今日は、

少し奇妙な話をしよう。

 

6月26日に
あまり知られていない

“意味を持つ日”があるのはご存じだろうか。

 

「雷記念日」

 

930年6月26日。


平安京の中心、清涼殿に落雷が直撃した。

 

 

 

 

この落雷によって

大納言・藤原清貫が死亡し、

宮中は大混乱に陥る。


そしてやがて、

この出来事はこう語られるようになった。

 

「菅原道真の祟り」

 

今では学問の神として知られる菅原道真。


しかし、

その始まりは、

決して穏やかなものではなかった。

 

 

 

 


■天才として生きた男

菅原道真は、

もともと異例の出世を遂げた天才だった。

 

学問の家に生まれ、

5歳で和歌、11歳で漢詩の才能を

発揮したと伝えられる。


18歳で文章生となり、

その後も卓越した学才を認められ、

文章博士となった。

 

遣唐使の停止を提言するなど、

政治と学問の両面で功績を残し、

ついには朝廷の頂点に近い地位

――右大臣にまで上り詰める。

 

まさに、

知性だけで

時代を駆け上がった男だった。

 

だが、

その才能こそが

 

彼を追い詰めることになる。

 

901年、昌泰の変。


菅原道真は、

藤原時平の讒言によって

無実の罪を着せられ、

大宰府へ左遷されてしまう。

 

与えられた地位は

大宰員外帥


名目上の官職にすぎず、

実態は失脚である。

 

しかも本人だけでは終わらなかった。


粗末な生活を強いられ、

子どもたちまで流罪に処されるなど、

その扱いは苛烈だった。

 


知性で頂点に近づいた男は、
政治の中で切り捨てられ、
都から遠く引き離される。

そして道真は、

志半ばで都を追われた道真は、

その地で静かに生涯を終えることになる。

 


■怨みを語らず、梅に語りかけた男

都を去るとき、

道真は一首の歌を残している。

 

 

東風吹かば
匂ひをこせよ
梅の花
主なしとて
春な忘れそ

 

(訳)

東風が吹いたなら、

その香りを私のもとまで送っておくれ、

梅の花よ。

主人がいなくなったからといって、

春に咲くことを忘れてはならない。

 

これは、

左遷の際に

邸宅の梅の木との別れを惜しんで

詠んだ歌だとされる。


のちに有名な

飛梅伝説のもとにもなった歌である。

 

普通なら、

恨み言を残してもおかしくない。


だが道真は、

自らの運命を激しく呪うのではなく、

庭の梅に語りかけた。

 

ここにあるのは、

むき出しの怨念ではない。


むしろ、

あまりにも静かで、

だからこそ不気味な感情だ。

 

怒りを叫ばない者ほど、
後に何を残すのか分からない。

 

そして――

物語はここで終わらない。

 


■死後に始まる「祟り」

道真の死後、

朝廷の関係者たちに異変が起き始める。

 

まずは、906年に

道真を追いやった首謀者の一人である

中納言・藤原定国ふじわらのさだくにが41歳の若さで急死。

 

続き、908年に

醍醐天皇に直訴するため

裸足で駆けつけた宇多天皇の行く手を阻んだ

藤原菅根が雷に打たれて死亡

 

909年には、

左遷の中心人物とされる藤原時平が

39歳の若さで

加持祈祷の甲斐なく病状が悪化し、

菅原道真の祟りに怯えながら狂死。


913年には

右大臣・源光が狩りの最中に

底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。


923年には、

醍醐天皇の皇子であり皇太子でもあった

保明親王が21歳の若さで薨去してしまう。

 

925年に至っては、

保明親王の死後、

醍醐天皇の皇太子となった保明の子である

慶頼王よしよりおうが僅か5歳で死亡。

 

こうして

朝廷の要人が次々と亡くなると、

人々は噂し始めた。

 

罪なくして死んだ

菅原道真の怨霊が祟っているのではないか

 

朝廷は923年、

死後20年を経て、

道真を右大臣の位に戻し、

道真追放の詔を破棄し

さらに位階を追贈する。


しかし、

それでも不幸は収まらなかった。

 

台風。

洪水。

疫病。

 

災厄は続く。

 

そして延長8年(930年)6月、


ついに

清涼殿落雷事件

が起きる。

 

道真の左遷に関与していたものが多く集まっていた

内裏の清涼殿に落雷が発生する。

 

朝廷の要人たちが死傷。

 

直撃を受けた藤原清貫は、

かつて大宰府に左遷された

菅原道真の動向監視を命じられていたという

 

落雷の惨状も凄まじく、

直撃を受けた清貫は

衣服を焼損し

胸を裂かれた状態で即死していたという。


その惨状を目撃した

醍醐天皇まで体調を崩し、

3か月後寛明親王に譲位、

さらにその7日後に崩御した。

 

こうして

菅原道真の左遷を企てた者、

加担した者は

天皇といえども、

その祟りから免れることはできなかった。

 

しかし唯一人、

藤原時平の弟である藤原忠平だけは、

菅原道真に

同情の思いを寄せていて、

励ましの手紙などを送っていたこともあり、

祟りで死ぬことはなかった。

 

その後、

藤原忠平は

摂政・関白となって

藤原北家を支えていくこととなる。

 

そして、これを知った人々は確信する。

 

「これは、ただの自然現象ではない」

 

こうして道真は、

ただの失脚した貴族ではなく、


天すら動かす怨霊

 

として恐れられる存在になっていく。

 

