はい。すっかり忘れてます。記憶が。



4.5日はゆっくりして帳簿?などみてました。片付けしようかと思いつつ面倒なのでしてません。
本当なら来てくれた方々に連絡を入れるのですがそんな余裕がなくはしょってます。


一応、一番にやったのは私が住んでる役場から住民票、印鑑証明、本籍の紙をもらい、実家に行き、実家の役場へ手続きに。

保険証や障害者手帳、年金手帳など返しました。これは寂しかった。居ないんだって実感した。
あと、父、母の住民票やら印鑑証明とかをとり銀行へ。
そしたらお母さんの産まれてから結婚までの住んでた場所の書類が必要で行田まで行って来ましたよ。

とてもじゃないけど一日では回れないよね。銀行とかさ。子供も居るし幼稚園が始まったらまた忙しくなるんだろうな。

でも今日は熊谷の土手で桜みたり息抜きしてきました。お父さんも連れて行ったので息抜き出来たわって言ってたよ。

これからやること多いけどなんとかなるかなぁ~
次の日は初七日。
おとんは病院の日。しんどかったけど行きましたよ病院。

結果は大丈夫だって。無くなってるって。よかった。


この病院でお母さんも世話になってたから看護師さん見つかるかなぁ~と思って廊下をウロウロしてたら居てお母さんの事話せた。ショックをうけてたけどおとんと私の事も心配してくれた。人間っていいよな。お母さんが繋げてくれたんだよね。
3月29日日曜
お通夜。会館をお借りするので家に居れる時間は少し。
オプションでおくりびと?みたく綺麗に体を拭き頭を荒い化粧をしてもらい着物を着せるやるをやってもらった。
すごく綺麗にしてくれました。若返った感じです。ほんとに。病気の時は顔は強ばり染みは浮き出ておばあちゃんじゃなくお婆さんって感じが綺麗でスヤスヤ寝てる感じ。本当起きてくるんじゃないかってくらい綺麗でした。


その後旅支度をし、折り紙やら手紙、孫が書いた似顔絵、よく着てた服バッグ、くつに最後まで使ってたさいふ、おばさんが持ってきた花の写真、あんパン、うどん、おかんが唯一障害者施設で働いてた時の給料袋を入れ霊柩車で出発。
家を後にしました。


会館でお通夜をしました。


本当に凄い数の一般の方々が着てくれて線香あげてくれました。
知らせてないのにいっぱい来てくれました!ビックリです。
100は軽く越えてた。そんなに来ないと想定してたので小さい会館にしたらギリギリでした。
母の偉大さが身に染みた。
村だから地域性があるのもあるけど本当ビックリです。


私の同級の親も来てたし、子供の分も持ってきてくれてた。ありがたい。
こうやって自分の死後、これが付き合いだとその身を持って教えてもらった気がします。
ほんと悲しみより忙しいさでパニックになるけどありがたい!って思う方が大きいお通夜でした。

その後の食事は多く見積もって失敗。かなり余った。一般の人は二人しか残ってもらわなかったけどまー、よかったかな?

なんかルールがあるらしく伍長とやらがいて会計など組合の人が手伝ってくれるんだけどこの方達が帰るまではうちらは帰れないみたいで、帰るよう促すのは父の兄貴の役目なんだけど言わないのよね。

そしたらちょっと気の強そうなおじさんが自らそろそろ!と大きい声で言ってビビったよね。
全く頼りないあにだ。


で、明日はバスは出るのか、昼の弁当は最終で何個だとか決めるのに兄貴はそそくさ帰って、親戚じゅうに明日はー?明日は?で言われ、ぶちギレる私。テンパりすぎると言うね。
うっさいんだよね。じじばば。
葬儀やと話してるのに横からあーだこーだ。そして肝心な兄は帰るはで全部私まかせ。父もわからないからと私まかせ。障害が、あるから父はしょうがないとしても聞いて理解はしようとしてるにもかかわらず、それをフォローするための兄貴が駄目でイライラ。そして荒らされイライラ
。帰り久々文句言いまくったよね。娘もパパもおとんも黙って聞いてくれてた(笑)
誰もがテンパるよって。パパやさし。娘もぎゅーしてくれて頑張れた。
息子。パイパイくれながら頑張ると誓った

続く。