どうやら乃木坂46・2期生楽曲『アナスターシャ』について連続的に書くことになりそうだ。
この曲が好きだからだ、MVも含めて。
でも、それだけではない。
あるサイトの記事が目に止まった。『アナスターシャ』、とくにMVについて非常に低い評価をしていた。それは、伊藤衆人監督が2期生の物語に埋没しすぎているといい、楽曲がもう映像のBGMにしかなっていない、ただ2期生のあれこれの物語が生のまま散りばめられているだけだ、そして「最も深刻なこと」として、このMVをメンバーもファンも喝采で迎えるだろうこと、それが見えてしまうこと、そうしたことにウンザリし、幼稚過ぎるという。
長く続いているサイトのようで、たぶん有名なものなのだろうと思う。
そのサイトの記事の書きようが自分の中で強く引っかかってしまったので、こっそりとここでささやかな抵抗をすることにした。
あらかじめ書いておくと私はいわゆる「2期生推し」ではない。強い共感を感じるところはある。けれどもたぶん「推し」なんて言えたものではない。『せかいのおわりは、』も今回初めてみた。『スカウトマン』や『ライブ神』もみたこと、聞いたことはあったが、MVをじっくりみたのは今回はじめてだ。『ボーダー』も。もっとも『ブランコ』は好きだったから結構見て・聴いてはいたけど。そもそも、おそらくは「乃木坂推し」ですらないと思う。もしそういったら本物の2期生推し、乃木坂推しの人たちに「ふざけるなお前」と叱られるんだろう。
なのにこんなことを書きはじめるのは、『アナスターシャ』が好きだからだし、それへの批判に納得できないからであり、私が2期生推しではないから逆に『2期生の物語』から自由に『アナスターシャ』にアプローチできると思ったからだ。
別の言い方をすれば、『アナスターシャ』は「2期生推しでなくても、2期生の物語を共有していなくても素敵な曲で、素敵なMVのなんだ」といいたいわけだ。
まぁ個人的な感想でしかない。他の人にとってそれは無意味であることも多い。けれどもそうじゃないことだってある(と思う。)
『アナスターシャ』を観たあと、実は一本の映画をみた。 映画冒頭で初老の男性が水辺に一本の松を植えようとしている。それを6,7歳さいだろうか?小さな子どもが黙って手伝う。
こういうシーンだ。
2枚目の画像。松の木の根元の左側に子どもがいるのがわかると思う。
このシーンの初老の老人のセリフ。
ずっと昔のあるとき、年とった修道士がいて、僧院に住んでた。パムベといった。
ある時、枯れかかった木を山裾に植えた。こんな木だ。そして若い門弟に言った。ヨアンという修道僧だ。
木が生き返るまで毎日必ず水をやりなさい。
毎朝早く、ヨアンは桶に水をみたしてでかけた。木を植えた山に登り、枯れかかった木に水をやって、あたりが暗くなった夕暮れ僧院に戻ってきた。これを3年続けた。そしてある晴れた日、彼が山に登って行くと、木がすっかり花でおおわれていた。
一つの目的をもった行為は、いつか効果を生む。
時々、自分に言い聞かせる。
毎日欠かさずに、正確に同じ時刻に、同じ一つのことを儀式のように、きちんと同じ順序で、毎日変わることなく行っていれば世界はいつか変わる。必ず変わる。変わらぬわけにはいかぬ。
人間は朝になると目をさます。
7時にベッドを離れ、浴室に行き、蛇口から水をコップに注ぎ、トイレに流す。
旧ソ連の映画だ。アンドレイ・タルコフスキー監督の『サクリファイス』。
タルコフスキーはもう亡くなったけれども、神秘的な強い印象を刻みつける映像を送り出した監督だった。DVDは5,6枚もっていると思う。『アナスターシャ』のMVをみた時、すぐに『サクリファイス』を連想した。
アナスターシャはもともとギリシャ語のアナスタシアだけれども、このMVの冒頭部分、”アナスターシャ”の題字はロシア語で書かれている。
サクリファイス=生贄だ。実際にこの男性は世界の災厄を引き受けて自分を滅ぼすように振る舞まう。そしてこの男の子は男性がいなくなったあと、松の木に水をやり続ける。
遠くから重い水を運び続ける。
そしてあるとき、松の木の根元に座り、木を仰ぎ見る。
見にくいけれども、根っこの左側に男の子がいて木を見上げている。
そしていう。
初めに「ことば」ありき。
なぜなの パパ?
