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華と夢

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「小説家になろう」にも同名で参加させて頂いております。

 

 

その日の夜も、俗にいうもてなし料理だった。

「ねぇ、劉帆、毎日こんなんじゃなくっていいよ?」

「いいんじゃないか、周りは喜んでいると思うぞ。」

「ならいいけど・・・」

目の前の豪華な料理に鈴鈴は複雑な気分になっていた。

「俺がいた時も同じようなもんだったじゃないか。」

「まぁ、そうなんだけど・・・」

「客人が来た時ぐらいしかこんな事はないんだ、別に毎日なわけじゃないし、いいんじゃないか?」

「そっか!じゃぁ食べる!」

鈴鈴と食事をする時間は懐かしく、落ち着くと劉帆は思った。

大きな部屋でいつも一人で食事をしている毎日を想えば、こんなに明るい食事は崔国での捕虜時代以降は孫文と吏志が来た時以来だと思い返した。

「なぁ、鈴鈴。」

「なにー?」

「お前達はいつも食事ってどこでしてるんだ?」

「食事?お昼とか夜とか?」

「そうそう、それだよ。」

「食堂でみんな一緒だよ。」

「他の使用人達とか?」

「うん、そう。」

「町では?」

「町?家ってこと?」

「そう、お前んちとか。」

「そんなのみんな一緒に決まってるじゃん!」

「ふーん・・・そっか、」

劉帆のつまらなそうな表情を見て、鈴鈴が首をかしげる。

「劉帆は誰と食べるの?」

「・・・一人、」

「えっ?」

「いつも、一人。」

「つまんないじゃん!」

「まーなぁ・・・」

鈴鈴は箸を止めて、相変わらず悩ましそうなつまらなそうな劉帆の横顔を見つめた。

「王様って、そうなの?」

「たぶんな、」

「んじゃ王様なんてやめちゃいなよ!」

「はぁ!?」

劉帆は鈴鈴の言葉に驚いて反らしていた顔を勢いよく向けた。

「だってつまんないじゃん、王様なんてやめて一緒に暮らそうよ劉帆!」

「・・・はぁ!?」

鈴鈴のその言葉に深い意味はないとわかっていても、顔が真っ赤になるのを感じる劉帆。

「そしたら毎日一緒にご飯食べられるじゃん!」

「あのなぁ、出来るわけねーだろそんな事!」

「王様って辞めらんないの?」

「だめだめ、俺は王様になるの。そう、決まってるの。」

「そうなんだ・・・」

しょぼんとした鈴鈴、そんな鈴鈴を見て劉帆も口をつぐんだ。

「俺は王様になって、この国を守るの、それが仕事なんだよ。」

「そっか、劉帆は偉いんだね。」

また、劉帆は複雑な気分になった。

部屋の外で常に女官達が聞き耳を立てていた。女官達は、この若い二人のやり取りに身もだえしていた。二人の距離があまりにいじらしくてたまらなかった。

 

三日目は城の中を探検し、四日目は鈴鈴の部屋でたわいもない事を話していた。

劉帆は鈴鈴に言いたい事が山の様にあった、しかし、その言葉をどの機会で言うべきか迷ったまま今日の日を迎えてしまった。

どうしたら、鈴鈴に自分の想いが届くか、鈴鈴はどう想っているのか、今まで全てが自分の思い通りになってきた劉帆にとってそれは未知の領域だった。

劉帆は、権力で鈴鈴を捕まえたくはなかった。

「なぁ、お前、もうじき城勤めの契約が切れるんだろ?」

「うん、年が変わったら終わりだよ。」

寝床に転がりながら劉帆の言葉に返事をする鈴鈴。

「そしたらどーすんの?」

「う~ん・・・」

鈴鈴は枕を抱え、首をかしげて悩む。

「私、本当はね、お父さんお母さんみたいになりたいの。」

「ん?どーいう事だ?」

劉帆は首をかしげる。

「お父さんとお母さんはとっても仲が良くって、私以外に弟と妹がいるんだけど、優しくて、大好きな家なの、いっつもみんな一緒で。お金はなかったけど、楽しかった。」

「・・・んじゃ、実家に帰んの?」

その言葉に鈴鈴はまた悩ましい顔になる。

「でも、弟と妹に美味しいのたくさん食べさせてあげたいし、そのためにはお金が必要だから、帰りたいけど、どうしよっかなって。」

町人達とはこう言う者なのだと劉帆は学んでいた。

家族の為に、時には誰かが犠牲にならなければならない、貧しければ貧しい程、そうなのだろうと思った。崔国のような大きな国であってもこういう民が多くいると言うことを劉帆は知った気がした。家族弟妹のことを想うと勤め先から帰りたくても帰れない、そんな貧しい者達も多いのだろうと劉帆は思った。

自分の悩みなど、贅沢なのかもしれないとさえ思った。

「・・・お父さんお母さんのようになりたいってことはさぁ、早く結婚したいってこと?」

「うんそうだね!子供はたくさんほしいよ!」

「・・・そっか、」

また、劉帆は複雑な気分になった。

「あっ!」

そんな悩まし気な劉帆の事を見ていて、鈴鈴は突如思い出したことがあった。

鈴鈴はぴょんと寝床の上に座っておもむろに帯をほどき出した。

劉帆は鈴鈴の突然の行動に大慌てだった。

「ちょっと!おいっ!お前何してんの!?」

鈴鈴は関係ないと言わん気に帯を外し、通していた瑪瑙の飾りを外した。

「これ、劉帆のお母さんのなんでしょ・・・?」

「・・・・・」

差し出されたその飾りを見て、劉帆は言葉に詰まった。

「形見なんでしょ?」

「あぁ、そーだよ。」

「お母さん、死んじゃったの?」

「そう、俺を産んですぐ。」

鈴鈴は帯を巻き直し、劉帆が座っている長椅子までやってきて、隣に座った。

「これ、返すよ。」

「いいよ、お前にやった物だ。」

「でも、お母さんの大事な形見でしょ?」

「いーの、お前にやったんだから!」

「ダメだよそんな大事なの!もらえないよ!」

「いーんだってば!」

「だめだよ!」

「お前に持っていてほしいの!!!」

劉帆の大きな声に、鈴鈴は固まる。そして外で聞き耳を立てている女官達も思わず固まった。

固まっている鈴鈴を見て、バツが悪くなった劉帆は、顔を背けた。

「それは、お前にやったの、お前だから、やったの。」

「どうして?」

劉帆は簪を髪から抜いて、鈴鈴に見せた。

「あっ、同じ石だ。」

「同じ石を持っていれば、また会えるかもしれないって、思ったから・・・」

「・・・・?」

鈴鈴は首をかしげる。

「お前、意味わかる?」

鈴鈴には言われている意味がさっぱりわからず、頭上には疑問符が浮いている。

女官達はあまりに恋愛に疎い鈴鈴にもはや発狂しそうになっていた。

「俺は!お前にもう一度会いたかったの!」

「会えてるよ?」

「そーじゃないの!」

「道出来たじゃん。」

「そーでもないの!」

「どういうこと?」

鈴鈴は眉間にしわを寄せて首をかしげる。その様子からしても鈴鈴には全く何も伝わっていないことが容易に想像ついた。

劉帆ももはやどうしていいかわからず頭を抱えてしまった。そして頭を抱えたまま、劉帆は口を開く。

「鈴鈴・・・」

「なに、」

「この国で、備国で暮らさないか・・・?」

「備国で?」

「そう、ここで。」

「崔のお城から、備のお城にお勤めを変えるの?」

「そうじゃない。」

「引っ越し?」

「まぁ、そんな感じ。」

「なんで備国に引っ越すの?」

「備国に引っ越すんじゃないの。」

「・・・ねぇ、どういうこと?」

鈴鈴にはさっぱりわからない。

劉帆は深い溜息を吐いて、手にしていたかんざしを、鈴鈴の髪にそっと刺した。

「俺と、一緒に暮らさないか・・・?」

赤い顔で、まじめな表情で、劉帆は真っ直ぐ鈴鈴に伝えた。

鈴鈴はそんな自分をじっと見つめてくる劉帆に満面の笑みで返事を返す。

「いいよ!」

扉の向こうで聞き耳を立てている女官達は大騒ぎ、しかし鈴鈴に免疫のある劉帆は目を閉じ息を吐いた。

「おまえさぁ、意味、分かってる?」

「崔のお国の契約が終わったらこっちで働くんでしょ?」

「ちーがーうー!!!!」

女官達は静まり返った。

「違うの!違う!俺と一緒に暮らすの!王様と一緒に暮らしてるのって誰!?」

「お妃さま!」

「それ!」

「・・・・え?」

鈴鈴、やっと事態が飲めて固まる。

「お前を!俺の妃にしたいの!」

「・・・・・・・え?」

鈴鈴の目はもはや点だった。

「無理だよ?劉帆、私下女だよ?」

「そんなのどうでもいい。」

「私、お妃さまになんてなれないよ?」

「なれんの、俺が王様なんだから。」

「字とか、書けないよ?」

「いい。」

「町人だよ?」

「いい。」

「崔国の人間だよ?」

「いいの!」

「えっ、えっ・・・???」

「俺は、お前がいいの!お前と一緒にいたいの、ずっと一緒にいてほしいの!」

「でも・・・」

突然全ての事態が雪崩のように鈴鈴の頭の中に押し込まれてきて、整理整頓が付かない鈴鈴。劉帆は必死だった。

「お前が嫌だと言うなら無理は言わない、実家に帰って町人として暮らすことが夢であるなら止めない。答えてほしい、俺と、ずっと一緒にいてくれないか?」

「・・・・・・」

おしゃべりな鈴鈴が、完全に黙った。

その様子は、口は動くが声は出ていないと言う表現がぴったりだと劉帆は思った。事態の整理が付かず、答えがすぐに出せない、気持ちの整理が付かない、そんな様子だと劉帆は思った。

劉帆は深く息を吐き、立ち上がる。

「・・・考えといてくれ、」

そう言って、劉帆は部屋から出ようと戸の方へと歩き出した。

鈴鈴はそんな去り行く劉帆を見つめた。

その姿は体は大きくなっているけれど、背中がとても寂しそうに見えた。寂しそうで悲しそうで、劉帆が泣いている様に鈴鈴には見えた。

鈴鈴は咄嗟に立ち上がり劉帆の後を追う、そして、劉帆の背に飛びついた。

「わぁぁぁぁ!」

劉帆が悲鳴を上げた。

「いいよ劉帆!私劉帆が好きだもん!」

「えぇぇ!?」

背中に飛びついて背負われた状態の鈴鈴は、劉帆の顔の横で満面の笑みで答えた。

「ちょっと降りろよ!何してんだよ!?」

「いいよ劉帆!ずっと一緒にいよ!いっぱい子供作ろ!きっと楽しくなるよ!」

「子供ぉ!?」

「うんそう!楽しい王様にしよ!」

「わかった!わかったから降りろよ!」

「ずっと一緒にいてあげる、だから寂しくないよ?泣いちゃだめだよ?」

「泣かないよ!なんで泣くんだよ!」

戸の向こうにいる女官達は狂喜乱舞の大騒ぎ。

こうして劉帆の二年越しの再求婚は成功した。

 

