CDで聴く平井堅の『ノンフィクション』とも、工藤丈輝が踊るMVとも違う、別の世界が開かれてくる。工藤丈輝の踊りを平手はできないけれども、平手の『ノンフィクション』を工藤丈輝が踊ることもできない。振り付けのCRE8BOYにも踊れないのだと思う。

気がついたことがある。歌は昔の哀しみを歌うこともできる。昨日の怒りを歌うこともできる。
けれども身体の言葉は、いま、その時の哀しみや怒りや喜びだけしかない。身体の言語は、<いま、ここ>という時空にだけ存在している。そしてそうでしかありえないらしい。


現れた身体の言葉は隠すこともできず、留めることもできない。
だから。もう差し替えがきかない。

「気持ちを込めて踊る」と振付師が言っていたけれども、ひょっとすると<踊りが気持ち>なのであって、気持ちのあらわれが踊りなのではないかもしれない。
9:17 - 2018年5月6日

 空白であること。ポゼッションされること。憑依されること。

 身体のすべてを意識的に統御することはできない。
 自分を変えたい、そう言っていた。自分の存在を前面に押し出せないからこそここに来た、と。だから彼女は決然と他者を受け入れているのかもしれない。いや他者ではないかもしれない。「大人としての他者」ではないかもしれない。ならば、言葉を、動きを。

 possesion。
 憑依されることは自分が透明にならなければいけない。自分を意識的なコントロールから解除しなければいけない。そのために彼女はここにきたのかもしれない。
 

 無意識。
 自己の意識が透明になり、外部にあったはずの言葉や振り付けが自分と一体化していく。それは自分を乗っ取られるのではない。俳優の三上博史が「無意識だ」と言っていたことがある。そのときに実は自分のすべての経験や人生がにじみ出てくるのだと。
 

 フランスに客死した森有正がこういうことを言っていたと内田義彦がいう。
 「シュバイツァにしろ、デュプレにしろ、それぞれ精密に楽譜を調べ徹底して楽譜に忠実であった。そしてそれゆえに、彼らのバッハ演奏は、それぞれに個性的である。」(『読書と社会科学』 p27~28)
 グレン・グールドが弾くバッハの平均律のプレリュードを聴いていると、誰もいない部屋で、ただただ無心に一つ一つの音を鳴らしていく彼の姿が不意に浮かび上がって涙が流れることがある。ただただ無心に。自分を空っぽにして。そのことがあのグールドの強烈な個性的な演奏を生み出しているはずだ。


 これはただの私の個人的な感覚にすぎないけれども、ひょっとするとけっこう直観なのかもしれない。
 

 

 三上博史が言っていることはおそらく森が言っていることと通底している。

 徹底して楽譜に忠実に楽曲を演奏する。その時、自分は限りなく透明になり、バッハの精神に満たされる。

 けれどもその時、その人の奥底にある、その人の独自の経験、人生が浮かび上がってくる。それは本人にも自覚されないような奥底にあることだ。もっとも根源的なその人自身が顕れてくるということだろう。
 

 それは「気持ちを込める」という言葉で思い浮かべられることとはたぶん違う。
 楽曲を、歌詞を読み、解釈し、理解し、ここはこういう気持ちだから、こういう表現をして…ということはまだまだ表層的なことだ。意識的なコントロールだからだ。意識がコントロールできる世界はこの世界の、あるいはその人間の存在の明るく光のあたった部分だ。そうではないところに存在する何かが浮かび上がってくるような、そうしたことを森有正や三上博史は述べているのだと思う。

 いま気がついたけれども、これは根源的なアンサンブルだ。
 ここで顕れてくるものは、楽曲や言葉の精神であり、演奏者、演者、踊り手の経験や人生だ。そのどれか一つではない。だとすればこれはいくつかの精神が一人の人間において出会い、一つのアンサンブルを織りなしていくということではないか?
 顕れているのは「私」なのだろうか?「あなた」なのだろうか?そのいずれもなのだろうか?
 あるいはそうした自他の区分が無効になる一つの境界領域なのだろうか?

 踊りの技術はまだまだなのだと思う。それが足りなければ、浮かび上がろうとする何者かは出口を失う。
 16歳にそんなことができるのか、と言う人がいるかも知れない。けれども多分、年齢とは全く関係ない。実際にデュプレは10代前半にすでにそうした世界にいたはずだ。
 平手友梨奈はひょっとするとそうした境界線上に立っているかもしれない。


 彼女の踊りに激しく衝き動かされるのは、こうしたことなのかもしれない。人間は人間にこそもっとも強く共振しするものだろうから。