入れてガムテープで留めるやり方をしてました。


おそらく、ガムテープが無駄だというクレームがあったのでしょうし、ごみ収集の立場からも、持つことろが無いというクレームも来たのでしょう。今は容量分ちゃんと入り、なおかつ縛って持つところも確保できるレジ袋型になりました。


しかし、よく思うのですが、指定にするのはゴミ処理費用を負担してもらうためのアイデアだとは思いますが、本当にゴミを少なくしたいのなら、指定ゴミ袋というゴミを作るのではなく、指定シールを作るだけでよいのだと思います。


可燃で言えば、ゴミ袋にするのは燃やしてもよい素材であればどんなものでもよく、ゴミを出す際に、市指定のゴミシールをそれに貼れば良いことにすればいいのに、と思う。5センチ程度の大きさのシールなら、ゴミ袋一枚よりもゴミとしても小さく、安価でできるのではないだろうか。実際に大型ゴミ・粗大ゴミなどは指定シールでやっているのだから、日常の可燃ごみや不燃ごみでもできるだろう。


たいていの家庭には、紙袋や、レジ袋以外の何らかの買い物でもらった袋があって、その処理に手を焼いていると思う。そういった袋が無い人は、市販のどの自治体でも使える半透明や透明のゴミ袋を買えば良いし、それにシールを貼ればよいだけだろう。


引越しなどで指定のゴミ袋の買い置き、余分、が無駄になることも多い。さすがに使えないからと新品の袋をそのまま廃棄する人も少ないだろうが・・・。


投書者の、市によって値段が違うゴミ袋・・・は、自治体によるゴミ処理費用の違いでもあるでしょうが、絶対にそこはなんらかの役所とゴミ袋業者との癒着はあるだろうなと思うし、本当のごみ減量は考えていないだろうと思う。本当に考えているとしたら、お役所の人というのはなんともお粗末な頭しか無いのかと思う。

5つ前の記事「高校中退 」の記事に対する投書がありました。



 本欄の記事を読みました。私は高校中退です。通い続けたくても通えない人々は気の毒ですが、義務教育でもない高校や大学を卒業していないと、ろくな就職もできないという社会自体が間違っていると思います。

 私は若い頃、トイレ清掃の仕事を職安で見つけましたが、高卒でないとという理由で面接も受けられませんでした。また、年配の男性が「中卒の女性が大卒に嫁にもらってもらえてよかった」と話しているのを聞いたとき、今だこんな頭の固い人がいるのだと思いました。どうやら社会全体にこうした差別が根付いているようです。

 義務教育以上の学校へ通うか田舎は本人の自由のはずです。よほど高度な専門知識を要する仕事にでも就こうという人でない限り、人を差別してまで重要視するものではありません。

 また、行った学校により、その人となりが決まってしまう、分かってしまうほど人は単純ではありません。「低学歴」の人が、それを理由に人生においてさまざまなチャンスを奪われることがあってはならないとならないのです。(岐阜市・たぶん女性・29歳・家事手伝い)



だそうです


この投書が60歳以上の方の意見なら少しはわかりますが、この投書、29歳の若者の意見です。家事手伝いという職業なのでおそらく女性だと思いますが(実名から性別を判断するのが難しいお名前)、29歳の時代背景で高校中退だとすると、確率的に言えば家庭の経済状況というよりも、本人の勉強する意思や態度なのどの問題で「低学歴」ではないでしょうか。


人は不利を経験しないと、それが不利な立場であるということはわからないほどバカな生き物ではないはずです。情報がこれほど発達していて、中卒や高卒はどんな就職であっても、不利であるということはわかりきった「常識」です。不利な立場になってから文句を言っては遅いのです。


この時代高校中退じゃ何にもできないと、高校の教師などは一言言わなかったのでしょうか?親も何か言わなかったのでしょうか?昔も今もこれからも、学歴は就職と結婚において中心的に重要な審査基準です。今さらですし、今後も変わりはないでしょう。