五日目の朝、吏志が馬車で迎えに来た。

鈴鈴は劉帆以外にも、劉帆の世話を行っている多くの女官達に見送られ馬車に乗った。そんなお見送りの様子を見て、吏志はきっとうまくいったのだろうと思った。

帰りの馬車の中、鈴鈴の髪にはかんざしが一本付いていた。それはいつぞや劉帆が付けていた瑪瑙の飾りのついたかんざしだった。

「楽しかったですか?」

「はい!とっても!」

「それは良かったですね。」

吏志が微笑む。

「あの、吏志様?」

「はい、何でしょう。」

「私、劉帆のお妃になる約束したんですけどどうしたらいいんですか?」

今お茶を飲んでいたのなら間違いなく吹いていたであろうと吏志は思った。

「そう、でしたか、良かったですね。」

「はい、うん・・・?」

吏志は鈴鈴を見て、この子はきっと妃たるものが何だと言う事が理解できていないだろうと思った。

「そうですね、劉帆様のお相手となりますと少々手続きが必要かもしれません。準備も必要かと・・・」

「えっ、そうなの?」

「えぇ、そうですね。劉帆様は備国次期国王になりますから、そう簡単には・・・」

「えっ、そんなに大変なの!?」

「えぇ、そりゃぁまぁ・・・」

「えっ、やだ・・・・」

「まぁまぁ、大丈夫ですよ、劉帆様ですから。」

婚約破棄しそうな鈴鈴を吏志は必死でなだめる事となった。

 

「やったじゃないか、劉帆の奴。」

吏志から報告を受けた清爛が笑う。

「これでうちと備国はこの先しばらく安泰だな。」

「えぇ、鈴鈴がおとなしくしていればですけど・・・」

吏志には苦笑いしかできない。

「鈴鈴は町の出だったか?」

「えぇ、どちらかと言うと貧しい家です。」

「それじゃ輿入れに困るな・・・」

王族への輿入れとなれば妃はそれなりの嫁入り道具一式を持っていくのが通常であり、その輿入れ道具によって妃の位が決まると言っても過言ではなかった。

そしてそんな家具一式は当然ながら町人がそろえられるようなものではなかった。

「鈴鈴をうちで預かりの身にして、それから出せばうちで輿入れ一式を用意しても問題ないでしょうね、もしくは・・・」

「もしくは?」

「先に使用人として城に入り、劉帆様が見染めたとなれば輿入れは必要ないかと。」

吏志は翠明を見た。

「前例がありますし。」

「・・・・・。」

黙々と仕事をしている翠明、清爛は黙った。

「とりあえず、備国側の準備もあるでしょうから、それまで鈴鈴には妃教育でも受けさせましょうか。」

「だな、じゃないと追い出されるかもしれない。」

「字は誰が教えますか?」

清爛と吏志は翠明を見た。

「翠明はダメだろ、字が似てしまう。」

「そうですね、鈴鈴に負けそうですし・・・」

「やっぱり、玉連だな。」

「そうなりますね。」

「荒れるな・・・」

「荒れますね・・・」

鈴鈴が嫁ぐのは、もう少し先になりそうだと清爛と吏志は思った。

「文でも書くか・・・」

清爛はやれやれと言いながらも、どこか嬉しそうに文をしたためた。

 

 

 

END

 

「わぁ!すごいすごい!本当に道が出来てる!」

鈴鈴は馬車の窓を開けて顔を外に出して叫んだ。

その日、鈴鈴は吏志と共に備国に向かっていた。

崔国と備国をつなぐ新しい道が完成し、この道を使えば夜を超すことなく備国まで行ける様になった。だいぶ早くなったものだと吏志は思った。

「劉帆元気かなぁ!?」

「えぇ、元気ですよ。」

「本当にお肉食べさせてくれるの!?」

「えぇ、以前お世話になったお礼だそうです。ゆっくり楽しんできてください。」

「劉帆の国ってどんな国なんだろう!楽しみ!」

劉帆が備国国王の息子と信じていない鈴鈴は下町で遊びまわる様な感覚で備国に向かっていた。

服装は玉連によってそれなりの物を用意されているため、下町上がりの下女と言う見た目ではなくなっていた。鈴鈴はなぜそんな恰好をするのかなど疑問にも思わず、余所行きの服を宛がわれてご機嫌だった。

帯紐にはいつも通り瑪瑙の組紐飾り、これは劉帆からもらった物だった。

馬車は夕刻には備国の城内に着いた。

「なに、ここ?お城?」

「えぇ、そうですよ。」

「お城に劉帆がいるの?」

「えぇ、そうなんです。」

「劉帆、なんか、悪いことしたの・・・?」

吏志は目を見開いて固まった。

王族なのかと問われることはあっても、まさか罪人の扱いを受けるなど思いもしなかった吏志。これはちゃんと説明しておかないと大事になるかもしれないと思った。

「えっと、ですね。鈴鈴、よく聞いてくださいね。」

鈴鈴は首を傾げた。

「劉帆様は次の王様になることが決まったんです。」

「うそ!すごーい!ほんと!?」

「えぇ、本当です。だからお城に住んでいるんですよ。」

「すごーい!劉帆すごいすごい!変な子じゃなかったんだね!」

「・・・えぇ、まぁ。」

自分たちが変わった子と植えこんでしまっているため、あからさまに全否定もできないと吏志は思った。

「なので、もうあんまり悪く言っちゃだめですよ?」

「わかりました!」

いつも通り、鈴鈴の元気な返事は今一信じられないと吏志は思った。

「馬車から降りましたら私がご挨拶をしますので、同じようにして下さいね。」

「はい!」

何故こんなにも不安なのだろうかと吏志は思い苦笑してしまう。

鈴鈴は備国に五日程滞在する予定だった。その間何も起きなければいいと吏志は願うばかりだった。

 

「さぁ、着きました。」

馬車の戸が開き吏志が先に下りる。そして吏志は鈴鈴を抱えて下した。

鈴鈴は降りて辺りを見渡し面食らう。そこには何人もの軍人が立っていて自分たちを見ていた。鈴鈴は思わず吏志の後ろに隠れた。

「大丈夫ですよ鈴鈴、お迎えに来てくれているだけですから。」

吏志が歩き始め、鈴鈴が後ろを付いて歩く。後宮の下女はほとんどの者が皇族と関わることはなく、ましてやもてなしを受ける側になどなったことはない。鈴鈴は自分が持て成されるとは夢にも思っておらず、現状が理解できていなかった。

「吏志様?」

「はい、どうしました?」

「劉帆って、本当に偉くなっちゃったの・・・?」

「えぇ、そうですね。」

「そう、なんだ・・・」

何だかつまらなそうな鈴鈴に、吏志は優しく声を書けた。

「偉くなっても、劉帆様は劉帆様です。お友達でいてあげてくださいね。」

「うん・・・」

「劉帆様は何も変わってないですから、大丈夫ですよ。」

「そう、かな・・・」

吏志と鈴鈴は宮中の広間に通された。

吏志には慣れた場所だが、鈴鈴は当然ながら初めてだった。壁や机などの美しい装飾に目を輝かせ、見上げてはきょろきょろとしていた。そんな時、戸が開く音がして吏志と鈴鈴はその方に顔を向ける。そこには正装した劉帆が二人の官僚を連れて立っていた。

「りゅぅ」

大きな声で名前を呼ぼうとする鈴鈴を吏志が止める。

鈴鈴はすぐに吏志を見上げた。

吏志は鈴鈴に微笑み、床に膝をついて頭を下げた。そんな吏志を茫然と見つめる鈴鈴、そしてややあって我に返り、慌てて同じ様な姿勢を取った。

「劉帆様、この度はお招き頂きありがとうございます。」

鈴鈴には、目の前で起きている事が全く理解できなかった。

「吏志、顔を上げてくれ。鈴鈴も、そんな事しなくていい。」

ちょっと照れた劉帆の言葉に、吏志は顔を上げて微笑んだ。

「ご無沙汰しております、お変わりございませんか?」

「あぁ、おかげさまでいい道も出来たしな。」

「おかげでこのように一日かからず鈴鈴をお連れすることが出来ました。」

吏志はそう言うと、鈴鈴を見て笑う。

「では劉帆様、五日後の朝に再び参りますので、どうかその間うちの鈴鈴をよろしくお願いいたします。」

「あぁ、わかった。」

吏志は立ち上がり、数歩下がって鈴鈴の後ろに立った。

鈴鈴は訳が分からす、正面に立つ劉帆と後ろに下がった吏志を何度も見比べた。

「鈴鈴、行くぞ!」

「えっ・・・?」

面食らって動けない鈴鈴、もはや立ち上がる事すら忘れている。鈴鈴の頭の中は大混乱をきたしていた。

そんな鈴鈴と、久々の再開にどう接していいかわからない劉帆を見て、吏志は微笑ましく思いながら見守っていた。

「どうした、行くぞ鈴鈴。」

「えっ、えっ!?」

「・・・っとに!」

劉帆はつかつかと鈴鈴の前にやって来て、そんな劉帆を見上げる鈴鈴の手を掴んだ。

「早く行くぞ!」

「えっ、えっ、えっ!?」

大混乱のまま、鈴鈴は劉帆に連れて行かれた。

吏志はそんな二人が見えなくなるまで頭を下げ、それから帰路についた。

「ねぇ、どこに行くの!?」

「お前の部屋だ、」

「私の部屋?」

「そうだ、お前がここにいる間使う部屋。」

「私、お城に住むの!?」

「そうに決まってるだろ?」

「すごーい!!」

鈴鈴の声のトーンが上がった。

きょろきょろとしている鈴鈴の手を引いて劉帆は速足で歩いていた。夕飯はもうすでに準備されている、後は自分たちが部屋に行けば全てが整った。早く驚く鈴鈴の顔が見たくて、劉帆はとにかく急いでいた。

目の前の大きな戸を開けると、そこは広く豪華な部屋だった。

「ここがお前の部屋だ。」

「うわぁぁぁぁ!すっごーい!」

その豪華さに鈴鈴は目を輝かせる。劉帆が手を離すと鈴鈴は部屋の真ん中まで行って四方八方に顔を向けた。劉帆は付いて来た使用人に食事の用意を伝える。

使用人達はすぐに食事の準備を始め、部屋には豪華な食事がどんどんと運ばれてきた。

そんな様子を見た鈴鈴は、再び固まってしまった。

子豚の丸焼き、大きな魚の姿揚げ、細工された美しい野菜や果物、それらは鈴鈴にとって見たことのない物体だった。

「これ、全部食べるの・・・?」

「肉を食べさせるって、約束しただろ・・・」

「すごい・・・」

鈴鈴は使用人に座らされ、目の前には取り分けられた豪華な料理が並んだ。

「さぁ、約束だからな。好きなだけ食べろ。」

「いただきまぁす!!」

鈴鈴は目をキラキラさせて取り分けられたものを食べる。

そんな光景を見て、劉帆は在りし日の崔国での日常を思い出した。

鈴鈴と生活をする中で、食べ物を美味しそうに嬉しそうに食べる鈴鈴を見て、自分はこうやって食事をしたことがあっただろうかと劉帆は思った事。出されたものを当たり前のように食べ、肉や魚がある事は普通だと思っていた。しかし、鈴鈴はそうじゃないと言った。自分達は食べる事が出来ないのだと。そんな者がいる事なんて考えたこともなかったと劉帆は思った。

