うちで飼っていた犬が死んだのは去年の10月、徐々に呼吸が弱くなっていって、ロウソクの灯がふっと消えるようにあの子は消えていった。その場を看取ることはできなかった。今や僕は悲しいかな、歴とした生活者なのだ。食い扶持を得るために、辛抱強くパソコンとにらめっこしている。当然いつ来るかわからないその瞬間のために会社を何日も休むわけにはいかないけれど、まともなことを考えている脳みその片隅では、随分つまらん人間になってしまったなと失望しているもう一人の僕がいる。

仕方ないよなあ。誰に向けたものでもない言い訳がクソダサい。

あの子が死んだのと同時に、僕の大切な一部分も死んで腐り落ちたのだ。

 

あの子の名はココアといった。名付け親は僕だ。今思えば、人間で言うところの「さとし」くらいありふれた名前だな。

のちに知ったのだが、犬はiとeの母音が聞き取りづらいらしいからココアという名前はとても理にかなった名前だったのかもしれない。岡山に住む幼馴染の家で飼っている犬の赤ちゃんだった。事前に生まれる前から名前を決めていたから、岡山ではすでに「ココア」に反応するように躾けてくれていた。

犬種は、ヨークシャーテリアで、本当はとても上品な犬なのだけど、うちのは誰に似たのか大食いで底意地が悪く、それでいてズル賢いというなんとも浅ましいやつだった。赤ちゃんの時は耳が垂れていて、ちゃんと写真で見るようなヨーキーになるのかなと甚だ疑問だったけれど、意外とナリはヨーキーの成犬になっていった。

 

ココアを引き取りにいった時は、小学6年生くらいで、新幹線に乗って岡山駅まで迎えにいったのであった。片道6時間くらいかかる長旅だったけれど、あの子に会うためであればその程度の苦労は屁でもなかった。無事にココアを引き取ることができたはいいものの、大変なのはまさしくここからで、帰り道の新幹線の間中ずっときゅんきゅん鼻を鳴らしてペット用コンテナをこじ開けてでも外に出たがる子犬をあの手この手であやしつつどうにか静岡までたどり着いたのであった。一番有効だったのは犬用のカリカリを僕の口の中で湿らせて食べさせることだったのだが、どうにもこのカリカリがものすごい匂いで、口に含むたびにえずきそうになるほどだった。

ココアにも過酷な環境を強いている以上何も言えないけれども。

そうして我が家の一員となったココアだけれども、家に着いた途端に安心したのか、大量のおしっこを床にぶちまけたのであった。

 

本当にバカな犬だったけれど、それだけに愛おしくてたまらなかった。

二階に登ってはいけないのに、僕の布団に入るために登ってきたりだとか、いじめられてもすぐに忘れて甘えてきたり。いまだにもう君がいないだなんて信じられない。

僕のiPhoneのロック画面は未だに君なのだから。晩年、顎の腫瘍が大きくなり口が閉まらなくなって、ご飯が食べられなくなって僕は初めて君がそろそろ死ぬことを悟った。それまでに準備をしてきたつもりではあったけれど、未だに僕はそれを受け入れられない。受け入れるつもりもない。

 

でも申し訳ない、こうやって文章にしてしまうと、若干だけれども実感が湧いてきて胸が詰まるよ。

もう今日はこれ以上はかけないと思う。

これ以上書いてしまうと、本当に僕の中で君が死んでしまう。

 

君を思い出すのも、ほどほどにしておくよ。

 

おやすみ。