今までの「意欲の評価」でさえ、的確に出来る教師はいない。というより意欲の評価を的確に出来る人はいないのだ。大方「積極的に発言する」とか「積極的に挙手をする」と言う程度のことで評価しているのであろう。

 

 私が校長をしているとき小学校では、市販テストを使用して、その問題に意欲の評価に関わる問題と記されていた。ペーパーテストで意欲が図れるわけがないが、他に方法がないので放って置いた。

 

 元々「人格を評価してはいけない」と言われている。理由は簡単で人格に優劣は無いからだ。意欲とか態度、やる気は人の内面のものである。それらは人格の一部と言っても過言ではない。

 

 それ以前に、やる気を一体どのように評価するのだろう。非常に限定的な条件の下では、何とか評価をすることはできる。例えば、「〇〇の割り算ができる」という目標を設定してクリアできれば、やる気があると評価するという程度のことはできる。しかし、目標を達成すればやる気があると評価するのはいささか短絡的でしかない。

 

 私自身の体験であるが、通知表の行動の評価に「自主性」という項目があり、小学校から高校まで、自分の進路について全て自己決定してきたのに、その欄に〇がついたことが無いのだ。もう1つ、高校まで国語に5がついたことが無い。この2つが、未だに疑問で納得ができないでいる。

 

 結果として、学校の評価などは、所詮いい加減なものだと認識していれば問題はない。しかし、これがまともな評価と認識するほど害悪が生じてくる。 

 

 文科省のキャリアは教育については素人だと自覚する必要がある。タブレットの使用についても、教育で最も重要なのは人と人との正面から向き合う時間をどれだけ確保できるかがなのである。

 

 授業は「黒板に始まって黒板に終わる」のである。未だかって、教育機器が定着したことが無いという事実に注目すべきである。タブレットの扱いを子どもは熟知している。年寄りの教師にはついていけない。

 

 授業は教師と児童・生徒が向き合って人と人との関わりの中で成立するものである。そこに機械を存在させる必要はない。こんなことをやっている限り不登校は減ることはない。

 

 特に内向的な子が被害を受ける。物事をキチンと受け止めて対応していくチカラは内向的な子供の特長である。ただ、間違っていると嫌だという気持ちが強いため積極的な発言は得意ではない。「積極的に〇〇する」というような、やる気や意欲の評価はともすると、このような内向的な子供を潰すことになりかねない。この延長線上に不登校がある。

 

 「朝の挨拶をきちんとしよう」というのもダメ。内向的な子供は大きな声で挨拶するのは苦手なのだ。会釈でも可としなければならない。人間理解をしていれば、当然分かることである。

 

    そもそも「やる気」と「意欲」どこが違うのだろう。

 自己決定の行動+認める⇒意欲の向上  やる気の向上も同じでは?