劉帆は、配膳がひとしきり終わったところで使用人を部屋から出した。

そして食事をしている鈴鈴を頬杖を付いて見ていた。

「お前は本当にうまそうに食べるな。」

劉帆の言葉に鈴鈴は劉帆の方を見る。

「劉帆は、あっ、劉帆様は・・・ん?」

以前と同じように声を掛けようとして、鈴鈴は少し慌てた様子で手を止めた。そんな難しそうな鈴鈴の顔を見て劉帆はため息をついた。

「劉帆でいい、」

「でも、劉帆は偉くなったんでしょ?」

「なったんじゃない、前からだ。」

「うそ!そうなの!?」

「そうだって言ってたじゃないか!」

「そうだったかなぁ・・・?」

鈴鈴は首を傾げた。

「お前が信じなかっただけだ。」

「劉帆は本当に王様になるの?」

「まぁ、その予定だ。」

「んじゃ、とっても偉い人なんだね。」

鈴鈴のなんだかちょっと複雑そうな表情に、劉帆も複雑な想いになった。

「肉は、うまかったか?」

「うん!こんなの初めて見た!すごい美味しいね!もうお腹いっぱい!」

「そうか、なら下げさせよう。」

劉帆が手をたたくと、使用人が部屋に入ってきてあっという間に豪華な食事は下げられた。

下げられたら下げられたで何だかもったいないと鈴鈴は思った。そして残ってしまった大量の料理の事が気になった。

「劉帆、あのご飯、どうするの・・・?」

申し訳なさそうに問いかける鈴鈴。劉帆は鈴鈴がそう言ってくるだろう事が分かっていた。

「そう言うだろうと思ったよ。」

劉帆の言葉に鈴鈴は首をかしげる。

「もてなし料理や催事の料理の残りは使用人達で分けていい事にしている。今頃もうなくなってるんじゃないか?」

お茶と茶菓子を持ってきた女官がそんな劉帆の言葉を聞いて、微笑みながら続けた。

「鈴鈴様があまりによくお召し上がりになるから、なくなるんじゃないかと裏でみんなで話していたんですよ。」

その言葉に鈴鈴は赤い顔をして笑った。

「とってもおいしかったから!」

「光栄でございます。」

女官の女が笑う。

「以前は全て廃棄していたのですが、劉帆様がみんなで分けていいとおっしゃってくれたんですよ。」

「そうなの!?」

鈴鈴が劉帆を見つめる。

「お前が、さんざん勿体ないと怒るからだ。」

劉帆はプイっと顔を背けた。

そんな劉帆の頭の上に、鈴鈴は手を置いた。

何か柔らかい物が頭上に触れた気がして、劉帆は思わず振り返る。

「えらいね、劉帆。」

振り向いた劉帆に、鈴鈴が嬉しそうに笑った。

「・・・・・子ども扱いするな!」

鈴鈴は面白がって劉帆の頭を雑になで、劉帆はその手を払おうとする。

そんな若い二人のじゃれ合いを女官達がくすくす笑いながら見ていた。

「ねぇ劉帆、こんなに広いお部屋、私一人で使っていいの?」

「お前は客人だ、もてなすのがあたりまえだろ?」

「でも、すっごい豪華だよ?私は下女だし・・・」

「身分なんていーの!お前は、俺の客人なんだ。お前だって散々俺の世話をしたじゃないか。」

「だってそれは劉帆が暴れたからじゃん!」

「・・・・・」

女官達がくすくすと笑っている。

ひとしきり笑い合った後、女官の一人が鈴鈴の方へとやって来た。

「さぁ、鈴鈴様、湯浴みのお時間です。」

「へっ、湯浴み?」

下女として働いている鈴鈴は毎日湯浴みをしない。数日に一回みんなで入る程度だった。

「んじゃな、明日また来る。」

劉帆はそう言ってプイっと部屋を出て行った。

鈴鈴に対する待遇は皇女並みだった、それは劉帆から下女である鈴鈴に対する最大限のもてなしだった。

風呂に入り、女官達にもみくちゃにされた鈴鈴は布団に倒れ込む。その布団はとても柔らかく気持ちがいいと鈴鈴は思った。

大きな寝床にあおむけになり、改めて部屋を見渡して見た鈴鈴。

お肉が食べたいと言っただけなのに、まさかこんなすごい事になるとは思ってもみなかった。

「明日は何が起きるんだろう・・・?」

そう思うとなぜか面白くなってきて鈴鈴は布団に潜り込んで笑った。

 

「鈴鈴様、おはようございます。」

鈴鈴は自分を呼ばれる声で目を覚ました。

そして女官が立っていることに驚き、ここが備国である事を思い出した。

「さぁ、お着替えを致しましょう。もうすぐ劉備様がお越しです。」

「あっ、はい!」

着る服がいつもの下女の制服じゃないことに気が付きまたしてもここが備国であることを思い出す鈴鈴、いそいそと服を着替え、腰ひもにいつも通り瑪瑙の飾りを付けた。

「あら、その瑪瑙細工。」

女官の一人がそんな瑪瑙に気が付いた。

「昔劉帆・・・様にもらったんです。」

鈴鈴は笑顔でその瑪瑙の組紐飾りを女官に見せた。

「大切にして差し上げて下さい。それ、お母様の形見ですから。」

「・・・え?」

鈴鈴が首を傾げた時、劉帆が入って来た。

「おはよう、眠れたか。」

「あっ、おはようございます!はい!眠れました!」

備国の朝食は粥だった、劉帆と鈴鈴は同じ机を囲んで朝食を済ませる。

「鈴鈴、今日は町に行こうと思う。」

「町?」

「あぁ、そうだ。この国を見せたい。」

「行く行く!楽しそう!」

ぶっきらぼうで不器用な劉帆、しかし鈴鈴はそんなことは気にならないと言う様子で喜んだ。

「町には何があるの!?」

「だからぁ、それを見せたいって言ってんだろ?」

「市場とかあるの!?ご飯屋さんも!?」

「だからぁ!行って見たらいいじゃんか!」

「私町に行くの好きだよ!行こう行こう!」

「だから行くってば!」

「お菓子屋さんとか行きたいな!」

「わかったってば!」

鈴鈴が楽しそうにしている事が、劉帆には嬉しかった。

劉帆は鈴鈴に会うまで不安があった、自分の事を覚えているのだろうか、覚えていたとしても以前のように笑ってくれるだろうか、自分の名を呼んでくれるだろうか。約束を実現するまでに時間がかかってしまったがために、もう心変わりをしてしまっているのではないか。そんなことを考えない日はなかった。

しかし今目の前にいる鈴鈴は、自分が捕虜だったときの鈴鈴のままだと思った。

元気がよく、明るく、素直で、尚且つ太陽のような笑顔がそのままである事が、劉帆には嬉しかった。

朝食後、劉帆は少し身分を落とした服装に着替えた。そして数人の付き人を従えて劉帆と鈴鈴は町へと降りた。

本当は鈴鈴と二人で町に行きたかった劉帆だが、それだけは認められないと女官達に叱られた。劉帆は元より、預かり者である鈴鈴に何かあっては大変だとこっぴどく怒られたのだった。

結果、数人の軍人が身分を隠し、劉帆と鈴鈴を背後から警備すると言う方法で決着した。

鈴鈴は町に出るなり目を輝かせ、目につく店全てに足を止める勢いだった。

崔国ではあまり見ない新鮮な魚や野菜は鈴鈴の興味を引いてやまない、人見知りをしない鈴鈴は店主や客人たちとも楽し気に話をした。

劉帆はそんな鈴鈴をじっと見ていた。

世間話をしながら楽し気にしている姿を見て、これが本来の姿なのだろうと思った。劉帆は、以前鈴鈴が自分は町の生まれだと言っていたのを思い出した。勤めを終えたら町に帰るんだと。鈴鈴の城勤めの契約が切れるのは今年だと、劉帆は以前、孫文である清爛から聞かされていた。

町に戻れば鈴鈴は結婚適齢期であり、すぐに嫁ぐだろう・・・孫文のそんな言葉を劉帆は思い出していた。

「わぁ!いい匂い!」

鈴鈴は一軒の店の前で足を止めた。

そこにはいくつも重なった蒸籠があり、暖かい湯気が出ていた。

「いらっしゃいお嬢ちゃん!粽はいかがだい!?」

「わぁ!美味しそう!」

「うちのは豚肉がたくさんだよ!うまいよ!」

鈴鈴はその時ふと、自分はお金を持っていないことに気が付いた。下女としてもらっている賃金はほぼすべて実家に仕送りをしており手元にはほとんどなかった。それでも城にいるときはお金を使うこともないので不自由はしなかったが、町に出るとお金が必要なんだと言う事を思い出した。

「・・・えっと、」

困った顔をしている鈴鈴の横に、劉帆がすっと並んだ。

「お前はさっき食ったばっかりなのにまだ食うのかよ、2つ。」

「毎度あり!」

「劉帆?」

「ほら、こっち!」

劉帆はひもで結ばれた粽を二つ持って、店の横にある椅子に鈴鈴を引っ張って座らせた。

「気を付けろよ、熱いぞ?」

そう言って粽の一つを鈴鈴に持たせた。

「ありがとう!」

鈴鈴は劉帆を見上げて笑った。

「おいしいね!」

「あぁ、」

大きな叉焼が入った粽は非常においしいと鈴鈴は思った。

相変わらずおいしそうに食べる鈴鈴を見ていて、劉帆は見飽きないと思った。

「ねぇ劉帆、ここの人達はこんなにお肉が入った粽を食べるの?」

「こんなの普通じゃないの?」

「おっきいお肉だね、このお肉もお魚も野菜も、もっと崔国に来ないかなぁ。そしたらもっとみんなが食べられるようになるのにね。」

「あの道が出来たんだ、やがてそうなるよ。うちは農産品を崔国に出すことで賃金を得ることになるからな。」

「そうか、そうしたらお父さんお母さんにももっとお肉を食べさせてあげられるね!備国の粽にはお肉がいっぱい入ってるって教えてあげよう!」

「・・・あぁ、そうだな、」

劉帆はなぜか、複雑な気分になった。その気持ちは昨日から時折なる気持ちで、少し鈴鈴を遠く感じる気がした。

「欲しいものがあったら言え、買ってやるから。」

「ありがとう劉帆!次行こう!」

そう言って鈴鈴は立ち上がり劉帆の手を取った。

「おいっ!!」

「行こう!」

鈴鈴に引っ張り上げられて立ち上がる劉帆。そして並んで立って、思わず劉帆を見上げる鈴鈴。

「・・・なんだよ?」

「劉帆、おっきくなったね!」

「はぁ!?」

「うん、おっきくなった!前は同じくらいだったのにね。」

そう言って鈴鈴は劉帆の頭のポンポンとたたいた。

「お前なぁ!」

顔を真っ赤にして叫ぶ劉帆に鈴鈴は笑う。

「行こっ!」

鈴鈴はそのまま劉帆の手を引いた。

「おい!待てって!」

劉帆は鈴鈴に引っ張られる形で町を歩いた。

長い雨の季節がやっと終わりを迎え、日に日に気温が上がっていった。

「紫陽花も終わりだな。」

清爛と翠明が窓から外を見ていた。

【暑い季節が来ますね】

翠明はそう清爛の手に書いた。

七月七日、乞巧節の夕食、翠明は並んでいる食べ物を見て驚き、横にいる清爛を見た。

清爛は笑い、玉連も楽しそうだった。

「さぁさぁおかけください、冷めないうちに始めましょう。」

いつも通り四人での食事ではあるが、いつもより食事は豪華であり祝い料理だった。そんな料理を見たのは何十年ぶりだろうかと翠明は思った。

驚いている翠明を見て、三人は笑った。

「坊ちゃんは誕生祝にどんな料理をお出ししても結局饅頭しか食べなかったんですよ。」

「そうでしたね、」

「おい玉連!吏志!」

清爛の幼き頃を知っている二人は思い出話を始める。

「好き嫌いも多くて苦労しました。」

三人のやり取りを見ながら翠明も笑う。

翠明はこの四人で食卓を囲む時間をとても暖かく、とても幸せだといつも感じていた。会話に混ざることは出来なくともここにともにいる事が許されている、それだけで翠明は良かった。

