古代からの暗号 仁徳天皇と星川健彦を繋ぐ太陽の道(天道)。
日本の皇統は万世一系で世界に類例のない古い王統が続いていると伝承されて来たが、戦後の学会では応神天皇あるいは仁徳天皇の新王朝説が出てきたものの具体的なストーリイを描くには至っていない。ところが応神天皇の太子であった菟治稚郎子は星川建彦の反乱によって命を奪われ、仁徳王朝が始まったという秘伝の存在を知りました。星川建彦とは都祁の星川郷に本貫を持つ秦氏系・葛城氏系(自説ではクルグズ族=国栖族)の出自らしいと分かりましたが、超巨大な古墳に葬られた仁徳天皇を支えた人々の実体を知りたいと思いました。 星川建彦の本貫の大和の都祁村には桜井市の巻向山(弓月岳)の南麓を通る道のほかに天理市から都祁村の白石に通じる「都祁山の道」があり、そこには白石明神と称する国津神社(祭神・大国魂命)があり別称として<九頭(くず)大明神>とも呼ばれていました。(出羽弘明著『新羅神と日本古代史』)私は<秋の七草の暗号>で<葛>とは<吉野の葛=国栖・国主・国巣>であると解いており、<九頭大明神>はそれを証明するものと思いました。また、『古事記の応神天皇条-国栖の歌』では 「品陀の日の御子 大雀 大雀 佩かせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」 (ホムタの日の御子であるオオサザキ命の腰につけている太刀は、本のほうは鋭い剣で、末の方には霊威 が揺れ動いている。冬の枯れ木の下に生えた木のように、さやさやと揺れていることよ。 ) 「樫の生に 横臼を作り 横臼に醸みし大御酒 うまらに 聞こしもち飲せ まろが父」 (樫の木の原に横臼を作り、その横臼でかもした大御酒をおいしく召し上がれ、わが親方さんよ。)この国栖の歌は、大雀命(仁徳天皇)との間柄を親しみを込めて<まろが父>と呼び掛けており、国栖族の長が天皇になった事を寿いで歌ったものと思いました。 出羽弘明氏の本(「」部分)には、この部族の特徴が記されていますので紹介します。「白石明神の御神体は<白石>だが<新羅>が<白石>に転訛したと考えられている。」朝鮮半島の新羅から渡来した人々はかなりの規模だったと見え大和の都祁が、伊賀では(三重)では拓殖となり、美濃国では土岐、摂津国では闘鶏野と表記されており「都祁」は「ツゲ、トキ」と読まれ、「トキ」は「闘鶏」とも表記されるが、何れも<迎日・日の出>を意味します。この部族の特徴は「太陽神信仰を持つ種族が南方から南韓国に来て新羅国の闘鶏野に住んだ。闘鶏野の前には迎日湾が開けて いて、東方海上の彼方には日本がある。新羅国の闘鶏野は慶州迎日(ヨンイル)湾に臨む。吐含山の山頂 近くの前方後円式の石窟庵には石仏釈迦如来像があり、春分の光が洞窟内のお顔に当たるように設計され ており<迎日>の由来になっている。」「『三国遺事』の延烏郎・細烏女の物語すなわち新羅八代阿達羅王の四年、延烏郎・細烏女の夫婦が巌に乗 り日本に来た・・・・王に奉った・・・・新羅は日月の光を失い・・・・新羅王は使者の持ち帰った細絹 を祭ったところ日月はもとのように光輝いた。絹を国宝とし、祭天所を迎日県または都祁野といった。と 言う説話は、新羅の日神信仰の伝承である。<新羅国の氏族が渡来し日本で王になった>という。」<新羅国の氏族が渡来し日本で王になった>という伝承が事実なら<仁徳天皇>かもしれない、それなら仁徳天皇の宮のあった兎我野や難波・河内に新羅の迎日信仰(日神信仰)の足跡を探し出すことによって、仁徳天皇の実像が分かると思いました。 仁徳天皇の宮地は都祁=迎日(日の出)の祭祀場があったと推定されている南渡辺の地であろう。谷川健一編『日本の神々』では「この新羅の都祁野と同じ地名が菟餓(都下)野であり,都下国造が祀る坐摩(いかすり・ざま)神社の所在地である。」といい、『住吉大社神代記』は「坐摩の神は住吉の大神の御魂」と記載しており、坐摩の神と住吉の大神は同体と言われ、住吉の大神が最初に示現し、祭祀を受けた場所は坐摩の神の鎮座地であるという。出羽弘明著『新羅神と日本古代史』によると「新羅の迎日信仰を今に伝えているのは、生駒山系にある<高安山>の中腹に鎮座する<岩戸神社>と<天照大神神社>があり、新羅系の神を祀っている。天照大神高座神社の洞窟は冬至・夏至に太陽が昇る場所にあり、冬至の日に高安山の山頂から昇る太陽を難波宮・坐摩神社から拝し、夏至の太陽を等乃伎神社から拝すことが出来る。出羽氏は等乃伎神社(大阪府高石市取石)は現在「富木」の地であるとし、等乃伎は<菟寸>であり、此の地を『仁徳記』の「枯れ野という船」に載る<高樹伝説>の場所に充てているが、私の考えはこの場所ではない。『仁徳記』の「枯野という船』の説話は「この御世に菟寸河(とのきがわ)の西に一つの高樹ありき。その樹の影旦日に当たれば淡路島に遊び、夕日に当たれば高安山を越えき。・・・・以下略す。」私は以前にも高樹伝説を取り上げた事があり、狗奴国の位置を知らせるための暗号でした。今回の謎解きのメインテーマは <仁徳天皇は星川建彦と繋がるか?> <仁徳王朝は新羅からの渡来民の迎日信仰と関わりがあるか?>です。この高樹伝承はまさしく太陽の運行>つまり<迎日信仰>の存在を秘めており、高安山の情報からは岩戸神社や天照御魂神社は太陽信仰の中心地でした。そしてこの太陽を遙拝するのは仁徳天皇の宮地と言われる<住吉大社や坐摩神社>付近でした。では朝日の影が届くという淡路島には<太陽信仰>のメッカはあるでしょうか。検索すると淡路島の北部にある淡路に最古の神社という<岩屋神社>があり、土地の人は「天地大明神」というらしい。祭神は<国常立尊>と<伊弉諾尊と伊邪那美尊>。崇神天皇時代には三対山に鎮座していたという。淡路島には太陽神を信仰する地と感じる神社が多くあり、岩屋神社も太陽の道筋を考えて作られたようだという。そして春分、秋分の日には社殿の鳥居の中央から昇る<日の出>を見る事が出来ると。そこで私は.定規を使って淡路島の岩屋と高安山を繋いでみると、その間には住吉大社付近(仁徳の宮地?)も通っています。説話では夕日の影は高安山を超えるとあったので東の方向を辿ると<都祁>の地もこの線上に位置していました。また、それぞれのポイント地点を正確に書き込むことは不可能な訳である事を考慮すれば岩屋神社と都祁の間の中間地点に<仁徳天皇の宮>があるよう見えます。その付近に高樹が生えている事は朝日の影と夕日の影の起点として矛盾しません。このような仕掛けを仁徳天皇の時代あるいは記紀の編纂時に誰がしかけたのか、天体観測や地形の測量の知識がなければ出来ないと思うので大変驚きました。高樹説話を解くことによって「<星川建彦の乱>は確かに存在し、新羅からの渡来民(秦氏系ら)と古渡りの同族である国栖系葛城氏らによって<仁徳王朝>が成立した。」という私の仮説は真実である可能性が出て来ました。 草野 俊子