新約聖書のなかのヨハネの福音書の最初の方の言葉だ。
『アナスターシャ』のMVの冒頭に置かれていたのは旧約聖書の創世記の言葉だ。
実はこの男の子は映画の中でずっと言葉を失った存在だった。この「はじめに「ことば」ありき。なぜなのパパ?」と言うまで一言も発さない、発せない存在だった。
この男の子の、この一言のためにこの映画はあったのかもしれない。そう思えるほどの言葉だ。それが神とこの世界・宇宙への、その根源への「なぜなの?」という疑問として発せられる。
世界は変わった。言葉をもたなかった男の子が言葉を発した。しかも言葉への根本的な問いを含んだものとして。
この「初めに『ことば』ありき」の部分、新共同訳の新約聖書ではこうなっている。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
『サクリファイス』の冒頭の初老の男性の言葉、そして最後の男の子の言葉。
水辺の松の木の下で発せられた、映画の冒頭と最後の言葉は強く印象に残っていた。
冒頭のシーンの堀未央奈をふくめた映像の佇まい、色彩に乏しく全体に荒涼とした風景。
旧約聖書の創世記、新約聖書のヨハネ伝の世界の創造に関わる部分の引用。
「一つの目的をもった行為は、いつか効果を生む。時々、自分に言い聞かせる。毎日欠かさずに、正確に同じ時刻に、同じ一つのことを儀式のように、きちんと同じ順序で、毎日変わることなく行っていれば世界はいつか変わる。必ず変わる。変わらぬわけにはいかぬ」という男性の言葉。
この言葉にも何か通じるものを感じとってしまう。『アナスターシャ』も「世界はいつか変わる。必ず変わる。変わらぬ訳にはいかぬ」と信じる者たちの物語なのではないかと思うからだ。
25thシングル、表題曲、白石麻衣のソロ曲はじめ全部のMVがアップされたと思うけれども、『アナスターシャ』は実に不思議なところにたっているよう思える。
基本的に他の楽曲はすべて明るく、楽しげで、カラフルだ。曲調も3期生の「毎日がBrand new day」は、サム・クックやオーティス・レディングを思わず聴き直してしまったけれども、アメリカの50年代の黒人音楽のようだし、表題曲はやはり60年代のアメリカンポップスみたいだ。全体に古き良きアメリカのカラフルさに覆われているように思う。「Sing Out !」からの流れと言ってもいいかもしれない。
その中でロシアの女性の名前をタイトルにもち、ロシアの大地のような色彩の乏しい荒涼とした風景の中で、やはり色彩に乏しい衣服を身にまとった女性たちが描き出される。歌詞の中でも希望や未来は遠くの大陸のどこか、目に見えないところ、触れることのできないところにある。
『アナスターシャ』は、他の25thの楽曲と鋭い対比をみせ、独特の光を放ち、そこに存在している。
他の楽曲がお互いを見つめ合い、お互いに笑顔をみせ、手を取り合うようなMVであるに対して、『アナスターシャ』は一つの群れとなって、一つの旗を立て、一つの方向を、遠くの、目には見えないだろう大陸の方向を凝視する。
それは一つの意志、一つの力を誇示しているように思える。その意志と力は、ここが「世界のはじまりだ」と思わせるものがある。
むろん、それは乃木坂46・2期生の新たな始まりという文脈で理解されることが多いだろうけれども、その文脈を離れても『アナスターシャ』は一つの始まりの力を示していると思う。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
『アナスターシャ』は暗闇が理解しなかった光なのかもしれない。
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私は、『しあわせの保護色』も白石麻衣の『じゃあね』でも泣いてしまいそうになるけれども、それでも実は『アナスターシャ』が一番好きでヘビーローテーションしている。
少し考えてみたけれども 『アナスターシャ』と『サクリファイス』がどうつながっているのかまだ自分でもよくわからない。いろんなことが絡み合い、何か不思議な響きを自分のなかで引き起こしている。けれどもそれもただの個人的な連想なのかもしれない。でもそれならそれでいい。それでも別々に生まれた二つの作品が響き合うことが他のものの色彩を変えていくことは私の世界を少し豊かにすることだという気がする。もう少し深められそうな気がする。
こうしたことを少し書くと思う。たぶん。
プロデューサーや監督がどう考えたのかには興味がないわけではないけれども、私は作品が作品として確立するということは、作りての主観的な意図から自立することでもあると思っている。それは上手くいけば自分なりに作品を育てていくことにもなるかもしれない。
だからこの文章は通常いわれている「考察」とは全く違う。以前に書いた『黒い羊』をめぐる文章も同じように考察ではなかった。
ちなみに、タルコフスキー監督の『サクリファイス』ともう一つ、私の乏しいロシア・旧ソ連に関する知識の中で、「アナスターシャ」ときいてヒットしてきた記憶があった。
アナスターシャはアナスタシア(ギリシャ語)に起源をもつロシアの女性の名前だが、その異形の一つに「ナスターシャ」がある。ナスターシャ=アナスターシャだ。
この「ナスターシャ」はドストエフスキーの小説世界のなかで作り上げられた女性たちの中でもっとも美しく、どのような泥水につかるような境遇に陥ろうとも誇りと尊厳を失わなかった女性の名前として強く記憶されている名前だ。ドストエフスキーが造形した女性の中でもっとも素晴らしいという評価を受けている。ネットで検索してみればいくらでも出てくる。ドストエフスキー自身、このナスターシャが登場する『白痴』を自分の作品の中でもっとも高く評価していたらしい。
近いうちに読み返す。
何かそういういろいろな、忘れてしまっていた記憶やどこかにしまい込まれてしまっていたものが別の光を発して蘇ってくる。
これは確かに『アナスターシャ』をみていなければ起こらなかったことなんだ。それだって作品の一つの力だと思う。