翌朝早く、翠明は清爛の部屋に行った。
そしてその光景を見て思わず足を止め、息を飲んだ。
部屋は荒れ果て、椅子も机もひっくり返っていた。床には筆が散らばり水瓶も倒れていた。翠明は寝床を見た、そこに清爛の姿はない。驚き部屋を見回すと、部屋の隅でうずくまっている清爛を見つけた。膝を抱え顔を埋めて小さく丸くなっている清爛、翠明はゆっくり足を進め、そんな清爛の横にしゃがむ。顔を上げない清爛、翠明はそっと、清爛に触れた。
清爛は反応しなかった。
翠明は優しく清爛の身体を揺すった。
ややあって、ゆっくりと顔を上げる清爛。そしてゆっくりと翠明を見つめた。
「翠明・・・」
清爛はつぶやき、翠明は優しい笑顔でうなずいた。
清爛を立ちあがらせ、寝床に腰を下ろさせる翠明。濡れてしまっている足を拭き、清爛の前にしゃがんで顔を見上げ微笑む。
「俺は、何をしたんだ・・・?」
翠明は笑顔で顔を左右に振った。
翠明は吹き飛ばされた櫛を見つけ清爛の髪を優しく梳いた。荒れてしまった髪を整える様に優しく梳かし、顔にかかる髪をすくい上げ、後ろで束ねた。
そして再び清爛の前にかがんで顔を見上げ微笑むと、翠明は部屋を片付け始めた。
その間清爛は全く動かなかった。
玉連や吏志が来る前に翠明は部屋を片付け終わり、何事もなかったかのように竈に立つ。
そしてやがてやって来た玉連と朝食を準備し、清爛の部屋に運ぶ。清爛はまたしても口を付けなかった。
「困りましたねぇ・・・」
玉連が深く息を吐く。
翠明は筆を持ち、玉連に問いかける。
【冬瓜はありませんか】
「冬瓜?ございますよ、」
【作りたいものがあります】
「わかりました、ご準備いたしましょう。」
玉連はそう言って微笑むと、部屋を出て行った。
翠明はそっと清爛の横に座った。
「翠明・・・?」
翠明は清爛の手を取り、微笑んでうなずいた。
やがて玉連が冬瓜を用意し、翠明は清爛に頭を下げ部屋を出る。そして竈に立ち、以前清爛が熱を出した時に作った瓜の汁物を作った。あの時と同じように冬瓜を崩し、干し肉をできるだけ小さく裂き、生姜を入れ、熱くない様に少し冷まして小さめの匙を付けた。
「瓜を汁物に?」
玉連の問いに、翠明はうなずいた。
そしてそれを清爛の元へ運ぶ。
相変わらず寝床に座ったままの清爛、翠明はその横に座り、持ってきたものを清爛に見せた。清爛は汁に目を落とすも、自ら手を動かそうとはしない。翠明は匙ですくい、清爛の口元に運ぶ。そして唇に付け、口を開けるように促した。清爛はゆっくりと口を開ける。翠明はそっと口の中に汁を流し込んだ。
「おや、食べた。」
清爛は口に入ったものを飲んだ。翠明は微笑み、再び清爛の口に運ぶ。すると清爛は自ら口を開けた。
清爛は椀の中のものをほとんど飲んだ。手ぬぐいで清爛の口を拭く翠明、その光景は幼子の世話をする母親のようだと玉連は思った。
翠明は常に笑顔だった。
昼も夜も、翠明が介助した。夜には汁物以外も少し口にしたが、固形の物は口にしなかった。
そしてその夜も、三人で話し合った。
「これは長引きそうですね・・・」
吏志は深い溜息をついた。
「まるで幼子に戻った様ですねぇ。」
玉連もまた深い溜息をついた。
「戦場で何があったかは調べておきます、そこに原因があるかもしれないので。」
「そうですね、原因が分かれば何か方法があるかもしれませんね。」
翠明は筆を動かした。
【吏志様、お願いがあります】
「なんでしょう」
【清爛様の横に、私も寝られる様にしては頂けませんか】
「それは構いませんが・・・」
【私が面倒を見ます】
「ですが翠明様、これはかなり大変ですよ?」
翠明は優しく微笑んだ。