「妓楼では何か特別な祝い事をするのですか?」

食事を終えてお茶の時間、吏志が翠明に問いかけた。

翠明は首を振ると筆を執る。

【妓女も遊女も歳は取りたくないものです、ですのであまり祝われている所を見たことはありません】

歳の話が出るとき、その場の空気はあまりいい物じゃなかったことを翠明は思い出した。

今思えば嫌がらせや追い出しの意味があったのだろうと翠明は思った。

「歳など取りたい女はいませんよ、ねぇ翠明様」

玉連の問いかけに翠明もいたずらっぽい笑顔を見せた。

「ですが、生まれた日とは尊いものです。今のあなた達がこうして存在しているのですから。婆としましては、早く次を繋いで欲しいと思いますがね。」

玉連はそう言うと笑いながら部屋を出て行った。

清爛と吏志が何とも言えないと言う様な顔でお互いを見合い、そんな二人を見て翠明が笑った。

ひとしきり三人で笑い合い、吏志は微笑んで部屋を出て行った。翠明はいつも通り立ち上がり茶器の片づけをする。そんな翠明を清爛はじっと見ていた。無駄なく手際よく動く翠明、その動きは手馴れていて、下働きの長さを感じた。そしてそれと同時に、気が利く良い妻になるだろうと思った。

清爛はそっと手を伸ばし、翠明の手を掴む。

翠明は清爛が自分を呼んでいる事に気が付き、手を止めて清爛を見た。

「片づけの続きは明日でいい、」

「?」

「部屋で、着替えて待っていてくれないか?」

翠明は首をかしげる。

「町に行くときにそろえた服があっただろ、好きなのでいい、着替えていてくれ。」

翠明はじっと清爛を見つめ、微笑んでうなずいた。

「後で行く。」

清爛も微笑んだ。

清爛も着替えた。その衣装は書官孫文ではなく皇太子清爛で、髪を結い上げ簪を挿していた。そして手には二つの木箱を持ち、清爛は翠明の部屋を開けた。

「・・・・・・」

清爛はそこにいた翠明を見て言葉に詰まった。

軽やかな翡翠色の上着に白い腰巻、高く結われている髪は下ろされて横に流すように編まれていた。

それは窓から差し込む月明りも相まって、織姫が降りて来たかのようにさえ見えた。

翠明も清爛を見て驚いた。まさか正装で来るとは思っていなかったからだ。

翠明はそんな清爛を見て膝を曲げて頭を下げた。

清爛が座り、翠明がその横に座る。しばし二人は顔を見つめ合った。

「今のお前は差し詰め織姫だな。」

そんな清爛の言葉に翠明は笑う。

【であればあなたは彦星ですか】

「一年に一回しか会えないってのは嫌だなぁ。」

【そうですね、泣きながら機を織るのは嫌ですね】

翠明もそう答えて笑う。

清爛は二つの木箱を翠明の前に並べた。翠明は首をかしげて清爛を見る。

「開けてみてほしい。」

翠明はそっとその木箱を手に取り、ふたを開けた。そこにあったのは金糸と翡翠の耳飾り。その美しさに目を丸くしている翠明に、清爛はもう一つも開けるように促す。

言われるままに翠明はもう一つの箱を手に取り開けた。それは翡翠の腕輪だった。

その美しさに固まってしまう翠明に、清爛はそっと手を添え微笑んだ。

翠明は耳飾りを手に取った。

金糸の耳飾りは、花型の金具が翡翠を止めていて、それはそれは細かい細工だった。翡翠には花の彫が施されていて技術の高さがうかがえた。

次に目をやった翡翠の腕輪は耳飾りよりも更に細かい細工がされていた。翠明は耳飾りを元の箱にそっと戻し、腕輪を手に取る。翠明はその腕輪に耳飾りと同じ花が彫られている事に気が付いた。そしてそんな花の中を一匹の龍が泳いでいる事にも気が付いた。

「その龍は俺の龍なんだ。」

清爛の言葉に翠明は首をかしげる。

清爛は自分の髪に挿していた簪を抜いて翠明に差し出した。

翠明は腕輪を箱に戻し、差し出された簪を受け取る。

「皇帝である父は龍の紋章を代々受け継いでいる。その龍は皇帝だけが使える龍であり、それ以外の者は決して使ってはならない。それは息子である俺たち兄弟も同じ。皇帝にならないとその龍は受け継げない。でも兄と俺も生まれた時に龍をもらっていて、それは皇帝とはもちろん違って、兄と俺のも姿が違う。この簪の龍は清爛の龍で、逆を言えば清爛しか使えない龍だ。」

銀細工の簪の龍は翡翠の球を大事そうに抱えていた。その表情はとても勇ましく見えるが、なぜか優しさも感じると翠明は思った。そして翠明はその球にもまた、同じ花が細工されている事に気が付いた。

「翠明、その花は何の花かわかるか?」

翠明は簪の珠を見つめた。そして腕輪と、耳飾りの細工にも目をやった。

その花は牡丹や薔薇ではないと翠明は思った。また梅や桃でもないと思った。細い枝の左右には小さな葉が付いていて、先端には細かい花がたくさんついていた。その細工をじっと見つめていると、翠明はどこか見たことがある気がしてきた。

「!?」

翠明は清爛を見上げた。

「気が付いたか?」

清爛が笑う。

翠明はうなずいた。

「百日紅だ。」

まるで筆の毛一本で描かれたかのような細工はとても細かく、腕輪はもちろん、小さな耳飾りや簪の翡翠にも彫られた百日紅は見事だった。

「この翡翠は元々一つなんだ、それを分けて作ってもらった。」

翠明は清爛をじっと見つめ、首を傾げた。

どういうことかと問われているようなその視線に、清爛は顔を赤くして目を泳がせる。

「吏志に、怒られた・・・」

「?」

「形を与えてやれないのならせめて、番になる物を持つべきだと。」

「?」

清爛は更に顔を赤くする。

「孫文として、お前を妻にする事は出来ない。かと言って清爛の妃になる事をお前は望まない。墨で書いたとはいえ、そこには何も形がない。ならせめて、番のものを互いに持っていれば・・・」

翠明は静かに立ち上がった。そんな翠明を見上げる清爛。

翠明はそっと清爛の顔に両手を添えて、その額に口づけをした。そして床に膝を付け、深く頭を下げた。

清爛は立ち上がり、膝を付いてひれ伏す翠明の前にかがみ、肩にそっと手を置いた。

翠明は清爛を見上げ、清爛もまた翠明を見つめた。

「約束する、翠明。俺は永遠にお前と同じ時間を生きる。あの腕輪の龍が花の中を泳ぐように、俺はお前の側から離れたりしない。この程度の物しか形として持たせてやることが出来ない事を許してほしい。あの簪は清爛の物だ、例え清爛として過ごすわずかな時間でさえも、お前と離れる事は決してない。その意だと思ってほしい。」

清爛は翠明の頬に手を添えて、翠明の口に自分の口を重ねた。

「翠明?」

翠明はとても近くにある清爛の顔を見つめる。

「今日は朝まで、一緒にいたい。」

翠明はくすりと笑って、うなずいた。

翌朝、湯から出てきた翠明を玉連は見かけた。玉連が知る限り、朝湯に入った翠明を見たことはなかった。

「清爛様、おはようございます。」

「あぁ、おはよう。」

「湯に入られたのですか?」

「あぁ、まぁ・・・」

濡れた髪を拭いている清爛に吏志は昨夜の事を何となく察した。

「と、言う事は湯は今翠明様が使われていますか?」

「えっ!?」

清爛が真っ赤な顔で吏志を見た。

「いえ、使われているのでしたら掃除は後にしようかと思っただけです。」

「・・・・・」

「お気になさらず。」

そう言って吏志は一礼して部屋を出て行った。

 

 

次期皇帝を高蓬が正式に継いだ。

それに伴い皇位継承順位は翔栄が一位となった。

清爛は書官孫文としてその一生を終え、翠明は最後までそんな孫文に付き添った。

吏志もまた、清爛と翠明を最後まで見守り、最後まで仕えた。

 

金と権力争いで騒がしい城の陽の当たらない端の書斎、そこは最後の最後まで、とても静かで幸福な時間が流れていた。

 

 

