猿たちの棲む森
街のお調子者たちが、倫理についてなにかを積み上げようとしていた
建築物たちはうるさく影と光をおとし、湯気が上がり、街はざわめき
辻々で子どもたちを説教する声が
各国からの巡礼者を饗応して組織の糸車を回しはじめる
そうして、機は熟した
天球儀を手に今、神が降り立つ
世界が立ち現れ、知と理性の風に陋屋は震えた
おお光よ、われらを教え導きたまえ
世界は終わり、世界が始まる
われらは奇跡を目の前にし、その偉大な力にひれ伏すだろう
神は笑って、力を示した
人間どもが卑怯な豚のようにいななき、盗人は鶏のように跳びはね逃げ回る
神は気まぐれに
時々命を与え、時々は命を奪う
街は次第に光で満ちていった
ちょうどその頃
人の訪れることもないそそり立つ岩壁に囲まれた小さな湖の、波すらたたぬ沈黙する水の中で
何か得体の知れないものが目覚めようとしていた
それは姿を現す前から、異様な臭気と凶暴な地鳴りのような呻きでおのれを誇示する
闇の中に蠢く支配者の中の支配者、かつて具現化されたことのない力
あらゆる天体を否定する闇、渾天儀を食らう悪魔
すると一匹の猿が、
岩壁の隙間から顔をだし、禍々しい闇に目を凝らす
一匹、また一匹
音もたてず数を増やす猿たち
日が落ち、夜が支配しても猿たちは増えていった
闇を、いま生まれようとする地獄を見つめて
街では神が異常を訴えていた
それは豚たちの猜疑心を呼び、神は盗人たちの手で磔にされる
神は唸り声を上げて天を呪う
ちょうど湖に現れようとする得体の知れないものの放つ
臭気を、呻き声を放って
湖では岩壁の下で
ようやく湖水は煮えたぎり、それは一瞬水面から顔を現した
混沌は無数の猿たちの見つめる中、街で磔にされた神と同じ容貌を一瞬だけ形作り
猿どもめが
と山嶺の彼方へ轟く禍々しい声を放ち、呪い
再び湖底へと沈んでいった
岩壁はすこしずつ崩れはじめ、傾れ落ち
やがて無数の岩で湖は埋め尽くされてしまった
そして猿たちは
いつものようにすばしこく大地を駆け
それぞれの森へと帰って行く
それぞれの棲む森へ
何事もなかったかのように
なぜ釣れなくなるのか?
いちどナマズのポイントに出かけただけで、ことしは釣りにいっていません。
あああああ… (笑)
きっ、気をとりなおして、ルアーのことでも考えましょう (^_^;)。
たしかこれくらいの時期、スズキ(シーバス)がときどき釣れるという情報を得て、その川にむかったのでした。
このスズキ釣りデビュー戦でセイゴを手にしました。それまでしていたのはナマズ釣り、上州屋のファミリー竿、太いラインで、トップを投げていた。もしこのセイゴが釣れていなかったら、別の釣りを志していたかもしれません。
そのときのルアーは、邪道のヨレヨレ。ちゃんと釣れるようになってから、このヨレヨレは実に確率の高い、秋のいわゆるエサでした。
しかしここ数年、持ちだすことすらほとんどなくなった。ミニヨレならまったくダメではないし、経験値があがってからそれで春に釣った記憶もあるけれど、弾丸数がすくなくなっても、もう補充しようとはおもいません。
すくなくとも秋のエサではない。
ヨレヨレの場合、重いので根掛かりしやすく、そこを減点するということもあります。しかしあの釣れるという自信があれば、まだ主力に生きのこっているでしょう。
なぜ釣れなくなったのか。
昔読んだ記事では、釣れたルアーは時には一年つかえなくなる、ということでした。魚がおぼえてスレると。
しかしたぶんそれだけでなく、たとえばサイズの問題があります。とくにじぶんの行くところはどこもひとがおおく、とくに水路化して足もとを狙うようなところでは、でかいものを投げて釣れることはまあありません。
あとは材質から透明色がつくれない、ということもありますね。そんなに透明色に依存してはいないけれど、あった方がいい。
しかしそれらのこともひっくるめて、結局は
他にいいルアーがあるから
ではないでしょうか。
ほんとうの名作は古びない、なんていうとなんの話かわかってしまいますけれども (笑)。
スズキにくらべて、ナマズや(じぶんの場合リリースしない)バス釣りがたのしいのは、多彩なルアーで釣れることです。
しかしスズキだと、やっぱりこれか~、みたいなことがすくなくない。遠心的ではなく求心的なルアー選択といえます。
といっても、いろいろとりこみながら、トライしながらそれをする必要があって、そこが魅力ではありますね。
あともうひとつ。
邪道のルアーは好きなのですが、意外にビジュアルなところがあり、その個性的な外観に飽きると、もとにもどれなくなり敬遠してしまう。
そうなると投げないから釣れませんよね(笑)。
うるさい外観が売りのメガバスは、そこが嫌われる理由のひとつなのかもしれません。
釣りに行きたい
このところ、漁港の、マナーのわるい釣りびとが話題になっています。にわかだからなのもあるでしょう。かれらは常日頃から釣りをするわけではないので、極端な話そこがどうなっても関係ないとおもっているのでしょう。さらには海の場合、おいしくいただけるサカナが釣れるため、ちょっと客層(釣りびとのタイプ)がちがうこともあるでしょうか。
じぶんが去年館山で経験した印象を言えば、まったくわるい意味で、遠慮がありません。
ルアーを投げる釣りに比べると餌釣りは、密集しますね。ひとつは撒き餌の効果でもうひとつが移動を前提にしていないので、どうしてもポイントが偏るのですね。
その雰囲気の中、すぐ横によってきてルアーを投げる、わかいひとと、いい年のおじさんと、出会いました。
声ひとつかけるわけでもありません。びっくりします。
そもそもひとがあつまればサカナは警戒するでしょう。撒き餌の釣りでなく海上釣り堀でもないんだから、とおもいますがそんなことより、危険だったり集中できなくなくさせて、ひとを不愉快にすることをなんともおもわないんですね。
まあしかし、別の見方をすると、日本人はたいてい、ソーシャル・ディスタンスがきらいなのかもしれません。
ルアー釣りでも、何人かで場所をさだめ、和気あいあい釣りをしてブログで仲間どうし報告しあう、というような方がいます。
集合心理学がかんがえる自我は、個人心理とはちがうもので、集合的なものから身をひきはがすような行為の結果、存在できるのだとおもいます。
日本人は自我が弱いといわれます。逆にいうと集合的なものの中に自分を見いだす。ひとと距離をおくことは、かなりなプレッシャーになるのではないですかね。
釣りくらいゆるしてほしいとじぶんはおもうわけですが、世間でのありようは、バーベキューとたいしてかわらない。だからゆるされない。いい迷惑です。
といいたかったのでした(笑)。