【私は清爛様に買われました。言わば救って頂きました。そして共に側にいようと約束をしました。私は一生涯孫文様と言う書官にお着きする覚悟です、側にいさせてください】
翠明のこの言葉が本当だと言う事は玉連にも吏志にもわかっていた。
「わかりました、明日のうちには準備いたしましょう。」
翠明は頭を下げる。そして再び筆を動かした。
【吏志様にもう一つだけ、お願いがあります】
「はい、何でも。」
吏志も微笑んだ。
【厠にお連れするのだけは、お願いできませんか】
吏志は固まり、玉連があらとつぶやいた。
【今日は私が定期的に連れて行ったのですが、お願いできますと助かります】
「わかりました・・・」
そこまでだったかと吏志は頭を抱えた。
「これでは本当に赤ん坊に戻った様ですねぇ・・・」
玉連も呆れた様につぶやいた。
「翠明様、同じようになった花街の娘たちは、どうなるのですか?いつかは戻るのですか?」
【戻られた方も見かけております】
それは、戻らなかった者もいると言う意味だろうと吏志は思った。
「高蓬様はご存じなのですか?」
「それが、今はまだ戦の後処理やらでお会いできていないのです。もう少ししましたら聞いてみます。」
【明日からお仕事を再開しましょう】
翠明はそう書き、吏志は驚いた。
「いや、ですが清爛様があの状態では・・・」
【書斎に座らせておきましょう、いつも通りの日常を過ごさせた方が良いと思います。文を待っている方もいるのですから】
「翠明様には本当にご迷惑をおかけするばかりです。」
【もとに戻られましたら、楽をさせてもらいます】
翠明は笑った。
翌朝も翠明は誰よりも早く清爛の所に行った。今朝の清爛は荒れている様子はなく、おとなしく寝床で寝ていた。翠明はほっと胸をなでおろす。
そして自室に戻るとその日の清爛の様子を記録として書き留めた。
翠明は清爛を湯に入れた。そして事前に吏志より預かったカミソリを持参し、清爛の無精ひげを剃ろうとその横にかがんだ。
その時、翠明は突然手を叩かれた。
そしてそれと同時に剃刀が浴室の床に転がった。
翠明は驚き固まる。
しかしすぐに立ち上がり、再び剃刀を持って清爛の横にしゃがんだ。逃げようとする清爛の手を掴み、翠明は優しく微笑んだ。しかし清爛は剃刀を再び見るや翠明の手を払おうとする。それはまるで、怯えている様だと翠明は感じた。そして、戦場で刃物による何か嫌な思い出でもあるのだろうかと思った。
翠明は変わらずに微笑み、清爛の両目を片手で覆い、撫でる様にそっと手を下ろす。
清爛はその動作に促されるように目を閉じ、そして翠明の手が離れたと同時に、再び目を開ける。
翠明は目を開けた清爛の前に顔を覗かせ、笑顔で首を左右に振った。
そして再び目を覆い閉じるように促す。
再び目を開けてしまう清爛、翠明は根気よく、目を閉じる様に教えた。
数回の後、清爛は目を閉じたまま開けなかった。翠明はそっと清爛の頬に手を当て、慎重に剃刀を当てる。そしてゆっくりと清爛の髭を剃った。清爛は黙ってされるがままにしていた。片側を剃って、反対側に回りもう片側も剃った。翠明にとって初めての作業である事と、先ほどの清爛の強い反応があったため時間がかかってしまったが、何とか清爛の顔をもとの姿に戻すことが出来た。
いつも通り朝食の介助をし、服を着替えさせ、翠明は清爛を書斎に連れて行き書官孫文の机に座らせた。
相変わらず無気力でぼーっとしているけれど、とりあえず嫌がる事なく清爛は座っていた。
「おはようございます、孫文様、翠明様。」
吏志がやって来て挨拶を行い、翠明が挨拶をする。
「お上手ですね。」
吏志は清爛の顔を見て翠明に笑いかけた。