END

 ⇒鈴鈴と劉帆1・2

何度も月が変わり何度も季節が変わった。

清爛と翠明の関係はそのままで、平和な関係が続いていた。

そんな二人を見ている吏志もまた、平和な想いを抱きながら日々を過ごしていた。

「そう言えば、翠明様のお生まれになった日はいつなのでしょうね。」

吏志がふと、清爛の仕上げた書類を手に取りながらつぶやいた。清爛と吏志はいつも通り黙々と作業をしている翠明に目を向ける。

城にやって来てからかなりの月日が流れ、すでに年も過ぎている。そういえばと言う感じで清爛は首を傾げた。

「あなたと私の歳が増えているのですから、翠明様もそうですよね。」

「そうだな・・・そうなるよなぁ。」

清爛は筆を置いて腕を組んだ。

吏志はそっと、翠明から清爛が見えない位置に体を移動させ、息を吐き腕を組んで、座っている清爛を見下ろした。清爛は何となく、今から叱られるのだろうと感じた。

「ずっとこのままでいられるおつもりですか?」

「・・・何がだ?」

吏志は再び息を吐いた。

「翠明様と、ずっと今のままであられるおつもりですか?」

「・・・え?」

清爛が吏志を見上げて、見つめた。

吏志は不満がありそうな顔をしていた。

「このまま、何の形も持たず、距離を縮めることもなく生涯を終えさせるおつもりですか?」

「それはー・・・」

吏志に言われて思わず黙ってしまう清爛、今のままで満足していた自分に吏志はちゃんと考えろと言っているのだと思った。

「妃にすることは出来なくとも、何か形になるものをご準備するべきでは?」

「形になるもの・・・」

吏志は頭を下げて清爛の前を離れた。そして翠明の所に書を持っていき、言葉をかける。翠明もそんな吏志にうなずくことで答えた。

清爛はそんな翠明の姿を、机に肘を付いてじっと見ていた。

見た目はここに来た時と何も変わらないと思った。しかし、自分と同じ歳であることを考えれば、翠明もまた同じだけの月日が過ぎていることになる。

清爛は吏志に言われた言葉を思い返していた。

その日の夜、清爛はいつも通り翠明の部屋にいた。

午後から降ってきた雨はこの後の長雨の季節を予感させた。

「翠明、お前誕生日はいつだ?」

「?」

翠明は首をかしげる。

「いや、ここに来てどのくらい経ったのだろうと思って。」

翠明はちょっと考えたような顔をした。

【七月七日です】

きつこうせつじゃないか」

翠明はうなずいた。

「めでたい生まれだな、」

翠明は首をかしげる。

「なんだ、なら祭りと一緒に祝ってやればよかったな。」

そんな清爛の言葉に翠明は笑いながら首を振った。

【針仕事がうまくなる事は女として望ましい事でしょうが、ここでは行う事もありませんし特に何も望みません】

翠明は笑う。

そして

【清爛様はいつお生まれになったのですか】

と返した。

「俺は二月二十七日だ、」

【もう過ぎてしまいましたね】

「まぁ、そうだな。」

ふと翠明は今まで何度も清爛の誕生日を通過してきたはずなのに、祝い事をしていた記憶がない事を思い出す。それは皇帝の息子清爛のことを思えばいささか不思議な事だった。

【お祝いはされないのですか】

翠明のその言葉に、清爛も過去を思い返す。

「孫文になってからはしていないな、する必要もないだろうと思っていたし。」

【内宮には戻らないのですか】

「戻らないよ、あそこのしきたりは俺にとっては苦痛だからな。」

清爛は何やらうーんと考えた。

「翠明、今年は祝ってやろう!」

そんな清爛の言葉に翠明は顔を真っ赤にして首を振った。

「何でだ、玉連も喜ぶだろう。」

翠明は恐れ多いとばかりにまだ首を振っている。

「まぁ、楽しみにしていろ。」

まるで子供の様に笑う清爛に、翠明は息を吐いて、笑った。

仕事の合間のお茶の時間、翠明はふと窓の外を見る。長雨の季節、窓の外には紫陽花の花が咲いていた。

「この時期は墨の乾きが悪いですね。」

部屋の隅で炭を炊き書を並べて乾かしながら吏志がぼやいた。

「これが終わったら終わったで、暑い季節がやって来るなぁ。」

清爛はそうつぶやいてふと翠明を見た。窓から外を眺めている翠明、清爛は数日前の会話を思い出していた。

「吏志、ちょっといいか?」

「はい、何でしょう。」

清爛は立ち上がり、翠明の方へと足を向ける。

「翠明、」

清爛は翠明の肩に手を置いて呼び掛ける。翠明はそんな合図に気が付いて振り向いた。

「吏志と少し部屋を離れる、ゆっくりしていてくれ。」

翠明は清爛の言葉に頭を下げた。

清爛はそのまま振り向いて吏志に合図をする、吏志は黙って清爛に続いて書斎を出て行った。

清爛の部屋に入り、清爛はそのまま長椅子に腰を下ろした。吏志はそんな清爛を見て椅子を一脚引いて座った。吏志はなんとなく長くなる予感がしていた。

「・・・七月七日、」

「乞巧節がどうかしましたか?」

「翠明の、誕生日」

「そうだったんですか、もう直ですね。」

「祝ってやると言ったものの、どうしたらいいかと思って・・・」

「なるほど・・・」

経験値の少ない男二人は頭を悩ませた。妃達であれば豪華な装飾品や衣装を贈れば喜んだ。しかし、翠明となるとそうはいかないと思った。翠明にそんな事をしても喜ばないだろうと清爛と吏志は思った。恐縮させてしまえばそれは祝い事ではなくなってしまう。

「今更、針仕事の上達を祈っても仕方ないですしね。」

「字の上達なら祈るかもしれないが、すでにこれ以上ないほどに達者だしな。」

「そうですよねぇ・・・」

「花を植えてやりたいが、この庭じゃなぁ・・・」

「そうですよねぇ・・・」

二人はただただ頭を悩ませた。

「清爛様?」

「なんだ?」

「お二人は今、どういう関係なんですか?」

吏志のその言葉に、清爛は顔から火が出そうなぐらい驚いた。

「えっ、どういうって・・・」

「先を誓い合っているのですか?」

腕を組み、まるで取り調べの様に問いかける吏志に、清爛はうろたえる。

「一応・・・」

「口約束で?」

「いや・・・互いに、墨で書いた・・・」

「それはいつです?」

「翠明が捕虜から、帰って来たあと・・・」

「結構前ですねぇ。」

吏志はふーんと言う様子で清爛をじっと見つめる。なるほど、であれば以前翠明が見せた清爛に対するかいがいしいまでの態度の説明が付くと思った。

吏志にじっと見つめられ、清爛は少し後ろに身を引いた。

「妃になる事は提案されたのですか?」

「事情は全部説明した、清爛の妃になるか、孫文と共に生きるか・・・」

「で、孫文を選ばれたのですね。」

「はい、」

「まぁ、そうでしょうねぇ・・・」

翠明の性格なら妃の選択肢はないだろうと吏志は思った。妃になれと命じられればなるだろうが、選択肢として出されれば翠明は今のままを選ぶだろう。

「孫文を選ぶとあれば、夫婦の形を取ることは難しいですね。」

「まぁ、そうなんだよ・・・」

「でしたらせめて、同じ部屋をお使いになればいいのに。」

「それは、翠明がやめようと言ったんだ。」

「なぜ?」

清爛は目を泳がせ、顔を赤くする。

「もし、その・・・子が出来たら、俺の子でも吏志の子でもない子になるからと・・・」

「あぁ・・・なるほどね・・・」

吏志が目を閉じて項垂れた。

吏志は元より、孫文も公には男ではないことになっている、翠明が妊娠でもすれば後宮がどよめくことになる。

「お気遣いの方ですね・・・翠明様は。」

しかしだからと言って、翠明の女性としての生をこのまま終わらせていいのだろうかと吏志は思った。清爛もまだ若い青年だ、そんな二人をこのままにしておいていいのだろうかとも吏志は思った。兄である高蓬はもちろん、父である皇帝が未だ若い妃を抱え現役であることを思うと、この二人は何と潔白だろうかと吏志は思い、深い溜息をついた。いっそ二人の食事に不妊の薬でも混ぜてやった方が親切なのではないかとも思った。

「でしたら、つがいの物を準備しますか。」

「つがい?」

清爛は吏志を見上げて首をかしげる。

「男剣と女剣の様に、番になる物です。あなたと翠明様と、それぞれ一つずつ。」

「番の物か・・・」

吏志はやれやれと息を吐く。

「劉帆様の方がよっぽど上手ですね。」

「えっ!?」

「劉帆様は鈴鈴に瑪瑙の飾りを贈りました。それには少なからず、自分の事を思い出してほしいと言う想いがあったと思います、まぁ、鈴鈴にそれが伝わっているかと言われますと、微妙ですが。あなたは劉帆様よりも一周り大人ですから、もう少し考えた物を準備しないといけませんね。」

「無理難題言うなよ・・・」

確かにそうだと清爛は思い出した。劉帆が渡した瑪瑙の飾りは、再び会いたいと言う想いを託したのだろうと思った。

清爛は目を閉じて天を仰ぐ。静かな室内に雨音だけが響いていた。

「なぁ、吏志・・・」

「はい。」

「翠明は、耳飾りをしていたか?」

「耳飾りですか?していないと思います。」

「穴は開けてあったか?」

「さぁ、ご自分で確かめたらいいじゃないですか。」

「・・・・・」

黙る清爛に、吏志が微笑む。

「元妓女ですから穴をあけていてもおかしくはないですね。いいと思いますよ、耳飾り。工芸師を呼ぶのであれば早くしないといけないですね。その際は声をかけてください、呼び寄せますから。」

吏志は、翠明が疑問に思ってはいけないからと言って部屋を出て行った。

その夜も翠明の部屋を訪れた清爛。いつも通り隣に座った翠明をじっと見つめて黙った。

翠明はそんな清爛の行動に首を傾げる。

しばらくただじっと翠明を見つめる清爛に、翠明はもはやどうしていいかわからなかった。

「翠明、」

「?」

「お前、耳飾りの穴は開けているのか?」

「?」

翠明は不意に自分の耳を触る。

【幼き頃に】

翠明はそう答えた。

「今も残ってるか?」

【どうでしょう、花街に行ってからは着けてはいないので】

翠明はそう答えた後、なぜと言う表情で清爛を見つめる。

「耳飾りを作ろうかと思って。」

清欄はそう言いながら未だじっと翠明を見つめている。

翠明は、どういう事だろうかと思った。自分に装飾品など贈っても身に着ける機会はないことは清爛も知っているだろうと思った。

翠明は首をかしげた。

「贈らせてくれ。」

そういって笑う清爛を見て、翠明も微笑み返した。

清欄は吏志に頼んですぐに工芸師を呼び寄せた。

清欄は事前に工芸師に翡翠の原石を用意するように伝えてもらっていた。やってきた工芸師はいくつかの翡翠の原石を清爛の前に並べた。

「孫文様、こちらがうちで所有しております翡翠でございます。」

石はこぶし大から大きなものまでいくつか並べられていた。それらの石は加工しやすいようにある程度磨かれ色が露わになっている。清爛はそれらを一つずつじっくりと眺めた。そして時には持ち上げ、光にかざし、石の中の色までくまなく見ていた。

その中で清爛はこぶしより少し大きな翡翠の原石を手に取った。その石は透けるような淡い緑色で色の交じりもなく、まるで硝子の塊のようにさえ見えた。

「美しいな・・・」

清爛はその石を光にかざし、つぶやいた。

「そちらは西の国からの物でございます。」

「西から?」

「はい、先日入りました。国産のものと違い色が均一で大変美しいものでございます。」

「そうか・・・」

清爛はしばらくその翡翠を眺め、そして工芸師に渡した。

「この石で簪と耳飾りと腕輪を作ってもらいたい。」

清爛は細かい内容を工芸師に告げた、年輩の男が清爛に細かい内容を聞いて形を引き出し、若い工芸師がその内容をまとめた。

「龍はどなた様の物でございましょう?」

崔国の皇族の紋章は龍だった。その姿は皇帝、高蓬、清爛で少し型が違っていた。

「あぁ・・・清爛様だ。」

「かしこまりました、腕輪の龍も清爛様の型でよろしいですか?」

「あぁ・・・そう言われている。」

「かしこまりました。」

清爛は自分が今孫文である事を思い出し、少し焦った。

「花はどの花に致しましょう、牡丹や石楠花などは派手でよろしいかと。」

清爛はふと考えた、そしてある花を思い出す。

「百日紅は、彫れるか?」

「百日紅でございますか?」

「あぁ、どうだ?」

「ご期待に添える様、努力致します。」

男達は頭を下げた。

「これは一つの石から作ることに意味がある、決して失敗は許されない。必ず成功させてほしい。」

「必ずや、清爛様のご期待に添えますよう御作りいたします。」

男達は再び深く頭を下げ、部屋を出て行った。

清爛がこそこそしているのが吏志にはわかった。それは何か浮足立っている様な様子で、傍目から見ていてもわかると思った。吏志は清爛が工芸師と打ち合わせをしている事も当然知っていた。しかしその内容までは知らなかった。ただ、なんとなく、季節が変わるのだなと思っていた。

やがて翠明の誕生日が迫ってきた。

事前に玉連とも話を合わせていたため、後は当日を迎えるばかりとなっていた。

「孫文様、いかがでございましょう。」

その日清爛の前に並べられた翡翠はどれも美しく加工されていた。

銀の簪、金糸で加工された耳飾り、そして細かな細工がされた腕輪。清爛は腕輪を手に取って光にかざして眺めた。龍が百日紅の花畑を泳いでいるそんな姿はまさに自分だと清爛は思った。

