坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」 -10ページ目

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。

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友人と露天風呂に入っている時に、こういうことをチンチン丸出しで大喜びでやったり、

その時のアホ丸出し画像を嬉々として公開したり、こんなことばっかりやってる私が、

「個性を出す」と言うと、あたかも奇をてらったり、非常識極まりないことをやることが

「個性」だと思われたり、「私には坪井さんみたいなそんなことできませんよ~。」

と言われたりします(苦笑)。


そりゃ、ま、こういう画像だけを限定して見るならそういうことになるんでしょうが(笑)、

私の定義している「個性」というのは、その人の日常そのものにある、すなわち、

「個性」=「日常」ということなんですね。


そりゃ、まぁ、いくら日常と言ってもですね、日常にもいろいろあって、名古屋駅を

歩きながらチンチン丸出しで歩く日常を送っているワケじゃないので、こういうことを

調子に乗ってやりたくなるのは、石川県は加賀の宿「宝生亭」の露天風呂に久しぶりに

入れて、かつ、久しぶりの友人達と会えて嬉しい、とか、露天風呂でこういうことしても

許されるだけの関係性が旅館の旦那とあるかとか、これ以上はしないだろうという

最低限の信頼があるか、とか、周りにいる人達の許容度はあるか?、とか、そういう

色んな要素が複合されて、思いついたり、やりたくなっちゃったりする訳で、

そういう非日常の中の日常もひっくるめて「日常」ということになるんですけどね(笑)。


ファッションの「T・P・O」と同様に、日頃、その人の考えていることや、行動と

いうのは、厳密に言うなら、意図していようといまいと、その人なりに、環境や集団や

任意のコミュニティの中で、なんらかの行動を起こしています。

「何もしない」というのも、「何もしない」と意思決定した結果の行動といえます。


そもそも「個性」なんてものは、生まれてから死ぬまで一人に一つづつあるものだから、

無理矢理探したり、探求するものではなくて、生きているだけで100%その人の

「個性」だと、私は思っています。


だから、わざわざ捜す必要なんてない。

そのままで十分に個性的な訳です。


ただし、その「個性」がどれだけの人に、受け入れられたり、支持されたり、共感

されたりするのかは別の問題ということです。


さらに言うと、支持されるかどうかというのは、自分以外の誰かが決めることだから、

それは社会情勢とか、その時代毎の常識とか風潮とか、そういった環境に左右される訳で、

例えば、経済が安定成長している時と、未来が不透明な時とでは、注目される歴史上の

人物も全く変わってくるし、そもそも「普通」「常識」かどうかというのは、その時代に

現存する人の多数決の多い方で決まる訳で、要するに、虚ろで曖昧なのが前提です。


「愛」とか「人の役に立つ」という原理原則や根幹論・本質は変わらないと思っているし、

その言葉自体はもう誰もが知っている。

でも、その具体論実行になると、人それぞれ違うし、それこそ個性が出てくる訳で、

その評価というのは、いつも虚ろで曖昧だと思うのです。


「自分なりの具体的一手」は何か?という具体論にこそ、その人らしさが出る訳で、

それこそが「個性」だとすると、最も「具体的」なのは、その人の「日常」の行動行為

であり、客観視できる姿です。


よって、私は「個性」=「日常」と定義してます。


リーダー不在の不透明な時代は、次の時代を切り開く「個性」が求められるとするなら、

私はその人の日常や、考えていること、趣味・嗜好を、毎日のように発信し続ければ、

相手が勝手に、その人の「個性」を認識して、勝手に求めるか求めないかを決めてくれる、

ある意味考えなくても「個性」が確立されていく素晴らしい時代なんじゃないか?と

思っています。


「個性が大事な時代」だと言われて、「自分の個性は何か?」を考えるより、日常や

主張を発信し続けた方が早い。

そう思うのです。


私は、つい最近になって、やっと自覚し始めましたが、他人から「お前は個性的で

変わり者だ」と言われ続けて、自分は個性的なんだ、と認識し始めました(笑)。


私本人は、長い長い間、極めて普通で一般的だと思っていたわけです(笑)。

だって、学級委員とか生徒会長とか、専務とか社長とか副社長とか、大手企業の

サラリーマンとかやってたから、自覚しているのは社会的で一般的な立場にいる自分

な訳ですよ(笑)。


ただ、「お前は個性的で変わり者だ」と言っている相手のことは、私から見たら、

とんでもなく個性的で、変わり者だとも思ってきたし、今でも思っています(笑)。

でも、その本人は、自分は極めて普通で一般的だと自覚したりしています。


そういうことだと思うのです。


誰もが自分は「普通」だと思っているけど、他人から見たら「個性的」(笑)。


どいつもこいつも、個性的で変わり者で、変なのですよ(笑)。


自分から見た他人の「個性的」だと思うことをマネするのもアリですが、ただ、そこに

無理があると、私の経験上、絶対に続きません。


「単なる一時的なマネ」と「無理」は続かないのです。


日常の発信にせよ、販促物にせよ、他人がその人の個性、すなわち「◯◯さんって、

こういう人だよね。」と認識するのは、一定期間の継続が前提となります。


「無理」や「一時的な単なるマネ」は、この前提がなくなるから、個性もへったくれも

なくなります。


まぁ、「マネし続けれるのが個性だ」と言い切ればそれはそれで個性なんでしょうが、

そういう人って、不思議とそういう自覚をしたがらなくて、自分は独創的で個性的だと

思いたがるんですよ(笑)。


無理のない継続とは何か?となると、それはもう、その人がただ生きている日常こそが

そのものだと思うのです。


面白いもので、多くの人は、「自分は自分らしく個性的でいたい。」という感情と、

「目立ちたくない、周りの人と一緒でいたい、普通でいたい。」という感情と、どっちも

持っています(苦笑)。

これが面倒くさい(笑)。

「お前、無個性でつまんない奴だよな。」と言われても嫌がるし、

「お前って、変わり者で変な奴だよなぁ。」と言われても嫌がる(笑)。


じゃ、何て言って欲しいんだよ(笑)、みたいな(笑)。


そうなると、もう、その本人が良かれと思うことを自己責任で発信して、

あとは不特定多数の誰かに委ねるしかないでしょ?(笑)