清爛は書斎にこそいるが筆を執ることもなく、翠明が全ての仕事を一人で行った。
時折吏志が清爛を連れ出すも、それ以外は何も変わらなかった。昼食も未だ自ら取ろうとしない清爛、それでも口を開けてくれる様になったため、翠明がかいがいしく世話をした。吏志も玉連も、このままでは翠明が倒れてしまわないかと心配で仕方なかった。そしてそれと同時に、翠明が倒れてしまったらここまで清爛の世話を出来る者はいないだろうとも思った。
この日より翠明は清爛の部屋で共に寝起きをする様になった。清爛の寝床は二人が寝ても問題ない大きさになり、翠明の私物がいくつか持ち込まれた。着替えも全て翠明は清爛の部屋に置いた。
「では翠明様、よろしくお願いします。」
夜、吏志が翠明に頭を下げ、翠明も吏志に頭を下げた。
清爛は一足先に寝かされており、翠明は机に向かい日記を付けた。その日記には今日行った事、それについての反応、会話など全てを細かく記していた。
翠明はひとしきり記録を付けると、清爛のいる布団に潜り込む。静かに寝ている清爛は自分が横にやって来た事にすら気が付かない。翠明は少しでも清爛の変化に気が付ける様に清爛の方を向いて、清爛の身体に手を置いて眠った。
深夜、清爛の動きがせわしない事に気が付いて翠明は目を覚ました。
清爛はしきりに手足をばたつかせ、何やら苦痛に満ちた表情をしている。翠明は体を起こし、清爛の身体を揺すった。
途端にパッと清爛の目が開いた。そして勢いよく起き上がると翠明を弾き飛ばす、翠明は勢いよく寝床から落とされた。驚いて見上げると、清爛は大声を出して椅子などを払いのけて暴れていた。翠明にはその声も音も聞こえないが、状況が良くない事はわかった。翠明は立ち上がり清爛に正面から抱き付く。清爛はそんな翠明を再び払いのけ暴れた。翠明は唇をかみしめて再び清爛に抱き付いた。そして必死にしがみつき、放さなかった。清爛はひとしきり暴れるとやがて動きを止め、体から力が抜けていく。翠明は息を切らし、そんな清爛を寝床に座らせた。そして清爛の前にかがんで、その手を取った。
「翠明・・・俺は、何をした・・・?」
翠明は笑顔で首を振った。
翠明はそのまま清爛を寝かしつける、すぐに静かに寝る清爛。翠明もそんな清爛を抱きしめる様にして眠った。
朝、誰よりも早く起きて部屋を片付け、その夜の事を記す。そして朝食の準備が出来た頃に清爛を起こし身支度をさせ朝食を介助した。書斎に連れて行き共に仕事をして、昼食夕食の介助、そして定期的に湯に入れる。翠明の一日は全て清爛を中心に回る事となった。
共に寝る様になって数日、夜中に暴れる事が毎日ではないと翠明は気付いた。しかし一度暴れ出すと女一人の力ではなかなか抑えることが出来ない。翠明の腕には清爛に捕まれた跡がしっかりと付き、体には無数の痣が出来た。
しかし翠明はその事を玉連にも吏志にも言わなかった。
暴れた後、いつも清爛は翠明に自分は何かしたのかと問いかけた。その問いかけはとても落ち込んでいるように見え、清爛はきっと見えない何かと必死に戦っている、翠明はそう思っていた。
そんな事が続いていたある日、本格的に事件が起きてしまった。
その夜久しぶりに清爛が呻きだし、翠明はそんな清爛に気が付いた。
何だかいつもより苦しそうに見えると翠明は思った。そしてそんな清爛を揺すり起こそうとして手を伸ばした時、清爛の目が開いた。
清爛は身をひるがえし、翠明の首を絞めた。
余りの事に驚くとともに苦しさと恐怖で翠明は暴れた。清爛の目は、今まで見たことのない様な鋭い目をしていて、まるで人殺しの様だと思った。
