眠れないので、思うところを。



 帰国してはや4ヶ月が過ぎました。
IPCでの日々で思い出に残るのは楽しくて、心から笑った思い出。
それもすべて過去の事だけれど、今を生きる糧になっています。




 過去との付き合い方について。
過去は人生に彩りを与えるものだと思う。
その人が生きた軌跡、為した事柄、笑ったこと、泣いたこと、怒ったこと、考えにふけったこと。
全てがその人のバックグラウンドとして蓄積されてゆく。
白紙なことは、きっとない。思い出せない時期、思い出したくない時期はそれぞれあれど、それでも人は次の一日、次の一歩へと進んでいく。

 ただ、過去の危ういところは、それに囚われてしまうこと。
特に私は、過去が美しかったものだと捉えがちなところがある。
時間が経つにつれて美化されていって、たとえ当時は嫌なことがあったとしても、それを記憶の奥底に埋めて、額縁で飾られた過去の「良い面」だけを見るようになっている気がする。

 これは危ういこと。でも同時に、それこそが過去と言うものだとも思う。過去に戻れるわけはない(研究はされてるだろうけど。)し、自分の過去に戻りたいかと言うと、そうでもない。当時は当時で辛くて泣いて困ってる。今振り返ればそうでもないと思えるだけで、生きている以上はいつだって労苦と苦悩と歓喜と進歩の連続だと、今なら思える。

 今なら、あの人を許せる気がする。今なら、心から祝福することができる気がする。
そんな経験、そんな人が、誰しもひとりやふたりは居るんじゃないかと、そう思う。
私も、今なら理解できると思う。赦せはしないけど、許すことならできると思う。


 先日読んだ本に、「思い出は塗り替えてもいい、付箋のように重ね貼りしてもいい」という文句を見つけました。いい言葉だな、と思います。思い出して少し笑うとか、話題を広げるための呼び水にするとか、そんな使い方が出来ればとてもいい。
 危ないのは、(私もそうだけど、)過去にしがみついてしまうこと。そうしたい気持ちはわかる。特に私には、過去の経験が少なからず誇りを担保するものだったから。幸いなことに、地位を担保するものではなかったし、それを(身を以て)知ることが出来た。

 当時の人生計画が崩れた代わりに、もう少し生きやすい過ごし方と、その為に自分をどう変えなければいけないかを吟味する時間を得た。
決して誇れることだと言うわけではないけれど、過去にしがみつかなくても生きていけるし、目線を前に置いた方が生きやすい事を知った。だから、今は目線を、志向を前に置くように努力して過ごしてる。


 過去が悪いわけじゃない。
過去に囚われることがいけない。
四季がとめどなく流れ、人の体も新陳代謝で生まれ変わってる。(もう少し良い表現がある気がする…。)
だから、生き方も新陳代謝した方が、きっと上手く生きられると思う。








 ここ一週間ほど、床に就いてから同じイメージが何度も頭に浮かんだ。
荒縄と、十三階段。首に縄をかけて吊るされるイメージ。吊るされてるのは、たびたび自分の姿だったり、時たま、吊るしてやりたいと思う奴輩だったり。
 なぜこんなイメージが浮かぶのかわからず、持て余していたのだけど、さっきそれらしき結論を作った。

 吊るしたいのは、過去の自分。過去に囚われようとする安易な自分。過去から持っているイメージそのもの。
あらゆる過去に胡坐をかこうとする精神、それを括って吊るしてしまいたいのだと思う。
 だから、私はそれを良しとする。過去に囚われそうな自分を、その都度吊るす。一日の終わりにその日の自分を縄で吊るす。
 そして、積み重なった骸の上に明日の自分、新しい自分として立ち、次の一日を、次の一歩を進む。そんなイメージを持ってみようかと考えています。

 なにやらあまりよくない例えではありますが、要するに、過去を捉えず囚われずに生きようと、そう思った次第です。




 だから、私自身が自分をより自律して、より良い(と思う)形で生きればいいと思う。