こんばんは。



京都は昨日今日と春の陽気で、日中は暖かく過ごしやすい気温でした。まさにお出掛け日和。



が、かくいう僕は花粉症なる魔物を飼っておりまして、この二日間は近所のスタバに行ったり本屋に行ったりしたものの、あまり遠くへは出ないようにしておりました。



そんな中、ようやく書く気になりました、第一回「おぼえがき」。今回は森見登美彦「太陽の塔」を扱います。




稚拙な文章ではありますが、最後までよろしくお願い致します。





まずは簡単なあらすじを。



主人公である「私」は京都大学を休学中の五回生という複雑な立場にある。



最近の趣味は三回生の始めに付き合い始めたものの、その年のクリスマス・イブに振られてしまった元カノ、「水尾さん」の研究。平たくいえばストーカーです。



いつものように水尾さんの研究改めストーキングをし、彼女が家に帰るまでを見届けようとしたところ、

「もう、彼女につきまとうな」

と忠告してくる男が「私」の前に現れます。



彼は水尾さんと同じ法学部のゼミに所属する「遠藤正」という男で、この遠藤も実は水尾さんのストーカーであることが、「私」のリスペクトする法学徒、「飾磨大輝」の調査によって発覚します。



「私」は遠藤に嫌がらせをし、また仕返されるうちに、なぜか遠藤と水尾さんについて話す仲になります。



迫りくるクリスマス・イブを、「私」や飾磨、遠藤、そして水尾さんはどのように過ごすのか



と、大まかなストーリーはこのような形です。他細々とした登場人物や出来事は、是非とも本作品を実際に読んで頂ければと思います。





僕は最近森見にのめり込んでおります。



というのも、僕も京都の学生の端くれですから、いわゆる「森見節」で語られる学生連中の躍動に共感できる部分が多い。



加えて、百万遍交差点や北白川、河原町といった京都人であればおよそ知っている場所が舞台なので、僕もそこにいるかのような一種のノスタルジーを感じるわけです。



ここに、僕が森見が作り出す沼に沈んでいく理由があると思います。



さて、そんな森見登美彦が描く本作品ですが、僕が特に印象深いと思うのは、

「私」が恋のキューピッドとなったこと

です。



森見読者の方であればご存知かと思いますが、基本森見作品の主人公は、元来情事を憎む傾向にあります。



そういういわゆる「腐れ大学生」が、京都の街を疾走し、恋愛を成就させるのが森見作品のテンプレートです。「乙女」も「四畳半」もこれに当てはまる。



しかしながら、本作品の「私」は、水尾さんと遠藤の恋を成就させるような動きを見せるのです。



以下の引用は、「私」と遠藤が祇園会館で遭遇し、二人で会話する場面です。



 遠藤は携帯電話を取り出した。肩を落とし、ボタンをぽちぽちと押していた。

「いざとなるとなあ」

 彼はぽつんと言った。

「なんだよ」

「いざ身構えると、電話をかけるというのは難しいもんだね」

「彼女にか」

「うん」

「まだ、そんなところでぐずぐずしているのか」

 私は怒って言った。

 私は遠藤のクサい台詞に身震いしながら手を伸ばすと、携帯電話を奪い取った。そして彼女に電話をかけた。

「はい」

「あ、水尾さんですか」

「はい」

 そうして、私は電話を遠藤の手に押し込んだ。



この後、遠藤は水尾さんとクリスマス・イブのデートの予定を作ることに成功します。この後「私」は、「リア王ばりのやりきれなさ」を感じることになるのです。



僕は意外で仕方がありませんでした。「私」は無論水尾さんを想っている訳で、もしそうでなければ「やりきれなさ」を感じるはずがないのです。



迎えたクリスマス・イブに、四条河原町周辺で飾磨と「私」が主犯となり起こした「ええじゃないか騒動」では、人を掻き分けていく水尾さんと、後から遅れてついていこうとするが人の波に揉まれてしまう遠藤を見つけ、「私」は水尾さんを追ったものの、見失ってしまう。「ええじゃないか」と人々が叫ぶ中、ここが「私」にとって水尾さんと寄りを戻す最後のチャンスだったのです。



「私」は飾磨にこう言います。

「これでええわけがない」



飾磨と別れて下宿に帰った後、「私」は水尾さんとの思い出を走馬灯のように思い出します。水尾さんと最後の話し合いをするところも。



そして、場面は最後に、太陽の塔のある万博公園へ。「私」は彼女の隣を目指して歩き出します。





僕は、主人公である「私」が、後腐れなく水尾さんと別れたと思っていたし、その考えから遠藤と水尾さんを結びつけるような行動をしたが、本当は未練タラタラだったのだと結論づけました。



失恋って凄い大きな出来事なので、中々現実を受け止められない。「私」も最後の場面まで悲しみに浸る素振りを見せません。



今思えば、「水尾さん研究」も一種の現実逃避だったのでしょう。



でも、水尾さんとの寄りを戻す最大のチャンスを見逃し、ようやく分かったのです。「私は、失恋したのだ」と。これでええわけがない、という台詞にありありとその気持ちが表れています。



「私」が失恋を自覚するまでの心情の変化を、様々な出来事を通して見事に描ききった作品でした。





また長くなりましたが、以上になります。次は森見か、はたまた別の作家か

悩むところです。