「創業者」も「後継者」も自覚しておくべき自分 | 坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。




中小零細企業の社長や後継者の方とお話ししていく中で、その経緯を聞いていくと、


①創業されたか、


②後継ぎとして継承されたか、


この二つしかないことに気付きます。



その理由を聞いていくと、まぁキッカケは様々ではありますが、煎じ詰めれば、


①創業者は、誰の言う事も聞きたくなくて、自分で決めたい


②後継者は、有形無形の財産・資産を労せず手に入れられる


という、それぞれのメリットを選択したと言えます。



それぞれにデメリットもあって、


①創業者は、他人にいらぬことをつべこべ言われることなく、自由ややりたいようにできる


ことは手に入れられますが、お金が十分にない中で新しいことに進む訳ですから、


常にここに苦しみます。


②後継者は、顧客情報も含め、有形無形の財産・資産が何せずして手に入れられはしますが、


色んな意味で、なかなか自分の好きにはできません。



それぞれ、時として隣の芝生は青く見えますが、そのメリット・デメリットは50:50くらいなのだと


思います。

時々双方の経営者が「お前はいいよな。」と言い争いをしている場面に遭遇しますが、


まぁ、そんなもんは個人の好き・嫌いの話だからどうでもいいことで、


そんなに羨ましいなら、今の立場を断ち切って新たなステージに挑めばいいだけのことです。



かく言う私も、家業を継承すべく、大手アパレルの営業から名古屋の零細家業に戻った時は、


顕在意識としては「親が戻ってこい」と言ったからとか、「両親はじめここまで育てて頂いた社員


さん達に恩返しする為」とか、「祖父が立ち上げた歴史ある暖簾を守る為」とか、


まぁそういうことを大義にはしていました。



でも、まぁ、それはそうと、本音の本音を言えば、


アパレル時代の仕事は、私からしてみれば相当過酷で、理不尽で、もう色んな意味でヘキヘキと


していましたから、最悪は家業に戻れば逃避できるなんて甘い考えがあったのも事実ですし、


家業に戻った時の心情としては、「どんなにつべこべ言われようと血の繋がりがある


以上、何があろうと首にはならんわな。」とか、「以前の上司には『うるせーなー』なんてことは言えな


かったけど、親には言ったところで大した問題ではないだろう・・・・。」とか、


「業績が悪い悪いとは言うものの、自由になるお金は少しはあるだろうし、何と言っても


息子さんなんだからそこそこの生活は保障されていだろう。」という、俗にいう甘ったれた認識が


動機の多くを占めていたはずです。



後継者は、後継した時点で、まぁ色々と口では言いはしますが、それはキッカケであって、

どこぞに「楽して儲かる(自由・成果)が手に入る」を選択しているのでしょう。


だって私は「父が戻ってこいと何度も言うので・・・・・。」と理由にはしていましたが、


じゃあ父親が同じくらいのテンションで言った事は全部聞いてきたか?と言われれば、


そうではなかったですから(笑)。



思ったよりも業績が悪かった、多くの年上の番頭さんや先輩がいて大変だ、このまま行けば


衰退の一途を辿る、実績がないうちは誰も認めてくれない・・・・・、と言ったリスクは、

その後に気付くのでしょうが、表裏一体の付き物だということですね。






時を隔てて、今回一人で何かをしていこうとしているのは、自分が本当に思っていることや


信じていることを、周りの人達に配慮したり、遠慮したり、立場だったりと、本当に言いたいことや


自身の主義主張を、「大人の判断」という社会の常識のようなものが、いい加減面倒くさくなった、

と言うのが本音と言えば本音のはずです。



それはそれで傍目にはカッコいいことかも知れないけど、現実的には資本主義社会は


「お金」です。

これで子供達をこの後も食わせて行けるのか?やっているのか?という不安はいつも付きまと


っています(苦笑)。



そういうことです。



アパレル時代に社会の理不尽さと言うものをイヤと言うほど味わったのが大きかったと思うのは、


中小企業の創業者にせよ後継者にせよ、あまり社会の現実というものを経験せずに、


その立場にいる人が多いんじゃないか?ということに気付いた時です。



一般に経営者・リーダーの「器」と表されることが多いのですが、


中小零細企業の経営者の方達は、自分の意向通りに物事が進まなかったり、


意図した通りの評価や認められ方をされなかった時に、凄まじくストレスを


抱えたり、ハレーションを起こしてしうタイプが多いような気がします。



私はよく、任意の集団・組織に属しているのなら、相手の基準を「受け入れること」は


本人が決めていいから、まずは一旦「受け止める」ことまではしようとは心がけます。


その上で、「受け入れる」のか、わが道を進むのかは決めれば良いことだと思うのです。