生き方だけなら、情報を出しても出さなくても、そんなのは、本人のどうでも勝手だと

思うけど、ビジネスにおいては、他人からの評価が100%ですからね。


「何で、私が、見ず知らずのあんたと取引したり、あんたから何か買ったりしなきゃ

いかんの?その理由って何かあるんですか?」と問われまくってるんだから、

まずは「私はこういう人で、こういう理由で、この商売してて、これ売ってるんですよ。」と

一人一人が何らかの情報を出さなきゃ始まらない。


そりゃ、世紀の大発明のような卓越した技術力があったり、ユニクロのさらに1/10の

値段で同じモノを提供できるような生産力があるなら、ただ置いとくだけで売れるん

だろうけど、我々凡人には、そんな能力も資本力もないでしょ。

だから、そういう大手さんがやってることは鼻っから狙うべきではない、と私は結論

づけていますから。


こと現代ビジネスにおいては、モノや技術やサービスだけでは、飽和しまくっている

環境の中で、お金を払うだけの「個性」が求められています。

我々凡人企業における「個性」とは、つまりは「個人の普通の日常」の連続が最も

簡単かつ有効だ、と私は考えている訳です。


しかし、まぁ、自分のブログの画像を改めて見返してみると、自分では「日常」を

ただ羅列しているだけのつもりでも、客観視してみると、やっぱり「変わり者」という

ことになるんでしょうね(苦笑)。


そもそも、こういうアホ画像をブログに上げていいかどうか躊躇しなきゃいけなかったり、

周りの人に対する影響を気にしたりしなきゃいけない環境が面倒で、株式上場した会社を

辞めちゃったワケで、それも私個人の価値観なんだから、個性なんでしょうね(笑)。


「楽しい」と思ったり「面白い」と純粋に思えることを発信できない環境なんてのは、

私にとっては死んでるも同然です(苦笑)。


無理のない日常こそが、個性だという私の論法を前提にするなら、あなたの日常は、

他人から見たら、十分に変で変わり者で個性的だということです(笑)。


だって、多くの人のブログやFacebookの投稿見てると、私から見たら、

「この人、ホントに変わってるなぁ。よくこんなことやったり書いたりして平気で

いられるなぁ。」

というも思ってますもん(笑)。


私もあなたも、ただ生きてるだけで十分に変で変わり者で、そして「個性的」なのです。


情報発信はした方がいいと思っているけど、毎日のように何を書いたらいいのか

分からないとしたら、日常のことをただ書いていけば、それで十分「個性的」だと

いうこでしょう。


ただし、その全ては自己責任で(苦笑)。

私の自分が出している画像を見ながら、改めてそう思いました(苦笑)。


まぁ、よっぽど大丈夫ですよ。

私のことも、あなたのことも、大して誰も注目なんてしてませんし、自分で思ってるほど

見てませんから(笑)。



改めて連続して見てみると、そりゃ変だわな(苦笑)。
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買取王国・坪井副社長の販促実験日記「それって誰が嬉しいの?」






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中小零細企業にとって、製品価値や、価格の安さだけでは、どうにもこうにも圧倒的に

なれない中で、何をやったらいいか?と言えば、私はまごうことなく「個人の情報を

出せ」と考えています。


どの企業も会社も、関わる製品価値や技術を上げたり、少しでも顧客が買いやすく