「美しい、喜ぶだろうか・・・」

呟いた言葉に工芸師たちは頭を下げた。

清爛はそれらを自分の部屋に置いて、書斎に向かう。

「吏志、ちょっと来てほしい。」

そして書斎にいる吏志を呼んだ。

吏志は翠明に合図をして部屋を出る、相変わらず翠明は気にすることなく筆を動かした。

「どうされました?」

吏志が部屋に入ると、清爛はご機嫌だった。

吏志はその理由を察したが、なんとなく「まさか」とも思っていた。

「吏志!出来たぞ!見てくれ!」

そう言って清爛は先ほど仕上がったばかりの翡翠の飾りが入った木箱を3つ吏志の前に出し、嬉しそうに箱を開けて中身を見せた。

吏志の「まさか」は見事に当たった。

「清爛様・・・」

「なんだ?」

「何で最初に見せるのが私なんですか・・・」

吏志は額に手を置いて天を仰ぎ深い溜息をついた。

「なんでだ?」

清爛は意味が分からない。吏志は翠明にひどく申し訳ない気がしていた。

「これは、あなた達二人の誓いを形にした贈答品です。一番に見せるべきは私ではなく、翠明様であるべきではないかと、私は思うのですが・・・」

清爛は気が付いたようで、顔を赤くした。

「私になど、見せなくてもいいのに。」

吏志はそう言って、笑った。

「翡翠ですか。」

吏志は簪の入った箱を手に取って眺めた。

「さすがにいい作りですね、龍が美しい。これでしたら清爛様として宮中でご使用になっても何の違和感もありませんね。」

翡翠の珠を大事そうに抱える一匹の若い銀の龍、翡翠の珠には花の彫り物があり、とても細かい細工だと吏志は思った。

「かなり透明度の高い翡翠ですね。」

「あぁ、西の物らしい。」

「西の国ではこんなにいい翡翠が採れるのですね。」

国内では見た事のない明るさの翡翠だと吏志は思った。そして世界には珍しいものがまだまだ沢山あるのだろうと思った。

「この花は何の花ですか?」

「百日紅だ、翠明が幼き頃妓楼に咲いていたらしく、好きだそうだ。」

「翠明様らしいですね。」

牡丹や薔薇の様な派手な花を口にしないところが翠明だと思った。

吏志はあえて、すべて箱を持ち、翡翠には触れなかった。

「翡翠は五徳を備えた石ですし、翠明様のお名前の色ですね。喜ばれると思いますよ。」

吏志はそう言って微笑んだ。

「私はあなた達二人が本当の意味で結ばれる事を願っています。何があってもお守りいたしますから、どうか何にも縛られる事なく自由に、幸せになって下さい。」

「ありがとう。」

清爛が照れたように笑った。

書斎では吏志がお茶を用意して待っていた。机の上には茉莉花の花が活けられた花瓶が置かれている。

吏志は清爛に座る様に促し、自分はその正面に座った。

そして黙って、翠明が毎日付けていた日記を清爛に渡した。

清爛は最初の一枚目から読み始めた。そして自分の身に何が起きていたのか、どれだけ翠明がかいがいしく世話をしてくれていたか、自分が翠明にしたことも全て知った。

「まさか・・・」

「全く覚えはありませんか?」

「わからない・・・」

茫然自失の清爛、あまりに衝撃的な内容にひどく動揺した。

「私は、あなたを地下牢に拘留しようとしました。意識がないとは言え、あなたが自身の手で翠明様を殺め、正常に戻られた時どれだけ自分を責めるか、それを思うと私にはその案しか出てきませんでした。」

「いや、そうしてもらって構わなかった・・・翠明を手にかけるぐらいなら、さっさと殺してもらった方が良かった。」

「あなたなら、そう言うだろうと思いました。ですが、翠明様は全力で拒否しました。自分があなたに殺されるかもしれない可能性があるにも関わらず、全力で抵抗しました。そんな姿を見ては、私もあなたと翠明様を引き離すことは出来ません。」

「なんてことだ・・・」

清爛は頭を抱え、机に伏せた。

「俺は、なんて事をしたんだ・・・」

「高蓬様から、今回の戦であなたが何をしたのかうかがいました。これは、あなたのせいではありません。」

それでも尚、落ち込み続ける清爛。吏志はそんな清爛が再び自暴自棄になるんじゃないかと思った。

「翠明様の労をねぎらって差し上げて下さい。あなたが戦に行ってから今日まで自分の時間など全くなく、書官としての仕事とあなたの介助にすべてを費やしたのですから。お庭に出ることもなかったのですよ?少し翠明様と共にする時間を作って差し上げて下さい。」

「あぁ、わかった・・・」

「よくもまぁお一人で暴れ狂うあなたを抑えていたと思いますよ。あんなに全身痣だらけになって・・・椅子も壊れましたし、私だって相当殴られたんですから、ちゃんと労働で支払って下さいね。」

「・・・わかった・・・」

しばらく黙っていた清爛だったが、日記を見て、どうにでも気になっている事があった。清爛は机に伏せたまま、吏志の名を呼ぶ。

「なぁ、吏志・・・」

「はい、」

「どうしても、わからない事がある・・・」

「はい、何でしょう。」

「なんで、風呂、お前じゃなくて翠明が入れてるんだよ・・・」

「それはあなたがそう望んだからですよ。」

「うそだろ・・・」

「厠だけは頼まれたので私が連れて行きましたけど、後は全部翠明様です。私と玉連様には、翠明様のお姿はまるででっかい御子を育てている母親に見えていましたよ。」

「それはどーなんだよ・・・」

女に風呂に入れられて、着替えまで全ての面倒を見てもらう、それに対し何も反応しなかった自分は男としてどうなのだろうかと清爛はまた落ち込んだ。

「まぁ、それだけ病気だったって事なんですよ。」

吏志もまた、落ち込んだ。

「一言だけ言えるのは、翠明様がいなければあなたは廃人のままだったと言う事です。私もいくらあなたのためとはいえ、あそこまでは出来なかったと思います。感謝すべきです。」

「はい、しています・・・」

「明日からは一人で入って下さいね。」

「当たり前だろ・・・」

吏志はやれやれと立ち上がった。

「これでやっと私もゆっくり眠られます。明日は休みを頂きますんで。」

「何日でもどうそ・・・」

「では、失礼致します。」

吏志はそう言って頭を下げると、書斎を出て行った。

清爛はしばらく一人で机に頭を付けたままいろいろと思い出そうとした。わずかに覚えているのは翠明の笑顔だけで、自分を正面から見つめ優しく笑っていた顔だけだった。

思い出したいが、どこか思い出したくもないとも思う。もし翠明を殺めようとしていた事を思い出してしまったら、生きていけないと清爛は思った。

辛い戦だった、清爛はその事は明確に覚えていた。

思い出すのも辛いが、翠明には伝えなければならないだろうと思った。

何があったかを口にしなければ、自分の中だけで留めて置けばきっとまたいつか今回と同じことが起こるだろうと清爛は思った。

清爛は立ち上がり、部屋に戻った。

そして自分の部屋を見て、改めて足が止まった。

自分の寝床は一回り大きくなっていて、そこには翠明が寝ていた。部屋の隅には吏志が使っていたであろう簡易的な寝床がある。

清爛は迷った、意識が戻った今、自分はどこに寝るべきなのだろうかと。

吏志の使っていた寝床を使うべきか、翠明と共に寝るべきか。

清爛は翠明の所に足を向け、翠明の寝顔を覗き込んだ。翠明の長いまつげはまだ濡れていて、目尻には涙が溜まっていた。清爛は黙って、翠明の目元を拭う。そしてそっと翠明の隣に横になった。あんなにも泣き崩れた翠明を見たのは初めてだと清爛は思った。捕虜から戻ってきた時も、翠明は泣かなかったと思った。それを思えばどれだけ辛い思いをさせたのか容易に想像ついた。

清爛は優しく翠明の頭に手をまわす。そして自身の胸に抱き寄せる様にして眠った。

 

翌朝、まだ暗い中翠明は目を覚ますと、その光景は昨日と変わらなかった。

しかしすぐに昨日との違いに気が付いた。翠明は清爛の胸に抱かれていた。目の前にある清爛の顔は、昨夜までとはどことなく違って、穏やかだった。

泣きはらして寝てしまったせいか頭がズキズキしていると翠明は思った。体もどこか重い。それでも翠明はいつもの様に起きようと体を起こした。

「!?」

腕を引っ張られる感覚がして翠明は振り返る。するとさっきまで寝ていたはずの清爛が翠明の手を引いて、翠明を見上げていた。

「早いな、もう起きるのか・・・?」

翠明はうなずく。

「今日は吏志も来ないぞ?」

翠明は首を傾げた。

「今日は一日寝ていたいから休みと言われた。」

なるほど、と翠明は思った。確かにこの間の吏志を想えば、なかなか眠れなかっただろうと翠明は思った。

「だから、」

そう言うと清爛は翠明の手を引っ張って、再び布団の中に戻した。

「もう少し寝ていても、今日は文句を言われない。」

そう言って清爛は翠明を抱きしめる。翠明は驚き顔が真っ赤になった。

「もう少し・・・寝ていよ・・・」

清爛はそう言うと再び眠った。

翠明はどうしていいのかわからず清爛の腕の中で固まっていた。心臓がすごく強く打っていて頭のズキズキなどどこかに行ってしまった。恐る恐る清爛を見上げてみると、そこには優しそうな寝顔の清爛がいた。翠明はまた涙があふれてきた。そしてそんな涙を隠すように、清爛に擦り寄り再び目を閉じた。

玉連は竈に翠明がいないことに気が付いた。

何かあったのかと思い、清爛の部屋に行く玉連。戸を開け寝室を覗くと、そこには抱き合う様にして眠っている清爛と翠明がいて、吏志の姿はなかった。

その様子で玉連はすぐに、良い事が起きたのだと感じ取った。

静かに微笑み、そっと戸を閉じて玉連はまた竈に向かった。

 

自分で食事をする清爛を翠明と玉連が物珍しそうに見る、清爛はそんな二人の視線を感じ、息を吐いた。

「食べにくい・・・」

「だってねぇ、翠明様。」

翠明もうなずいた。

「昨日までは雛鳥のようでしたからねぇ。」

「・・・・・」

くすくす笑う女二人に、清爛は当分こんな視線を受けながら食事をする事になるのだろうと諦めた。

昼過ぎには吏志も顔を出した。

のんびりとお茶をしている清爛と翠明を見て、吏志もまた平和が戻った事に安堵した。

昨日までの苦労話こそすれど、三人はあえて戦の事には触れなかった。

たわいもない話をして、お茶を飲み、三人は笑い合った。ごく普通と言う事がこんなにも幸せである事、それを清爛、翠明、吏志は感じていた。

 

その夜、翠明は清爛の部屋にいた。清爛は翠明が付けていた日記をそっと机の上に出した。

「全て、目を通した。」

翠明は静かにうなずいた。

「本当に、苦労を掛けた。」

翠明は顔を左右に振る。

「体は、大丈夫か・・・?」

翠明はうなずいた。

「戦の事は、全て覚えているんだ。」

翠明は清爛の手をそっと取った。

「戦の時は策士清爛として参加している、たぶん、お前には見せたことのない顔をしていると思う。誰とも話さず、感情は全て殺し、戦地を見ることもなく、兵の事は駒のように考える。そこに感情が入ってしまえば策を誤る可能性があるからだ。それは逆に多くの犠牲者を生む事になる。負ければこの国自体がなくなる可能性もある、だからこそ、冷徹にならなければならないんだ。」