翠明は必死で暴れた、しかし清爛は手を緩める気配がない。いよいよもうダメなのかもしれないと思った時、清爛の手がぱっと翠明の首から離れた。
「げほっ、げほっ!げほっげほっ、げほっ」
うまく息が出来ず翠明は口を大きく開いて自分の首を抑えた。頭がくらくらして清爛の指が食い込んでいた場所が痛い、そう思った。しばらく咳きこんで、のたうつ様に布団の上を転がった翠明。少しずつ呼吸が出来る様になって体が起こせる様になると翠明は清爛を探した。
清爛は、部屋の隅に立っていた。
もうしばらく肩で息をして、それからよろよろと清爛の方に歩く翠明。清爛は震えていた。
「翠明・・・俺は・・・何をした・・・・?」
翠明は首を振った。
「翠明、俺は、何をしているんだ・・・?」
翠明は首を振るしかできなかった。
「翠明・・・・俺は・・・・いったい何をしてるんだ・・・・・?」
翠明は手を伸ばし、清爛を抱きしめる。
清爛は翠明に抱き付いて体を震わせた。翠明はひたすら、清爛の背をさすった。
翠明の目が覚めた時、清爛は寝床で寝ていて、自分も同じように清爛の横で寝ている事に気が付いた。
周囲を見渡そうとすると首が痛み、夜の事を思い出す。翠明は着替え、首に薄手の肩掛けを巻いた。そして水瓶から水をすくって飲んだ。喉が痛むが水が飲めた事を確認し安堵する翠明。
翠明は昨夜の事、何があって、清爛が何を口にしたのかを書き留めた。
いつも通りに清爛を伴って翠明は書斎にやって来る。首の件はすぐに玉連にも吏志にも気が付かれるのだろうと翠明は覚悟した。少なくとも今朝朝食の準備を共にしている玉連から、もう吏志には何か伝わっているかもしれないと思った。翠明は、覚悟を決めた。
「おはようございます、孫文様、翠明様。」
清爛はこくりとうなずき、翠明も頭を下げた。
吏志はすぐ、翠明の首に気が付いた。しかしあえてその場では何も触れなかった。吏志は、清爛がいない場所で聞いてみようと思っていた。
あえて何も言ってこない吏志と玉連に翠明もあえて何も言わなかった。二人は清爛の前で言う事を避けているのだろうと翠明も気が付いていた。
昼、翠明は清爛に筆を持たせてみた。
正しく筆を持つ事さえできない清爛、翠明は清爛に筆の持ち方を教えた。そして筆先を水で濡らし、清爛の手を取って字を書かせる。清爛はそんな自分の手の動きと、筆の動きをじっと見つめていた。
「翠明・・・」
清爛は翠明を呼ぶ。背後から手を取っていた翠明にその声は届いていない。
「字が、書きたい・・・」
その声を聴いて、吏志が翠明にその言葉を伝えた。
翠明は清爛の正面に回り込み、屈み、清爛と目線を合わせ、笑顔でうなずいた。
食事にはまだ介助が必要だけれど翠明は清爛に箸を持たせた。湯もまだ一人で入れないけれど服を持たせ帯を持たせた。そしてその日課の中に、夜寝る前に筆を持たせ字の練習をする時間を設けた。筆の持ち方すら忘れ、自ら書く事は出来ないけれど、翠明は背後から手を取って古書の模写をさせる事にした。初日は一行、少しずつ根気よく続けて行けばいつかきっと戻ってくれるだろう。翠明はそんな希望だけで清爛に尽くし続けていた。
清爛が寝た後、翠明は重い足取りで書斎に向かった。
そこには玉連と吏志がいて、昨夜の事を説明しなければならなかった。翠明は毎日つけている清爛の日記を持参していた。
翠明が書斎の戸を開けると、吏志と玉連が笑顔で迎えた。
「もう寝ましたか?」
吏志の言葉に翠明はうなずいた。
「いつもご苦労様です翠明様、」
玉連が労い、椅子に座るように促した。
翠明は静かに座った。
「翠明様、それは?」
吏志は翠明が持っている紙に気が付く、翠明はそっとその紙を吏志と玉連に差し出した。
