乃木坂46の”Sing Out!” について書きたくなった。
”君の名は希望”、”シンクロニシティ”からの流れの一つの到達点のような気がする。
黒っぽいリズムとMVの板張りのステージでの踊り、最後の木の素材で組み上がられた場所でのダンス。
いままでの乃木坂46にはあまりなかったような、土の匂いがする。まるで土から、大地から空に、そして見えないこの世界の向こう側へ向かおうとするような、そんなイメージを受け取る。
いままでは、希望をつかみとろうとしたり、涙を流す人の何かを引き受けて、それを反転させようとしたりしてきた気がする。そこには「希望を求めるもの」どうしの、あるいは「涙をながすもの」どうしの共鳴があった気がする。
しかし”Sing Out!”は、乃木坂46が、とくにセンターの齋藤飛鳥が、世界のどこかにはどしゃ降りの雨が降り続き、声も失った人々がいることを十分知りながら、その雨がやみ、声が聞こえるようになるまで、いつまでもここで歌いつづけるんだ、と言っているように思える。
「希望」という言葉は、たぶん、乃木坂46の核にあり続けるものだっただろう。
しかし”Sing Out!”で齋藤飛鳥は、すべてをわかった上で、そのことの現実の困難さ、届かなさもわかった上で、自分自身が「希望」という言葉の結晶のようになり、「ここで」歌い、踊り続けようとしている。
まだ力強いものではないけれど、かといってか弱いものでもない、そんな「希望」という、それこそ乃木坂の核を、土の匂いのする場所から風に乗せ世界にむかって、送り出そうとしている気がする。
そしてそれはどこかで欅坂46の「黒い羊」への根本的なアンサーソングになっているようにも思えてしまう。
そんな事を考えながら”君の名は希望”、”シンクロニシティ”そして”Sing Out!”のMVをみていると、ふとある詩人のことを思い出した。
比べるのはいろいろな意味で不当かもしれないが、パウル・ツェランという詩人がいた。
彼は自分の言葉を「投壜通信」といった。
ツェランのテキストがPCにむかっている手元にないので、とりあえず岩波の『思想』に書かれた金時鐘の文章から重引する。
「詩は言葉が現われるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものなのですから、詩はひとつの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが――のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。何にむかっているのでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかける『あなた』。語りかけうる現実にむかってです」。
(金時鍾 「語りかけうる現実に向かって」 『思想』2000年1号 岩波書店)
彼はナチス支配下のユダヤ人の少年だった。そしてすべてを失った。肉親はアウシュビッツで死んだ。記憶されるべき場所も、何もかも失った。そして言葉だけが残った。そしてただ一つ彼に残された「言葉」にすべての希望を託した。そのツェランも1970年4月、セーヌ川で入水自殺する。
その彼が「希望」を語った。そんなことを思い出してしまった。
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このところ秋元康氏への強い批判をもっている。
それは彼の書く詩への検討へと私を向かわせている。「詩はいいけど、NGT事件についての彼の対応は…」だけにすまず、私には彼の書く言葉そのものにもやはりいろいろ考えなくてはいけない点があると思い始めている。
けれども、いまは、言及しない。どんな作品でも、作詞者・作曲者、演奏者、聴取者。その各々の段階で別様の解釈とその解釈に立つ発信があると思っているので。