ここで一つ、

見逃せない事実がある。

 

道真は、

生前に呪いの言葉を残していない。


自分を追い落とした者たちに、

露骨な復讐を誓った記録もない。

 

にもかかわらず、

人々は彼を恐れた。

 

なぜか。

 

理不尽に追放され、

そのまま無念のうちに死んだ人間の怨みは、


自然現象すら引き起こす――


当時の人々は、

そう本気で信じていたからだ。

 

つまり平安時代において、

怨霊とは空想ではなく、現実だった

のである。

 


■日本人は「恐怖」をどう処理したのか

では、

その恐怖にどう向き合ったのか。

 

排除したのか。
否定したのか。
封じ込めようとしたのか。

 

世界の多くでは、

災厄をもたらす存在は

遠ざける対象になる。


だが――

日本は少し違った。

 

祀ったのだ。

 

道真はやがて、

雷の神――

天神

として神格化される。


947年には、

京都に北野天満宮が建立され、

道真を天神様として祀る信仰が始まっていく。

 

さらに大宰府でも、

道真の墓所に廟が建てられ、

のちに立派な社が整えられていく。

 


 

これが後の

太宰府天満宮へとつながる。

 

なぜ、

左遷された男のために、

ここまで大掛かりに祀るのか。

 

それは単なる供養ではない。

 

朝廷は、道真を恐れていた。


だからこそ、

位を戻し、

社を建て、

神として祀った。

 

恐ろしい存在を、

より高い場所へ押し上げることでしか、

安心できなかったのではないか。

 

だが、

ここでさらに奇妙なことが起きる。

 

道真は、

雷神として恐れられる怨霊から、
やがて

 

学問の神

 

へと変わっていくのである。

 

生前の優れた学才が評価され、

北野天満宮では

歌合わせや連歌会など

文化的な行事が行われるようになる。


鎌倉・室町時代を経るころには、

道真は

詩文・学芸の守護神として

信仰される存在になっていった。

 

しかし、

「北の天神縁起」などによると、

 

道真の死去した数年後のある夏の夜、

道真の霊魂が

比叡山の座主・法性房尊意の前に現れて、

これから都に出没し、

怨みを復讐ではらす決意を述べ、

邪魔をしないように

お願いに来たと記述されている。

 

道真を祀る天満宮は

今では全国に、

1万2000社ともいわれる。

 

太宰府天満宮、

北野天満宮、

大阪天満宮、

湯島天神、

亀戸天神、

防府天満宮――


どこも

「学問の神様」として広く知られている。

 

だが、

もともとの出発点は違った。

 

人々は、

祟る怨霊を

神として祀り上げることで、


恐怖を

福へと変えようとしたのではないか。

 
 
 
 
 
 
 

 

 

 


■それは本当に信仰だったのか

ここで、

ひとつの疑問が残る。

 

それは本当に、

純粋な信仰だったのか。

 

それとも――


恐怖を処理するための仕組み

 

だったのか。

 


 

以前に聖徳太子を神格化し封印した記事を書いている

 

 

 


道真を神にしたのは、

人々の敬意だったのか。


それとも、

自分たちが犯したことへの恐れだったのか。

 

もっと言えば、

誰かが作為的に


「道真の怨霊は恐ろしい」

 

と誇張し、

神として祀らせる流れを

強めた可能性はないのか。

 

実際、

平安から中世にかけての寺社は、

信仰の場であると同時に

政治的な力の拠点でもあった。


神や霊の“格”が高いほど、

その社寺の力も強くなる。

 

そう考えると、

道真が「恐ろしい怨霊」であり、

なおかつ「位高き神」であることは、
祀る側にとっても

大きな意味を持ったはずだ。

 

もちろん、

これを断定はできない。

 

だが少なくとも言えるのは、

道真は単なる被害者でも、

単なる神でも終わらなかったということだ。

 

彼は

怨霊として恐れられ、
神として祀られ、
ついには

学問の神として人々に願われる存在になった。

 

この変化は、

日本独特の死生観や、

恐怖の扱い方をよく表している。

 

恐怖は消せない。


ならばどうするか。

神にする。
祀る。
意味を与える。

そうすることで、

人はようやく安心できる。

 

だとすれば、

道真信仰とは、


人々が

「怨霊」を鎮めるためにつくり上げた


巨大な社会装置

 

だったのかもしれない。

 

しかし、

神となった今でも尚、

道真の怨霊の名残があるという。

 

それは、

最も大きなお祭りのある九月末日になると、

ほぼ必ず、大雨が降るそうだ。

 

どうやら道真は、

千年以上経った今でも、

無実の罪で左遷させられたことを

許していないようである。

 

そして、

この構造は道真だけでは終わらない。

 

日本には、

同じように


恐れられ、

祀られた存在

が他にもいる。

 

  • 平将門
  • 崇徳天皇

 

なぜ彼らもまた、

神になったのか。

 

その話は、また次回。

 

 

なぜ「怨霊」が「神」へと変わったのか。
その構造を、史実と心理の両面から整理したものをnoteにまとめています。

 

 

 

 

 


 

あなたはどう考えるだろうか。

菅原道真は

怨霊だったのか。
神だったのか。


それとも——

人間の恐れが生み出した
「必要な存在」だったのか。

直感で一番近いものを
コメントで教えてくれると嬉しいです。

 


 

 

 


 

 

参考――
山さんの関西あれこれ見て歩き
繰り返す日本史 (青春新書インテリジェンス) 河合 敦 (著)