じゃないと、永遠にキャパは広がりません。


キャパが広がらない最大のリスクは、人生が豊かにならないことだと思っています。



他人から言わせればどうでもいいようなことに、強烈にコダワって我を通そうとしたり、


意向通りに進まなかったり、認められていないと感じているからと言って、「参加」すること


そのものから逃げるのは、「こんな会社いつだって辞めてやる!」と何度も大声で叫ぶものの


一向に辞めないボンクラサラリーマンと何ら変わりなく、その姿は滑稽です。



私は、社会は「理不尽」が前提だと思っています。


それが心地よいか?と言われれば決して心地よくはありませんし、面倒くさくてしかた


ありませんが、社会というのはもともと自分以外の他人という、価値観が違う一人一人の


集まりな訳ですから、好きだろうと嫌いだろうと、そこで生息していくしかなくて、


泣いてもわめいても、それが現実であるという考えです。



「社会は理不尽が当たり前」という価値観を持るている人と、「社会は理不尽だから辛い、自分は不幸。」


という価値観を持っている人と、


どちらが社会での免疫力をもっているかと言えば、言わずもがなでしょう。



学生時代に応援団や体育会系の部活に所属していた学生が優遇されるというのは


よく理解できます。あいつら無茶苦茶理不尽極まりない世界で生活していたはずですから、

普通の基準が、普通の奴より全く違うのです(笑)。

みんな、自分が普通だと思ってますから(笑)。


これは能力の問題ではなく、心の「許容量」の問題だということですね。



そういう意味では、いきなり創業したか、社会経験を1~2年そこそこで継承した人というのは、


経営者としての「器」や「許容量」については、成長チャンスから大きく見放された存在とも


言えます。



だから異業種交流会とか経営者勉強会とかの場があるのでしょうし、自分でやっていても


うまくいかないから参加してみようとするのでしょうが、本人が自分の「行動パターン」を


一旦無理やりにでも変えてみようという意志がない以上は、やっぱり無理なもんは無理なん


だろうと思っている昨今です。



「理不尽」をいつ経験しておくか?と聞かれれば、それはやっぱり早い方がいいのでしょうね。



「思考パターン」が変わるに越したことはありませんが、「思考」は第三者からは見えませんから、


変えるべきは「行動パターン」だというのが私の見解です。


「思考」は本人が勝手にすればいいことだ、くらいに思っています。



理論上のリーダーシップの勉強では、自分とは全く違うタイプをサイドに置いておくべきとか、


社長にも遠慮せずにガンガン意見を言ってくれる幹部がいて欲しい、という組織論みたいなものが


あって、それは頭で理解しているものの、実際にそれをやられると感情が許さないタイプは


とても多く、それは年齢や業績の問題ではなく、どれだけの人と真正面から関わってきたのかと


いう経験の問題なのでしょう。



最悪なのは、「優秀な者や、個性的な人や、出る杭をどんどん引き上げる」と口では言っておいて


結局は自分の言う事を都合よく聞いてくれるタイプを登用していくタイプで、


これは社員達は本当に迷うでしょうね。



自分がどういう人でありたいか?よりも、土壇場の意思決定をする時にどんな行動をしでかしたか?


の映像が自分を客観視するということです。



大事なのは、自分を客観視して自覚しておくことです。


その最大のヒントは、経営者ならば、自分は創業者なのか?継承者なのか?に根幹が


あると考えています。



口で言っていることと、実際に行動していることと、長いスパンで言行一致しているか


どうかのチェックは時に必要でしょうね。




かくいう私はどうなのか?ということですが、サラリーマンも、継承者も、雇われ経営者も


経験してきて、結局どれもこれも面倒くさくなった、ということから、


トップ・リーダーとして「器」「許容量」「キャパ」はない人間だったのだ、と最近になって


やっと自覚できたので(苦笑)、今後のビジネスは一人でやれる範囲に留めるということに


ここにきてやっと(50歳を手前にしてやっと(笑))自覚できた次第です。



色々経験してみて、私はトップ・リーダーとしての「器」はないのという、最悪とも言えますが、


途中で気づけただけ良かったという感じでしょうかね(苦笑)。



自分を自覚すること自体、とても恐いし、勇気がいることだとは思いますし、


「できた」と実感したこど、本当に自覚できたかどうかなんてのはやっぱり分かりません(苦笑)。

でも、その努力はしておくべきだと思っています。


そのことそのものに意味があると今のところ信じています。




        自分を客観視しようとすることそのもに意味がある。

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