吏志と玉連は、その書に目を通した。そこには毎日の清爛の様子が細かく記されてあり、夜中の事も全て書いてあった。
そんな内容を読み続ける吏志の目が、怒りにも似た表情になった。翠明は、そんな表情の吏志を見たのは初めてだと思った。
「・・・翠明様、首を見せて下さい・・・」
吏志に、まるで罪人のごとく問われる翠明。
翠明は立ち上がり、首に巻いた肩掛けを外した。
「まぁ・・・なんてこと・・・」
玉連が言葉に詰まった。
翠明の首にはくっきりと、清爛の大きな手形が付いていた。
「・・・翠明様、着物を脱げますか?」
翠明は躊躇いなく、着物を脱いだ。袖と丈の短い下着一枚になった翠明、覗いている手足には赤や青のあざがいくつもあり、掴まれた様な手形もあった。そんな姿を見れば、下着で隠されている身体がもっとひどいだろう事は、吏志にも玉連にも容易に想像ついた。
玉連は口を押え、吏志はそんな翠明に目を細める。
「大変失礼を致しました、どうか、着物を着てください。」
翠明は黙って着物を着て、そのまま立っていた。
吏志は立ち上がり、机に両手をついて頭を落とす。
まさかこんな事になっているとは思っていなかった吏志、気が付かなかった自分を悔いた。そして翠明の記した書の内容と現状を見て、これはいよいよ決断しなければならないと唇を咬んだ。その決断は、吏志にとっても身を斬られるよりも辛い事だった。しかし、このままでは翠明が殺されるかもしれない、そう思うと、清爛を最愛の人を手にかけた罪人にする方が耐え難かった。
吏志は顔を上げる。
「清爛様を、地下牢に拘留します・・・」
「!?」
その言葉を見た翠明は放たれた弓の様に書斎を飛び出し清爛の部屋に走った。
「翠明様!」
玉連が叫ぶ。
そんな声は翠明には聞こえなかった。
翠明は寝ている清爛の上に覆いかぶさるようにして清爛を全身で庇った。吏志はそんな翠明を見て心が痛くて仕方なかった。もし清爛にわずかでも今の状況が分かる理性が残っているのなら、きっと自ら拘留を望むだろうと思った。しかし、今の清爛にはそんな意識はない。翠明がいなければ廃人になるだろうと言う事は容易に想像ついた。
清爛を取るか、翠明を取るか、本来ならば清爛を取ることは明白なのだが、今この状況では答えを出すことは非常に難しいと吏志は思った。
吏志は、清爛にしがみつく翠明の元へ足を進めた。
「翠明様、どいて下さい。」
吏志のその声は翠明には聞こえない。
翠明の姿は、まるで鷹から雛を守る親鳥のようにも見えた。
吏志は翠明の肩に手を掛ける、翠明の身体はビクッと跳ね、より強く清爛にしがみついた。
「翠明様・・・」
吏志の言葉は、翠明には届かなかった。
無理矢理はがそうとすれば翠明は全力で抵抗した。
吏志も、こんな事はしたくなかった。吏志は力ずくで翠明を清爛から引き離し、床に座らせた。翠明は嫌がって暴れ、吏志はそんな翠明を力で押さえつけた。
「翠明様!!」
吏志は大きな声を上げ、翠明の身体を一度強く揺らした。
翠明は大粒の涙を流し吏志を見上げる。吏志の心は潰れそうだった。
「このままではあなたは、殺されてしまいます・・・・・」
翠明はわかっていると言わんばかりに二回ほど首を縦に振り、その後左右に何度も首を振って見せた。
「あなた一人では清爛様には敵わない、今まで何とかなってきたかもしれないが、これから先そうとは限らない、清爛様を、罪人にはしたくないんです。」
翠明はひたすら左右に首を振り続ける。
翠明の嫌がり方を見て、吏志の心も揺らぐ。今ここでこの二人を引き離すことは両方の崩壊を招くのかもしれないとも思った。そうなればその先は絶望しかないのではないかと思った。そしてそんな二人にしてしまった自分もまた、正常ではいられないだろうと思った。