戦の時の自分を見たら、翠明はどう思うだろうかと清爛は思った。自分を見る男達の目が、時には怯えた様になることを清爛は知っていた。

「俺には毎回小間使いの男が一人着く、今回兄が俺に宛てたのは、陣を引いている町の農民の子で歳は十五・tと言ったところだ。いつもなら会話などしないのだが、少し話をするようになって、家が貧しく軍に入ったと聞いた。軍に入ればそれなりの対価はもらえる。それを親に渡すのだと。優しい青年だった、だから俺は、軍を下りるように忠告した。生かしたかったからだ。この戦が終わったら金を持たせて親元に帰そう。そう思っていた。」

清爛の表情が曇った。そんな変化に気が付いた翠明は、しっかりと清爛の手を取る。

「相手が優秀な騎馬民族と言う事もありなかなか思う様な戦にはならなかったが、それでもこんなにも自分の策が当たらなかったことは今までなかった。何かがおかしいとは思っていたが、それを確かめる事はしなかった。そしてやっと戦も終わりが見え始めた時、俺のいた本陣が攻められた。攻めて来たのはうちの軍の人間だった。」

翠明が首をかしげる。

「内通者がいたんだよ、我が軍の中にね。情報が漏れていたんだ。」

翠明は驚いた表情をする。

「その日兄は前線に行っていて陣にはいなかった。陣にいたのは俺と小間使いの青年、数人の兵だった。攻め込んできたのはある程度腕のある兵士で、陣に残っていた兵士はみんな殺された。俺は小間使いの青年に馬の準備をする様に言って逃がした、しかししばらくして、青年は戻ってきて、仲間だと思っていた兵に斬られてしまった。」

翠明は目を閉じ咄嗟に顔を反らした。翠明が顔を戻したのを確認して、清爛は一度翠明に微笑みかけて、そして話を続けた。

「すぐに青年の元に駆け寄ったけれど、青年は最後に両親を呼んで死んだ。俺は、そのまま自分に向かって来た男を斬って、そして主犯と思われる男の首を落とした。そこからはもう憤りに任せて馬を走らせ兄の所に行きすべてを話し戦に加勢した。今まで何度も戦には行ったが、人を斬った事はなかった。ましてや首を落とすなど、考えもしなかった。戦が終わって、ふと我に返った時に見えた目の前の光景は、たくさんの人間の死と、荒れ果てた大地、自分はとんでもない事したんじゃないかと思った。それからの事はいまいち覚えていない。」

清爛はその時、横で喜んでいた高蓬達が何を喜んでいるのかわからなかったことを思い出した。この男達は何が嬉しいのだろうか、なぜ楽しそうなのだろうか、なぜ笑っているのだろうかと思った事を思い出した。

「一番許せなかったのは、刃こぼれした剣を持ち、軍服を着ている自分自身だった。自分は策士に徹し、戦場には出ないと決めていたのに、怒りや憤りに任せて戦地に出て、芸として身に着けた剣を人に向け、命を奪った。そんな自分が他の何よりも許せなかった。そんなことが重なって、自分を責め続けた挙句、俺は壊れたんだと思う。」

翠明はいたわるように、清爛を見つめる。

「戦など、もうあってほしくない・・・」

清爛はそうつぶやき、目を閉じた。

「お前がいなきゃおれは地下牢だったと言われた。俺はそれでもよかったと思うよ。お前を殺めてしまうぐらいなら、その前に殺してもらっても構わなかった。だがお前がそんな吏志の提案に必死で抵抗したと聞いた。ありがとう、感謝している。」

翠明そっと清欄から手を外し、筆を握った。

【戦に向かわれた時、吏志様が戦場でのあなたの身は安全だと伝えてくれましたが、それでも戦です。生きて帰ってきてさえくれればそれだけでいいと願っていました。生きてさえいれば自分が支えるから、無事であります様にと願いました。だから、あなたが帰ってきて、おかしくなってしまっている事を知っても、永遠にあのままであっても、私はあなたと共にいる覚悟はできていました】

「強い女だな、お前は。俺は多くの人間を殺したんだぞ?」

【私もあなたを守るためなら、誰かを殺す事ぐらいするでしょう、同じです】

「・・・吏志が殺されなくてよかったよ。」

【本当に】

二人は笑った。

【雅陵様の事は、ちょっと、殺してやろうかと思いました】

その言葉に清爛は苦笑する。そして口が裂けても雅陵が高蓬だとは言えないと思った。

「翠明?」

「?」

「その、さぁ、」

「?」

何か言いにくそうな清爛に、翠明は首をかしげる。

「なぁ、俺は、お前とずっと風呂に入っていたのか・・・」

【はい、付き添いました】

躊躇いもなく答える翠明に、清爛は顔が赤くなる。

「湯に、一緒に入ったりなどは、してないよな・・・?」

翠明はうーんと考える。

【何度かしたと思います】

清爛は逆上せそうだった。

【病人との事です、何とも思っていません】

それもどうなのだろうかと清爛は複雑な気分になった。

「で、寝起きはずっと、ここでしていたのか・・・?」

【吏志様にお願いいたしました。音が聞こえませんので、共に寝る事が一番かと】

清爛は、自分は本当に雛鳥と呼ばれる生き物だったのだろうと思った。

翠明からしたらもはや自分は男ではなく、大人の姿をした幼子だったのだろうと思った。だからこそ翠明もまた、共に湯に入っても何とも思わなかったのだろうと。

【ちなみに、今夜からは部屋に戻ります】

そう書かれた文字に清爛は勢いよく翠明を見た。

翠明は何かおかしなことでもあるのかと言わん気に清爛を見て首をかしげる。

「いや、でも・・・」

何かを言いたげな清爛に、翠明はふぅと息を吐いて筆を動かした。

【私は清爛様ではなく孫文様と生涯を共にするとお約束しました、もし何かの間違いが起きてしまった時、私は孫文様でも吏志様でもない他のどなたかと関係を持ったことになってしまいます】

そうだったと清爛は思って、固まった。

書官孫文は男性ではないことになっていた。もし翠明が妊娠でもしようものなら誰の子になるのか、皆目見当が付かなかった。

【それに、私達がここで共に寝起きを始めたら、吏志様や玉連様に気を使わせてしまいます】

翠明の言葉は最もで、清爛には翠明を引き留める理由が見つからなかった。

【その代わり】

翠明はそう筆を走らせ、清爛の顔を覗き込んだ。

【また毎晩、私の部屋に来ては頂けませんか、ゆっくり話がしたいものです】

「あぁ、必ず。」

清爛と翠明は再び寄り添った。

清爛に変化の兆しが見えないまま更に半月ほど経過した。

吏志はやっと戦の事後処理が終わった高蓬の元を訪れる。高蓬の部屋に入ると、高蓬は軍人の男二人と話をしていた。吏志は頭を下げ、黙って戸の前に立った。

「お前ら、下がれ。」

高蓬はそんな吏志を見て、男達に指示を出す。二人の男は高蓬に頭を下げ部屋を出て行った。

「吏志、清爛は元気か?」

「その事で、お伺いしたいことがあります。」

高蓬の何気ない挨拶の言葉に、吏志は真っ直ぐ高蓬の元に歩みを向けながら真面目に返した。広い部屋に吏市の足音だけが響く、それはいささか緊張した空気を演出した。そんな吏志の反応に高蓬は首を傾げた。

吏志は高蓬の前に着くと膝を折り挨拶をした。

「清爛は軍に行きたいとでも言っているか?」

高蓬がそんな空気を一蹴する。

吏志は高蓬の冗談に付き合う余裕はなかった。

「高蓬様、この度の戦で、清爛様に何がありましたか?」

「何があったかと言うと?」

「清爛様に、策士以外に何かさせましたか?」

「どういうことだ、吏志。」

高蓬が目を細めた。

吏志は、戦から帰ってきてから本日までの清爛の現状を高蓬に伝えた。帰って来た時の容姿、廃人の様になってしまっている事、夜中に暴れる事、過去に何度も戦に行っているがこんな事はなかったとを訴えた。

「この度の戦で、清爛様に何があったのですか。」

噛みつかんとばかりの吏志に、高蓬はやれやれと言わん気に息を吐いた。

「吏志よ、今回の戦、長かったかと思わなかったか?」

「えぇ、長引くとは思っていましたが、初めから清爛様をお連れになった割には長くかかったと思います。」

「清爛の策はいつも通り完璧だった、しかしどうにもうまくはまらなかった。それは俺も気が付いていたし、あいつも気が付いていたはずだ。何かがおかしいとな。そして多分、俺もあいつも同時に内通者がいて情報が洩れているんじゃないかと思った。しかし俺たちはそれを口にはしなかった。どこで誰が聞いているかもわからないからな。それでもなんだかんだ戦も後半に向かい、少しずつ状況が有利に傾き始めた時、本陣が襲われた。内通していた者が俺が不在で手薄な本陣を襲い、清爛の首を狙った。」

高蓬が思い出しながら話をした。

「まぁ、お前もわかっているだろうが、そもそも奴も剣術の腕はそれなりだ。襲った側は驚いただろうよ、それでも置いていた兵は全員殺されて、奴一人で相手をした様だ。そして奴はその中の一番上の男の首を切り落としその首を掴んで馬を走らせ俺のところに来た。返り血を浴び、俺に切り落とした男の首を投げつけて内通者がいると言ったあいつの姿は悪魔だったと、俺でさえそう思ったよ。」

なるほど、と吏志は思った。

「策はある程度完成されていたし、後は実行するだけだった。敵兵以外にも内通者を探し出し斬った。陣を離れてからのあいつはずっと前線の兵士だったってわけだ。」

吏志は以前、清爛から聞いたことがあった。策士である間は前線の兵の事は一切考えず、見ないのだと。考えてしまえば情が出てしまい策を見誤る事があるからだと。前線の兵は碁盤の駒だと思うのだと。

「策士清爛の姿も恐ろしいと思う事があったが、戦場で剣をふるうあいつもまた恐ろしいと思った。いい戦士だ、その辺の兵なんかよりはよっぽどいい。よく働いたよ、清爛は。」

高蓬は高笑いをした。

吏志は、この男は清爛を策士だけではなく、兵士としても見始めていると感じた。

「吏志、その病はな、若い兵士の中ではよくあるものだ。」

高蓬は相変わらず笑いながら吏志に答える。

「初めて戦で仲間を失ったり、人を殺めたりした兵士がよくなるものだ。平民上がりの民兵や心の弱い者がよくなる。元の状態に戻って来れた者はより強くなり、戻れないものは死ぬ。弱い男だな、清爛は。」

相変わらず笑っている高蓬に、吏志は強い不快感を覚える。

「今回の戦で清爛には策士以外の使い道がある事を知ることが出来た、いい発見だ。あいつは実にいい剣士だ。吏志、清爛を死なすな。どんなことをしてでも呼び戻せ。」

反論できない自分が悔しいと吏志は思った。

ここで、もう清爛を戦に連れて行かないでくれと言えない自分が歯がゆかった。

高蓬と清爛が共に動かなければ戦には勝てない、つまりこの国の存続にかかわる。それが分かっているからこそ吏志は唇を咬むことしかできなかった。

「近いうちに顔を出す、雅陵としてな。」

吏志は高蓬の部屋を後にした。

今回の戦がいかに清爛にとって特殊だったかを吏志は知った。高蓬の話が全て本当ならば、自分は二十年間仕えてきた主の悪魔と呼ばれる姿を見た事はもちろん、想像した事すらなかった。あの自由で平和を望む清爛が、人を殺め、刈った首を掴んで投げるなど、想像もできなかった。

