現在在NHKの朝ドラで「風薫る」が放送されている。これは「明治のナイチンゲール」といわれた大関知、鈴木雅をモチーフにした2人のナースを主人公したものである。しかしこのドラマのもう1人の主人公として、多部未華子が演じる山川(大山)捨松の存在が欠かせない。
山川(大山)捨松は、永井(瓜生)繁子、津田梅子らと岩倉使節団に随行し、日本人初の女子留学生としてアメリカに渡っている。帰国後彼女たちは、留学の経験を活かし、ともに生涯にわたり、日本の福祉や女性教育の発展に大きく貢献した。
もし、山川(大山)捨松たちの女性がいなければ、「風薫る」のドラマは存在しなかったのではないか。
そこで今回はもう1人の主人公である山川(大山)捨松を取り巻く人間模様についてみることにする。
日本人初の女子留学
山川捨松の生涯において、二度の挫折がある。最初の挫折は戊辰戦争により、会津藩の家老の末娘であった捨松が8歳のとき会津を追われ、青森で過酷な生活を過ごすこととなったことである。
戊辰戦争時には白虎隊の悲劇で有名な鶴ヶ城で負傷兵の看護に携わっており、この経験が後の看護婦教育活動の契機のひとつになったのかも知れない。
山川捨松は11歳のとき、日本で最初の女子留学生(10年間の官費留学生)として、津田梅子(当時6歳)、永井繁子(8歳)上田悌子(14歳)、吉益亮子(14歳)の5人が参加した。
彼女たちの出身は、いずれも明治維新の敗者である旧幕臣、佐幕派の娘であり、明治政府から冷遇されていた士族の少女達であった。
留学の大きな目的は、「日本の近代化のためには女子教育が必要」というスローガンであった。それでも当時の嫁入り適齢期が15歳から20歳といわれる時代に官費留学とはいえ、帰国後の年齢を考えた場合、相当の覚悟のうえの留学だったに違いない。そこには旧幕臣のプライドと志の高さが伺える。
留学生たちは1871年(明治4年)岩倉使節団に随行し、アメリカに渡ったが、このうち上田と吉益は体調不良という理由で途中で帰国した。残った3人は生涯親しくしており、帰国後のそれぞれの活動にも大きくかかわることとなる。
山川捨松の本名は「さき」後に「咲子」であったが、留学の際母親から「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりで帰りを待つ(松)。」といわれ、「捨松」と改名し、生涯その名前を使い続けた。
山川捨松と永井繁子は同じ大学で過ごしたが、繁子は留学期限の終了とともに帰国した。捨松はアメリカの大学卒業のため、滞在が1年延長され、1882年に女性として初めてアメリカの大学を卒業し帰国した。捨松の12年間に及ぶ長期留学となり、その間学業に加え衛生や看護を学び、学士号と併せ看護婦免許を取得した。
同時に衛生や看護の普及には、個人の善意に頼ることでなく、社会全体で支える仕組みを確立しなければならないことを強く認識した。今日の社会保障や公衆衛生の考え方に通じるものである。
こうした経験が日本で初めての本格的なチャリティーバザーの導入、さらには看護婦養成学校を創設するなどの活動に発展した。
また語学においては、英語はもちろんフランス語、ドイツ語をマスターし、いわゆるバイリンガルとなったが、12年間の留学生活により、皮肉にも日本語がおぼつかなくなっていた。しかしこのことが、その後の結婚に功を奏することとなった。
岩倉使節団へ随行
1871年(明治4年)から1,873年にかけて岩倉具視を特命全権大使として、アメリカ、ヨーロッパ(12カ国)に派遣された。副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳などの明治政府の要人を含め留学生や書記官など総勢108人で構成された。
使節団は欧米の政治制度、経済産業、教育制度、国防などを視察し、帰国後日本の近代化に大きく貢献した。
山川捨松、永井繁子、津田梅子にとって、使節団とともに留学先に随行し、政府の要人たちとわずかな期間であったが、接することができたことは、その後の彼女たちの活動に大きく影響をおよぼすことになったのはいうまでもない。
使節団の案内役は伊藤博文が行った。伊藤博文は帰国後、山川捨松、永井繁子、津田梅子とも交流を深めた。