今ここで、何が最善なのか、吏志は必死で考えた。
清爛ならどうするか、宮中の秩序を管理する首席官僚吏志としてどう決断すべきか。
長い沈黙の中、翠明のすすり泣く音だけが響いていた。
「・・・わかりました・・・」
吏志はつぶやく。
そして、翠明を押さえつけていた手から力を抜いた。
翠明はそんな吏志の変化から、背けていた顔を吏志に向けた。
「私も、お供致します。」
翠明は相変わらず涙を流しながら、身を固くしながら吏志を見つめた。
「私もここで共に夜を過ごしましょう、そうすれば、あなたを巻き込まなくて済みます。」
吏志はそう言って、翠明に微笑んだ。
「私が責任もって清爛様をお止めします、ですから、安心されてください。」
翠明は泣きながら何度もうなずいた。
「大変なご苦労をおかけいたしました、これからも清爛様を、よろしくお願いいたします。」
吏志がそっと手を離すと、翠明は再び清爛にしがみついて、泣いた。
吏志は立ち上がり、玉連の元へと向かう。
「お辛いですね、吏志様も・・・」
「ここをお願いします、私の寝床も用意しなければならなくなりましたので。」
「かしこまりました。」
吏志は静かに部屋を出た。
吏志は廊下の梁にもたれ夜空を見上げる、清爛にいったい何があったのだろうかと輝く月に想いを馳せた。
長い事清爛を見てきたつもりだった吏志、しかしこんな事は初めてであり、他でも見聞きした事がなかった。戦と言うものがどれほど残酷で、どれほど人の心を蝕むのか、吏志は清爛を通じて知る事になった気がした。
翠明がいなければ清爛は間違いなく地下牢に幽閉されただろうと吏志は思った。もし自分が清欄に対し翠明と同じことをしろと言われたのならば、何日持つだろうかと考えた。いくら自分の生涯を捧げる主であったとしても、きっと五日がせいぜいではないだろうかと思った。
清爛と翠明の関係は、清爛の一方的なものだと思っていた。しかしこの状況を見る限り、翠明の想いもまた強いと言う事を知ることが出来た。
吏志は、二人の絆を信じることにした。
その日吏志は清爛の部屋にある長椅子で夜を明かした。
その夜は静かなものだった。翠明の記録を見る限り毎夜ではないことはわかった、数日間隔で発作の様に暴れ、その後は少しばかり意識が戻っているのではないかと推測で来た。
吏志は清爛の部屋の隅に自分が横になれるだけの簡易的な寝床を用意した。
そして吏志が共に夜を過ごすようになって初めて、清爛が暴れた。
その光景を見た吏志はぞっとした。
大きな声を上げ、力まかせに暴れ机や椅子を薙ぎ倒す清爛。それを必死で止める翠明は清爛に払いのけられ床に転がった。翠明とは違い声が聞こえる吏志にとって、その光景はまさに異様だった。
吏志はすぐに清爛を背後から抑える。そして清爛の力が想像よりもはるかに強いと言う事に気が付いた。
「清爛様!」
吏志は何度も清爛の名を呼んだ。
やがてがくっと清爛の力が抜け、翠明が駆け寄り清爛の正面に回る。
「翠明・・・俺は・・・・・?」
翠明はいつも通り、笑顔で首を振った。
吏志によって寝床に運ばれる清爛は、横にされるとすぐに眠りについた。
吏志は転がっていた椅子を一脚拾い上げて、力尽きるように腰を下ろした。翠明がそんな吏志の元にやってきて頭を下げる。
「翠明様、すごいですね・・・」
吏志は翠明を見上げて深く息を吐いた。
これでよく翠明は死ななかったと吏志は思った。もっと前に殺されていてもおかしくないと思った。
翠明は苦笑いしかできない。
「これ、毎晩だったら私なら間違いなく地下牢に入れてますよ・・・」
翠明は笑った。