なるような適性価格を考えています。


私はそれをやる意味がないと言っているのではなくて、プロなら、自分の商品や価格や

知識・技術に対して努力したり考えるのは当たり前だろうし、自分と同じように、

まともなとこならどこでもやっていることだから、ということは、それが普通なんでしょ、

ということです。


「こんなに頑張っているのだから」とか「毎日努力しているのに」と言う人はいますが、

自分の頑張りや努力を自覚したところで、どこも誰もが頑張っているのだから、

普通に頑張っている程度では、文字通り普通であって、それは他者から見て圧倒的に

なる要素にはならない、と思っているのです。


それに対して、個人というのは、そもそもが唯一無二の存在なわけで、最もてっとり

早く圧倒的になる可能性を秘めていると思っています。


情報を出す側にとって、心理的に最もリスクと感じるのは、それを他者からどう思われるか?

ということです。


ただ、他者からどう思われるか、というのは、情報を出した後の問題です。

どんなに良かれと思って情報を出しても、それは相手にとっては何の意味もなかったり、

反応がまるでないこともあるし、批判を受けたり、あげく嫌われることもある。

逆に自分では大したことないと思っていることが、相手にとって貴重であったり、

喜ばれることもあります。


「価値観が多様化している時代」というのは、だからチャンスだと、私は本気で思って

いるのです。


自分から出す情報の全てを、どう受け止められるか、あるいは評価されるか、というのは、

100%相手に委ねられます。

いかなる情報も、それをどう受け止めるかというのは、自分ではなく相手です。


私も、人からの情報発信を見て、勝手に好いたり嫌ったり、有益だと思ったり無意味

だと思ったり、もっと関わりたいと思ったり、うっとおしい、こいつはアホか?と

思ったりします。


でも、それは、情報の発信手が本当にそうなのではなくて、私が勝手にそう思っている、

すなわち、私の個人的な価値観であって、その人そのものではありません。

それだけのことと言えば、それだけのことであり、そして、その全ては情報を出した後の

ことです。


情報を出さない限りは、相手から、好きになられたり嫌われたり、共感されたり批判

されたり、そのステージに上がることすらできないということです。


面白いことに、私から見て、どんなにバカだな、とか、こいつ大丈夫か?、こんな奴とは

会いたくないな、一緒にやれないな、と思っている人でも、その人はその人なりの

コミュニティがあるし、現実としてビジネスができているということです。


私が一方的に避けたいと思っているだけで、その人が世の中全てから避けられている

わけではないということです。


人は誰もが、人からバカにされたくない、という気持ちがあるとは思いますが、

そもそも、そんなに頭が良くてスゴイ人なんでしょうかね?


一つの情報に対して、バカにする人もいれば、共感する人もいる。

それが社会だと思うし、人間だと思うのです。


大手企業になっていまうと、市場シェアを取らざるをえませんから、そりゃ、誰からも

愛されようとしたり、支持されたり、そういうことを考えなきゃいけない側面は出て

くるんでしょうけど、

(個人的には、そもそもそんなこと可能なんかよ?とも思うし、だから無個性に徹して、

製品価値や価格の安さのみしか出せるものがなくなってくるんだろうと思ってるけど)

中小零細や個人企業は、顧客数そのものは大手より全然少なくていいわけでしょ?


