それにしてもあのコラボは何度見ても別の意味を発生させる。
踊る平手が平井の記憶の中の亡くなった人のように思えてきてしまうことがある。生きていた時の最後の姿を見ているような気がしてしまう。もう決してあうことのない二人に見えてしまう。
「会いたい」。ただそれだけのことがかなわなくて、かなう望みもなくて、けれども、そう言いつづけ、叫びつづけることしかできなくて。歌い踊るあの二人も決して会うことができなくて。
たぶん平井堅の、平手友梨奈の、あるいは演出した人の込めた物語がある。けれどもそれとは違うものを私は見ている気がする。
それが可能になるのはたぶん、「作品」としての完成度の高さなのだろう。
小説でも絵画でも映画でも、それが作品となるということは作り手からも自立することを意味するならば、それは受け手のさまざまな解釈を誘発することであるし、根本的には<受け手=人間の自由>に働きかけることを意味するのだと思う。もっとも私はいま「勝手に解釈してますよ」と言い放っているだけなのかもしれないけれども。
はじめは平手のダンスに目を奪われた。
けれどもそこから何度もみて、その歌詞の意味を考えていくうちに変わってきた。
二人は別の世界にいる。
歌い手は歌詞に乗せながら歌い手の喪失の世界に。踊り手はその身体から叫びを発しながら踊り手の物語の世界に。その二つの世界が強い相関関係をもちながら、強いコントラストも描き出す。
その二つの世界はどこかでつながり、どこかで共振しながら、決して交わることもなく、触れ合うこともない。
生きることに望みを失ったような16歳の制服を着た少女と友人を自死で失った46歳の歌い手。
少女には彼の姿が見えない。彼には少女の姿が見えない。それぞれの叫びがあり、慟哭があり、それが重なり合い増幅する。叫びは重なり合うのだけれども、二人はどこまでも切り離された世界にいる。
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前回、前々回に書いた、先輩の自殺。
彼の自殺後、少し落ち着いてから考えるようになった。私は何をしていたんだろうか?と。
彼が薬を飲んだ時間、きちんと敷かれた布団に身を横たえていた時間、だんだん意識がなくなり、呼吸が弱くなっていく、その時間。私は何をしていたんだろうか。
それほど遠くはない場所だった。
その時間、私はまだ起きていたはずだった。
音楽を聞きながら何か机に向かっていたかもしれない。TVをみて笑っていたかもしれない。
その同じ時間、それほど遠くないところで先輩は大量の薬を飲み下していた。二つの世界はどこにも接点がなく、バラバラの時間が流れていた。それがとてもいたたまれなかった。その時間の自分の部屋に乗り込み、両肩をつかんで「先輩が薬を飲んでるぞ!何をやってるんだ!」そう怒鳴りつけてやりたかった。
いまもアパートの隣の部屋に声を殺して叫んでいる人がいるかも知れない。手にした薬をじっと見つめている人がいるかも知れない。そしてそのことについて何もしらない。何も気が付かない。気がつくことができると思うことは傲慢なのかもしれない。
けれども、こんなにも世界はバラバラなんだ。幻想でも何でもなくバラバラでしかない。
なにか事件がおこる。
TVでは「驚きました。そんなこと、全然知りませんでした。」
多くの人がそういう。嘘でもなく。
あのとき彼は、どうしてたんだろう?
何か呟いていたりしたんだろうか?
最後の視界には何が見えていたんだろうか。
もしそれがわかったら、ちょっとだけ救われそうな気がするんだけどな。