torotoroheadのブログ

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今は2026年1月3日の夜明け前。

2025年12月31日大晦日、紅白歌合戦、「クスノキ」というのを福山雅治が唄うのを観ました。政治信条をブログでぶちまけようなんて、やりたくないと思っていたのに、「いや、たとえ弱発信でも、意味があるかどうかは分からないけども、黙認してては駄目なのではなかろうか」と思うに至りました。

とはいえ、身元を露わにして堂々と訴えるのはためらいます。はっきり言うと、昨今の空気のなかで自分の共産的な、平和に対する考え方を現すのが怖いです。少し前なら、20年前なら共感の下に話せる環境もあったと思います。今は違う。そのくらい、「変わってきてしまっている」と思います。

結論から言うと、「クスノキ」という歌に、また、真っ直ぐな瞳を演じて唄う福山雅治に、「戦争に向かう」おぞましさを感じました。先に言っておきますが、私は戦争を知らない世代です。

だいぶ前ですが、辺見庸さんが「サライ」という曲を軍歌のようだと批判するのを読んだことがありました。当時は意味が分からないでもないものの、「言い過ぎでは」との疑問も同時に感じるくらい私は鈍感でした。鈍感さは変わらないです。その私が感じる危機感……なのに、どうやら今の日本はそうではない。事もあろうか、「クスノキ」という歌の歌詞を、原爆が落とされた悲劇と、平和を求める声とにつないで唄う……なぜそんなことができるのでしょうか。福山雅治さんも恐らくなんの疑念なしに唄えている、もちろんなんの悪気も計算もないのだと思います。だからこそなんです。"無自覚に"「向かっている」……辺見さんが言いたかったのもそういうことなのかもしれないと、今思います。

今の日本政府は防衛費を増やしています。多くの国民が生活に苦しんだり、節約している状況でも変わらずに……。私も「武装している相手に素手で戦えと?」という問い、「情勢が変化している、自分の身は自分で守らねば」という意見に真っ向から反対できる勇気は持ち合わせてません。でも、武装することに対する逡巡、矛盾していることを認めて批判を受けながら矛盾を抱き続け忍ぶ弱さを感じるべきと、恐れ多くも確信します。現政府の多くの場面でそれが感じられない。「先進国の多くがそうしている」=正しいとは限らないのに。

政治と、紅白歌合戦の「クスノキ」を関連づけるのは飛躍だと、本投稿を読んだ多くの方に批判される気がします。共通点は「何が間違ってるの?」となる無自覚です。

日本は他国に類のない、「原爆を落とされた経験がある国」です。なぜ他の先進国に倣らうのですか。

最後に「クスノキ」という歌の歌詞一部を引用し指摘させていただきます。言うまでもなく表現は自由です。

「我が魂は奪われはしない この身折られど

この身焼かれども」←我々は植物ではなく動物。魂は知らんが、折られれば死ぬほど痛く、焼かれれば死ぬ。