だったら個人を出していいし、個性を出していいのです。

出した方がいいんじゃなくて、出していいんです。

共感する人と、嫌う人がいていいんです。

そもそも、それが当たり前ですから。


出した情報に対して、何らかの反応があって、変えた方が良いと思えば変えればいいし、

変えたくなければ変えなくて、そういう繰り返しをしながら、社会の中の自分が段々と

できあがっていくものだと思うのです。


それでも個人の情報を出したくなければ、それはそれで自由でしょうが、私が最も

リスキーだと思うのは「情報を出さない人」という情報が、周りの人に認識されて

しまうことです。


生きているだけで、それは情報だということを認識しておかねばなりません。

情報を出さない人に対しては、何を依頼していいのかも、何をさせてもらっていいのかも、

さっぱり分かりません。


一生一人で暮らしていける程安泰な基盤があるなら構いませんが、そうではないほとんどの

人は、一定の年齢から一定の年齢まで、働き続けることが前提になるわけで、

それは、現実的には、誰かにお金を払って何かをしてもらって、誰かに何かをしてお金を

もらって、生活し続けるということですから、何かをしてもらうにしても、何かをする側と

しても、多かれ少なかれ、誰が、何かを、いくらかで売ったり買ったりするということと

同義です。


ここでいう「何か」と「いくら」に優位性がないとしたら、後は「誰が」しかないと

考えるのは当たり前だと思うのです。


この「誰が」という情報を「出すリスク」を取るか、「情報を出さないリスク」を取るか、

どちらか2択しかないとしたら、私は情報を出すリスクを選択して当然だと思っている

ということです。


顔と名前だけは知っていて長年に渡ってお付き合いしてても、何を考えている奴なのか、

どんな奴なのか、どんな価値観で生きているのか仕事しているのか、

さっぱり分からない奴との打ち合わせ程、面倒なことはありません。


自分を支持してくれる人と、自分を嫌う人といたら、自分を支持してくれる人と一緒に

仕事すればいいのだから、情報を出すことによって、先に分かるとしたら、それだけでも

有効な情報といえるとも言えます。


先日、お仕事をさせて頂いている方々に、なぜ坪井を支持してくれているのか?を

無理矢理でもいいから教えて、と聞いてみました。


出てきた全ての答えは、私の商品ともいえるコンサル能力や知識・技術、あるいは

契約価格ではなく、私の人間性に関わることだけでした(笑)。


私が時間をかけて考えたり、努力したり、磨こうとしている技術や知識ではなく、

私の人となりだけが理由でした(笑)。

それを皆さんが認識しているのは、紛れもなく、私から出している日常や通常の個人の

情報からでした(苦笑)。


リアルに会った時の他愛ない会話や、ソーシャルの発信、表情や髪型、立ち振る舞いや

物言い、ファッション・・・・、全ては私個人からの発信です。


そういうもんだと思うのです。


「個人の情報」は、改めて、商品・価格と同じ、あるいはそれ以上に考えて発信すべきと

感じた時間でした。



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買取王国・坪井副社長の販促実験日記「それって誰が嬉しいの?」
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新幹線の中から富士山を見るのが毎度の楽しみなんだけど、今日みたいにクッキリはっきり

綺麗に見えて素敵だなぁ、と思う時もあれば、そういう時ばかりじゃなくて、

雲が被ってて残念だと思う時もあって、そういう色んな場面を目にしていると、

一つ一つの出来事に対して、いちいち浮かれまくったり、極端に落ち込んだり、

翻弄されることなく、まぁ、嬉しい時はそのまま嬉しいし、辛い時は無理せず今は

辛いんだなぁと、そのままを静かに認識しておく方がいいんだろうなと思いながら、

いざ文章にしてみると、結局同じこと言ってんじゃねーか、とも思ったりする移動中(苦笑)。



まぁ、細かいことはあんまり気にせずに、そのままでいいんだよ、きっと。
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買取王国・坪井副社長の販促実験日記「それって誰が嬉しいの?」