「僕の周りの世界は絶望にあふれている」。
「黒い羊」のCMはこう語るところから始まる。
そうだろうか?
本当に「周りの世界」が、その住人たちが、「絶望にあふれている」のであれば、どうして自分こそが「白い羊」になろうともがき、誰かを「黒い羊」に蹴り落とすことになるだろう?
違う。
中途半端でしかないかもしれないが、そこに希望や願いがあるからこそ、誰かを蹴落とし、先を競うように走り出す。「希望」とは「希な望み」じゃないか。だから我先にそこにたどりつき、その「希な望み」を手にしようとするんだ。椅子は限られている。ならば誰かを蹴り落とすしかないではないか。
本当に絶望に溢れているのであれば、もう人は誰かを蹴り落とすこともしない。望みを絶たれた人は誰かを蹴り落とすこともしない。
「僕の周りは絶望に溢れている」。
安易なキャプションだ。
絶望にさらされているのはむしろ「僕」の方だ。簡単に「絶望」に落ち込んではいないけれども、必死に戦う僕の中に、忍び込みつつある絶望の姿が見え隠れしている。
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乃木坂46の”Sing Out !” のセンターは替えがきかない。乃木坂46では齋藤飛鳥以外では大きく意味が変わってしまう。
そしてもし他にあの曲の中心に立つものを想像するならば平手友梨奈しかいない気がする。逆に「黒い羊」にされてしまうものが齋藤飛鳥だったら…
まったく別の空気になるけれども、それは十分に成り立つ。
私には「黒い羊」のいる場所と「Sing Out !」のあの一番高いところの場所は、実はコインの裏表のように思えてならない。
それはもっとも傷つきやすく、傷つけられやすく、しかし自分以外ではいられないものがいる場所なのだ。