「低学歴」を理由に差別とありますが、学歴は人を見る上で簡単で客観的な基準なのです。そういう役割を持つ性質のものなのです。学歴を持たない人生を選んだのなら、学歴が関係ない社会(業界)に身をおくべきなのです。確率的に、「低学歴」の人が会社などにおいて、仕事上と人間関係上で役に立つかどうか、みんな経験的にわかっているのです。なので、営利を求める会社は避けるのです。


学歴は専門的な知識を学ぶだけのところではないと誰もがわかっているのですが、この投書者は知らないのでしょう・・・。


高い学歴(この投書者にしてみると高卒以上)は差別の理由であってはいけないとありますが、それは差別ではなく、客観的な事実です。高校に入学するのには、お金さえあれば行けるものではありません、受験を突破するだけの知識とやる気と努力と忍耐が必要なのです。大学も、それ以上も、学校のレベルもそれを表すものであって、学歴は資格なのです。勉強をする姿勢とか社会における学歴の意味と重要性を認知するというのはその人となりを少なからず表すものとなるでしょう。


この投書内容だけからでも、この投書者の人となりが見えてくるような気がします。


資格があるとないとではできる仕事が変わります。それだけのことなのです。トイレ清掃の仕事だってその会社からすれば中卒では仕事の内容が理解できないのではないかと条件を設けただけの話です。事実、中卒の方と話すと、言葉の意味の解説に時間の多くを割かなければならない状態で話がまったく先に進めないということが多いです。高度な専門知識以前の、そういう手間隙を避けて業務をスムースに行うための最低限度が、今の社会では高卒なのでしょう。50年も前ならそれが中卒だったかもしれません。


この方、本当に20代なのでしょうか?



 卒業式の時期がすぎていろいろな学校の式を拝見しましたが、最近は「仰げば尊し」を歌わない学校が増えてきたと思います。卒業式を厳粛な式というよりも、お祭り気分で行っているように思えて仕方ありません。

 「仰げば尊し」の歌からはいつも昔の自分の卒業式を思い出しますが、最近は全然聞いた記憶が無いのが本当に残念です。「仰げば尊しわが師の恩・・・」-この歌を歌うと先生を尊敬し、感謝の気持ちがわいてきます。

 毎年、これを歌うことにより先生は尊敬される立場にあると自覚し、生徒は尊敬の気持ちを学ぶのではないでしょうか。

 卒業式に歌を選択できるのはいいのかもしれませんが、形式というものを外れてしまうような気がします。形式を重んじる方が文化を見直すのに良いのではないでしょうか。(名古屋市・男性・52歳・会社員)



だそうです



私はどの学校でも尊敬に値する先生がいたかというとかなり疑問です。小学校・中学校に関しては、自分がいい年の大人になった今だもって、当時の教師の理不尽かつ不可解な横暴や暴言や暴力(体罰)には恨んでいることがあります。当時の教師の年齢を超え、その当時の時代背景などを考慮してみても、あれはかなりのキ○ガイ沙汰ではなかったのだろうかという教師が多くいました。


小学校・中学校では、卒業する自分に感慨はあっても、教師に感謝と尊敬の気分は全くありませんでした。むしろ、やっとこれで関係が終わる!と喜びひとしおだった記憶があります。


幼い頃の教師へのうらみを持つ人は少なくないです。むしろ多いと思います。私の周囲に聞いてみただけでも、ほぼ全員が今でも許せない教師の記憶がありました。年月を経ても、考えるだけ無駄だと存在を否定するほどの価値しかない教師がたくさんいるのだなと思いました。


形式的に歌ってもいいけど、そんなものからは感謝や尊敬の念は生まれません。そんな歌で何年間にわたる教師からの理不尽な言動をチャラにしろといわれても・・・・。チャラにしろといわれているようなもんだとしか思えませんでした。


高校以降は、義務教育が終わったからか、教師に恵まれ、本当に感謝感謝で卒業式を迎えた記憶があります。


全員がそうだとは思いませんが、今の教師のふがいなさを見ていると、本当に感謝や尊敬に値しないんだと思います。


教師というものが嫌いな私には、申し訳ないけどリスペクト(尊敬する・敬う)して欲しいなら、そういう教師になってから言えという感じです。