今、全力でやっていることは、後からきっと分かるから | 坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。




先日、父の納骨を終えてきました。

亡くなったのが、2013年の5月でしたから、もう一年半が経ったのですね。



その時は分からなくても、終わってからその意味が分かることもある、だから、

もし意味など分からなくても、今を全力でやってみなさい、ということを、

父には教えてもらった気がしています。



私が家業の傘メーカー卸会社の3代目として戻ったのが1992年、

廃業をしたのが2001年・・・・・、


毅然とした態度で、時に明るく振る舞いながら、粛々と廃業処理をしていく両親の

後ろ姿を見ながら、私は私で次の人生をどうしたらいいものか、ともがきながら、

やはり、自分がもっとしっかりしていれば・・・・・、という言葉にならない

後ろめたさを感じていました。



その後、私は運よくご縁を頂き、リサイクルショップの立ち上げから立場を

頂き、10余年の月日を経て、株式上場という経験をさせて頂きました。


様々なことがありながら、後ろを振り返る余裕などできない月日でしたが、

私の心の中には当時の、後ろめたさというか申し訳なさがずっと残っていたような

気がします。




上場当日の2013年2月14日当時の自分のブログ記事を改めて読み返してみました。

以下、一部抜粋です。

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思うに、私は「立証」したかったのだと思います。



私は、50年の歴史のある家業の廃業経験者です。

祖父が立ち上げ、父が継承し、何不自由なく育てて頂いた「傘屋」の看板と

環境を、3代目で廃業という結果で終止符を打ちました。


昨日のことのようですが、10年以上も前のことです・・・・・。


廃業という行為を進めていく中、祖父と父の証であった、自社ビルの処分の

手続きや、さら地にするために取り壊されていく状態を目の当たりにしました。


立地的には申し分のない、名古屋駅から徒歩5分の場所と、

錦という名古屋の中心地の場所の二か所でした。


今でも、その場所の近くに行くと、当時のことが切なく思い出されます。



廃業手続きや処理をしていく中でも「まぁ、しょうがないわな。」と両親の気丈に

振る舞う姿や、粛々と物事を片づけていく姿、時折見せる寂しそうな姿を見ながら、

これからのことを何も考えていない不安と、こんな風にしてしまった自分に

何ができるのだろうという気持ちが交錯していました。


私は恐らく、長男としては彼らの思い通りには育ってこなかったのだと

思います。



そんな両親の姿を見ながら、

自分には、それまで自分で思っていた程、器も能力も、もっと言うと、

人間としての社会的な価値などないのだろうと、疑心暗鬼になりました。


せめて、自分の力だけではどうにもならない環境や、衰退していく業種業態

だったからだと、唯一残された「言い訳」を支えにしました。


自分は大丈夫だ。

今までにも人にはない色んな経験をさせてもらったし、してきたのだから大丈夫だ。

と自分に言い聞かせました。



両親は、自分達のことより、私のこれからのことを心配してくれていて、

「俺は大丈夫だから。」と言い続けました。



何を根拠に「大丈夫」かなんて言えなかったけど、そう言い続けることで、

自分にも言い聞かせるしかありませんでした。



私は、立証したかった。


あの両親が一所懸命に商売をして、その姿から教えられた息子は、ちゃんと

社会で通用する人であったということを。


家業を廃業することになった以上、残るは、せめて

「あの時、廃業を決めておいて良かった。秀樹があのまま傘屋を

やっているより立派に社会的に成功できたじゃないか。良かった。」

と両親に思ってもらえる実績を創ることを。


運よく、この会社の立ち上げの話を頂きました。

そして10年経って、上場させて頂ける今日に至るです。



無論、一般的な「なぜ上場するのか?」の意図は公的にはあります。

ありますが、個人的な理由においても、私にはどうしても上場したい

理由があったことは確かです。


不純であるのかも知れませんが、支えてきた一つであったことは確かです。



日々体が弱っていき、去年から入院が続いている父が心配でしたが、

上場の報告は何とか間に合いました。

先日、病院に行った時、ベッドの上の父に

「お父さん、2月14日に何とか上場できそうだからね。」

と伝えました。



もう、私の言っていることや、言っている意味が分かるかどうかも

分かりませんが、嬉しそうに笑ってくれたように思いました。


子供のころに記憶のある、厳しい中にも時折見せた、

あの穏やかな優しい笑みでした。


報われたような気持と、色々とあった父への思いが全部抜け落ちた

ような気持になりました。

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あの報告をしに行った日に、病院のベッドの上で半身を起こしながら、

私の声を聞いて、フワァッと優しく微笑んだ父の顔を見た時、

喉の下あたりから足元までずっと溜まっていた得体のしれない何かが、

一気にブワァァァァァァァァァァッと抜け落ちていく感覚に見舞われました。


言葉ではうまく表せることができませんが、

あぁ、こんなこともあるんだなぁ、と思っていました。


もしかしたら、この一瞬の為だけに俺は頑張ってきたのかもしれない、

幼いころから、ずっとずっと見たかった、自分に対して何の混じり気もない、

不純物何一つない、100%の笑顔で喜ばせたい、互いに「良かったなぁ。」と

思えるそんな瞬間が欲しかっただけなのかも知れない・・・・・・、

商売屋の長男として生まれてきた自分と父との積年の色んな想いが、期せずして

頭の中を駆け巡りました。


私は、きっとその時、小さな子供になっていました・・・・・。

父は、子供のころに見ていた父になっていました。



片方でとても純粋なものを感じながら、もう片方で不純極まりない何かも

交錯していました。


何一つ親孝行できなかったけど一つはちゃんと報告できたという気持ちと、

でもそんなの結局は俺の一方的な独りよがりだっただけなんじゃないか?という

気持ちも交錯して困惑していました。




その後、私は訳あって4月に前職を退任・退社。


そして、父は5月に亡くなりました。


もう1年遅かったら、父に報告もできなかったことを考えると、運が良かったと

思うと同時に、ただただ今までお世話になった方々や、全てのことに感謝の気持ちが

込み上げました。







先日の父の納骨の儀を行いながら、そんなことを思い出していました。


前職在籍当時、まっしぐらに全力で何かに向かっていた時に、後になってこんな気持ちに

なるとは夢にも思っていませんでした。別のことを考えていました。


もしかしたら、今、思っているこの気持ちは、もっとずっと後になったら、

違っているのかも知れません。


ただ、少なくとも言えるのは、どんな状況であれ環境であれ、今に全力で向かいなさい、

そうすれば、今は分からなくても、きっと後からちゃんと分かる時がくるから、

と父に言われているような気がしているということです。


だから、まぁ、グダグダも変わらないにせよ、ちゃんと全力でいきます。



そんなことを、親父には教えてもらったのかもなぁ、と、お墓に手を合わせながら、

私は、きっとその時、小さな子供になっていました・・・・・。

父は、子供のころに見ていた父になっていました。



親父、もっと後になったら、どうなるか分からないから、ちゃんとブログに

書き留めたいからね。

またいつか、このブログを読み返す日がきっと来ると思ってるよ。


今までごめんなさい。今までありがとう。






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