伊藤博文は1885年(明治18年)初代内閣総理大臣に就任し、近代化の一環として外務大臣の井上馨とともに、西洋建築の鹿鳴館を日比谷に作り、高官たちが家族ともども、外国人たちを招いて、しばしば舞踏会がもよおされた。鹿鳴館は捨松の外交の活躍の場となった。
留学帰国後の生活
山川捨松の二度目の挫折は、帰国後に留学の日本での受け皿であった官庁が消滅しており、予定されていた教職の道が閉ざされたことである。その後も会津なまりでたどたどしい日本語しか喋れなくなっていた捨松を教職で採用するところはなかった。山川家の名誉の起死回生をかけて見知らぬ国にわたり、努力と才能を持った捨松の落胆ぶりは容易に想像できる。
この状況を救うキッカケを作ったのは、留学をともにした永井繁子である。繁子は1882年(明治15年)アメリカで知り合った瓜生外吉(海軍大尉)と結婚したが、結婚式に参列していた捨松とその後結婚する陸軍卿大山巌を引き合わせたのである。
しかし大山巌は再婚であり、しかも戊辰戦争で敵対した薩摩藩出身であったため、周囲から多くの反対があった。それがかえって二人の結び付きを強くしたのかも知れない。
当時としては珍しい恋愛結婚であったが、その際2人で日比谷公園でのデートにおいて、薩摩弁の巌と会津弁の捨松との会話はほとんど通じず、フランスに留学経験のある巌とはフランス語で会話したといわれる。薩摩弁で「すいとーとばい」といわれるより「ジュテーム」といわれる方が捨松にとって心地好く感じたのであろう。
大山巌との結婚により、捨松は政府高官の立場で、留学で得た知識を生かす道を選んだ。とくに鹿鳴館ではバイリンガルの語学力を生かし、鹿鳴館の華と称されるほど、各国の要人との社交交渉に貢献し、巌とともに日本の国際的地位を高めた。
さらに捨松は鹿鳴館内において、留学での経験をもとに慈善バザーを発案し、日本で初めてチャリティーバザーを実施した。その資金が日本初の看護学校設立へと繋がり、その後も日本赤十字社の設立にもかかわるなど近代看護の道を切り拓くなどの大輪の花を咲かせた。
これらから捨松が経験した二度の挫折は、彼女のその後の活躍の序章であったことが分かる。このことは津田梅子にも共通するものであった。
なお永井(瓜生)繫子は留学時に学んだ西洋音楽とピアノの専門知識と技能を活かし、日本最初のピアニストとされ、鹿鳴館において演奏を行っている。
女子地位の向上
しかし捨松のもう一つの念願であった女子教育の育成については、夢半ばの状況であった。捨松の残した女子教育の育成の夢をかなえたのが、朋友であった津田梅子である。
梅子は6歳という幼い時期に留学したため、帰国時にはほとんど日本語を忘れており、このため、捨松と同様に帰国後の教職の道が閉ざされていた。
梅子が英語教師としての教職を得たのは帰国して3年後の1885年(明治18年)であった。この職は岩倉使節団でともにした伊藤博文の尽力によるものであり、その後しばらくは英語の家庭教師として伊藤博文の家で過ごしている。
それでも生涯日本語が不得手であり、捨松、繁子との会話は英語であったといわれる。こうした厳しい状況にもかかわらず、梅子の志は衰えることなく、1900年(明治33年)「女子英語塾」(現在の津田塾大学)を設立した。その際捨松と繁子は資金や人材の確保などの支援に尽力した。
このように留学をともにした山川(大山)捨松、永井(瓜生)繫子、津田梅子などの生涯を捧げる強烈なエネルギーによって、日本の福祉や女子教育の道が開かれた。 それでも国立大学に女子を受け入れられるようになったのは、46年後の1946年(昭和21年)になってからである。
日本の未来
「風薫る」のドラマの背景には、山川(大山)捨松、永井(瓜生)繫子、津田梅子を中心とする人間模様が存在している。このドラマにおいて、今後彼女たちが登場するかどうかわからないが、こうした状況を理解しながらみると、さらに重みと深さが増す。
いまひとつ、このドラマはこれまでの日本の発展に女性の果たしてきた役割の大きさを訴えている面もうかがえる。
日本の発展には女性の登用が不可欠であるといわれて久しい。ようやく日本で初めての女性総理大臣が誕生した。初代総理代人の伊藤博文の登場から140年もの長い時間が経過している。日本のこれからの未来が楽しみである。