当時の農民たちは、生活を安定させるため、農業生産力を増大させようと努力した訳ですが、

それに最も必要だったのは、稲作に不可欠な用水の確保だった訳です。



江戸時代の主な増石(農作物の取れ高の増大)は川除という河川工事によるものでした。


まず、以前から土手が所々決壊し、洪水が発生していた田布施川において、貞享4年(1687)の2月11日〜4月28日の間に川除が行なわれました。

田布施、波野、麻郷辺りがよく被災していた川除前の洪水では、もちろん農作物が大きく減収となっており、特に波野の地家田では、毎年どこかが被災する状況でした。


さらに、享保5年(1720)には、大洪水の時に3つに分流して被害をもたらす当時の状況を改善するため、

川土手の高さを2間半に揃えて、大水が出ても新川に流れ込むように改修されました。



こうして、徐々に生活用水との安全な関係を作りこみ、徐々に農業生産性を高めていった訳ですね。




更には、当時は山の利用についても重要であり、農民たちが薪炭として用いる下木の採集や、農作物の草肥の最終にも必要とされていました。


萩藩では山を4つに大別していました。


御立山・・・藩直営の山で、軍事、土木、建築材料などの自給、販売材の採取、もしくは保安のために設立された。

御預山・・・藩府から藩工が借用していた山のこと。

合壁山・・・農民の私有林のこと。山立銀という課税があったため、『立銀山』とも呼ばれていた。

山野・・・詳細は不明なものの、所有概念のない出入自由の山であった可能性が高い。


このように帰属先が決まっていた一面はあるものの、下木の採集や枯木の伐採などは御立山でも認められており、用材を買い取ることも出来ました。

そして、何より山野の存在が最も重要であったのではないかと予測されます。



このように、農民の生産力が命であったこの時代においては、農業生産性の向上を目指した施策が中心に取られました。


当たり前っちゃあ当たり前ですが、その時代時代で大切なことを仲間としっかり捉えながら、未来への継続性を追求していきたいものですね。





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