高蓬がそんな清爛を見て恐ろしいと言うのだから、もうすでにその時には壊れてしまっていたのかもしれないと吏志は思った。であれば、壊れてからだいぶ長い事時間が経ってしまっているのだろうと思う。

そうであるならば、そう簡単には戻らないだろうと思った。

「戦に何の利があるのだろう・・・」

吏志は青い空を見上げてつぶやいた。

翠明は音を上げなかった。

表情もにこやかで、清爛の身の回りをすべて一人で行った。一向に自分で何かをする様子のない清爛に筆を持たせ、字を教え、箸をもたせ、着替えを教える。子供の方がまだ成長が見られるのではないかと吏志も玉連も思った。

身だしなみは翠明が整えてくれているため、髪もだいぶきれいになって来たと吏志は思った。それだけ時が過ぎたのだろう事を想うと、この先の翠明が不憫だと吏志は思った。

吏志は何とか、清爛に戻ってもらいたかった。

「茉莉花が香る季節になりましたね。」

窓から柔らかく入って来る茉莉花の香り、お茶をしている時に吏志が声をかけた。

清爛の世話と、書官としての仕事に追われていた翠明は最近すっかり庭に出ていないと思った。

【午後少し、庭に出る時間をもらえませんか】

「かまいませんよ。」

吏志は微笑んだ。

「清爛様もお連れしますか?」

翠明はうなずく。

「暑くなってきていますから、あまり長居はしないでくださいね。」

翠明はうなずいた。

翠明は清爛を立たせ、手を引いて裏庭の長椅子に座らせた。翠明はだいぶ雑草が生えてしまっている裏庭を目の当たりにして、そんなにも触れていなかったかと思った。

延びっぱなしの茉莉花、終わった花がそのままの紫陽花、翠明は大きく息を吐いて両手を腰に当て背を伸ばした。そして袖をまくり屈んで草を抜き始めた。

久しぶりに庭をいじるそんな時間は翠明にとって少しばかり日常から離れた心落ち着く時間だった。

土の香りに青い香り、そこに茉莉花の香りが混ざりなぜか懐かしささえ感じると翠明は思った。しばらく草を抜いていると、横に人影を感じ翠明は見上げた。そこには清爛が立っていた。

清爛は翠明の横にしゃがむと、黙って草を抜き始める。

翠明はそんな清爛の自発的な行動に驚くも、微笑んで一緒に草抜きをした。

草を抜き終え、小さな鋏で咲き終わった紫陽花を斬り、清爛と一緒に伸び切った茉莉花を手入れした。

その際に切った花の付いた茉莉花の枝を書斎に持ち帰り花瓶に飾る。そして書斎の清爛の机の上に置いた。

「いい香りですね。」

吏志が微笑む。

「お部屋には置けませんね、投げ捨ててしまう人がいますから。」

翠明がくすりと笑った。

清爛が夜暴れる頻度が減ってきたと翠明も吏志も思った。

それでも暴れるときの力は衰えず、吏志は部屋を離れることは出来なかった。翠明の首に着いたあの手の痕は今思い出しても恐ろしいと吏志は思った。

耳の聞こえない翠明にとって、清爛の変化を聞き取ることは出来ない。翠明は必ず清爛の手を取って眠った。そんな仲睦まじい不思議な関係を見ながら、吏志はふと、今この場で清爛の意識が戻ったのならばどれだけ慌てふためくだろうかと思った。きっと真っ赤な顔をして寝床の隅に張り付いてしまうのだろうなどと思っていたら面白くなって一人笑ってしまった。

早くそんな日が来てほしい、吏志はそう思いながら眠った。

 

戦が終わって、清爛が我を失ってどのくらい経ったか。

もうそんな生活すら普通になりつつあったある日の夜、翠明は清爛を寝かしつけようとしていた。

そんな最中、誰かが清爛の部屋の戸を開けて入って来た。

翠明はその事に気付いていない。

翠明は清爛の足を拭き、拭いた手ぬぐいを机に置こうと立ち上がった時、部屋の戸の前に立つ男を見て驚き身を固めた。そこには雅陵に扮した高蓬が立っていた。

「なるほど、重症だな。」

高蓬は清爛を見てつぶやいた。無精ひげを触りながらじっと清爛を見つめる高蓬、清爛は高蓬に顔を向けなかった。

「これはこれは翠明殿、随分とかいがいしくお世話をなさっているとうかがったが?」

翠明は雅陵が好きではなかった。失礼な物言い、荒々しい態度、何よりも軍服で清爛の前にいる事が気に入らなかった。翠明は、清爛をかばう様に、清爛の前に立った。

「まったく、戦が終わっていったいどれだけ経ったと思ってるんだ、民兵の方がまだマシだ。」

「・・・・・」

翠明は睨むように雅陵を見つめた。

高蓬は翠明に言葉をかけながら、ちらちらと清爛を見ていた。

「この度の戦で、孫文殿の活躍はめまぐるしいものがあったと聞く。まぁ、俺は見ていないがな。」

高蓬は少しずつ、翠明に近づいてきた。

「策を練るだけの頭脳を持ち、高蓬様にも引けを取らないほどの剣の使い手、孫文殿が本当にそんな男であるのならばぜひ一度手合わせを願いたいものだ。」

翠明は両手を広げ、雅陵の前に立ちはだかった。

「しかし・・・まぁ、こんな廃人みたいになってしまってはもう使えも仕舞い。やがて衰弱して死に行くだけだろう。」

高蓬は、翠明の真正面に立った。

息のかかる距離、翠明は大きな雅陵を見上げて睨み、高蓬はそんな翠明を見降ろした。

翠明の自分を睨みつける目の強さに、高蓬は翠明の本気度を理解する。体格差が歴然である軍人にこれだけの目を向け立ちはだかるのだ、相当な覚悟だろうと思った。

「いい度胸だな。」

高蓬は、翠明の顎を掴んだ。

「どうだ、こんな男の世話などに身を費やさず、俺の所に来ないか?いつ目が覚めるかもわからない男の世話などでお前の美しい時間を台無しにしたくはない。書官なのだからいい頭も持っているはずだ、俺の専属策士にならないか?俺のところに来い、翠明、損をさせない自信がある・・・・・・ん?」

翠明がいよいよ雅陵の手に咬みついてやろうかと思っていたまさにその時、背後から伸びてきた手が、雅陵の手首を掴んだ。翠明は何が起きているのかわからず、数度まばたきをして固まった。

「相変わらず無礼者だな、雅陵。俺の女に手を出して、処分を逃れられると思うか?」

「これはこれは、孫文殿、お元気そうで。」

雅陵がそう言ったのを翠明は見た。

翠明はゆっくりと顔を動かし、手の伸びている背後へと目を向ける。

そこには、見慣れない、でも見慣れた、怪訝そうな顔をしている清爛が立っていた。

高蓬は翠明から手を放す、それと同時に清爛は高蓬から手を放し、翠明の肩にその手を置いた。

「大丈夫だったか、翠明?」

翠明が見上げている清爛は、清爛だった。

翠明の目から涙が零れ、床に落ちた。

「そんなに怖かったか!?」

翠明は首を振る。

「・・・わかった、極刑にしてやる。」

「おい待て!俺のせいじゃないだろ!」

「今ならできるからな。」

高蓬は一歩下がり、やれやれと呟き笑う。

「わかった、もう二度とここには来ないと誓おう。自分の女だなどと言われたら手出しは出来まい。」

高蓬は振り返る。

「邪魔したな、清爛。」

高蓬は声だけでそう返して去って行った。

うつむき涙をこらえる翠明に、清爛は訳が分からないと言う様子で屈みこみ、翠明を見つめた。

「翠明、これはどういう事だ?この部屋は一体どうなっている・・・?」

翠明は清爛の困惑気な表情を見て、ボロボロと泣き始めた。

「どうした翠明!?何が起きた!」

翠明は、清爛に抱き付いて泣いた。

その勢いで清爛はバランスを崩し腰を落としてしまう。

清爛は今日今までの事が断片的にしかわからず、翠明が何故こんなにも泣いているのかが分からなかった。自分の身体をしっかりと掴み、張り付いて泣き続ける翠明。清爛はただただ翠明を抱き留めてなだめるしかなかった。

 

高蓬は部屋の外で待ち構えている吏志と鉢合わせた。吏志は腕を組んでおり、やれやれと言わん気だった。

「どこに行かれるんですか、雅陵様。」

「どこって、軍に決まっているだろう?」

高蓬は笑った。

「髭を伸ばすのに思いのほか時間がかかった。バレない様にするのも大変だな。お前らには感心するよ。」

高蓬は両腕を伸ばす。

「早く行ってやれ、今までの事を何も覚えていないみたいだ。女に泣かれて困っているぞ。」

「わかりました。」

「もうこの部屋には来ないと約束した、じゃないと極刑を食らうらしい。今のあいつなら本当にやりかねないだろうよ。」

そう言うと高蓬は去って行った。

吏志は、高蓬の腹の中ほどわからないものはないと思った。

自分の利の為にここに来たのか、それともどこかに贖罪の想いがあるのか、それとも兄弟愛なのか。とりあえず今は、清爛を優先しようと思い吏志は部屋に入った。

部屋には翠明に泣きつかれて困惑している清爛がいた。清爛は部屋に入ってくる吏志を見て助けを求める視線を送った。その表情を見て、吏志は清爛が本当に戻って来たのだと理解した。

吏志は口の前に指を立てて、清爛に静かにするように伝える。

清爛はそんな吏志の姿を見て声を発するのをやめ、うなずいた。

吏志は、筆を水に付け、紙に文字を書く。そしてそれを翠明に気が付かれない様に清爛の前にかざした。

【あなたは数か月意識を失っていました。その間の翠明様のご苦労を想えば、今のあなたは動くべきではありません】

「・・・・・・。」

清爛は目を見開いて驚いた表情を見せる。

【翠明様が泣き疲れて眠った後、今までの経緯をお伝えいたします、書斎にお越しください】

清爛は黙ってうなずいた。

吏志はその事を確認して、清爛の机の引き出しの中にある翠明の日記を静かに取り出すと、そっと部屋を出て行った。

清爛は翠明の身体を優しく抱きしめ、頭に手をそえる。そしてそのまま、翠明が落ち着くまで抱きしめ続けた。

やがて静かになる翠明、清爛はそんな翠明を抱え、寝床に寝かせる。寝ても尚止まらない翠明の涙、清爛はそんな涙をぬぐった。そして布団をかけ、自身は上着を羽織り書斎に向かった。

 

翌朝早く、翠明は清爛の部屋に行った。

そしてその光景を見て思わず足を止め、息を飲んだ。

部屋は荒れ果て、椅子も机もひっくり返っていた。床には筆が散らばり水瓶も倒れていた。翠明は寝床を見た、そこに清爛の姿はない。驚き部屋を見回すと、部屋の隅でうずくまっている清爛を見つけた。膝を抱え顔を埋めて小さく丸くなっている清爛、翠明はゆっくり足を進め、そんな清爛の横にしゃがむ。顔を上げない清爛、翠明はそっと、清爛に触れた。

清爛は反応しなかった。

翠明は優しく清爛の身体を揺すった。

ややあって、ゆっくりと顔を上げる清爛。そしてゆっくりと翠明を見つめた。

「翠明・・・」

清爛はつぶやき、翠明は優しい笑顔でうなずいた。

清爛を立ちあがらせ、寝床に腰を下ろさせる翠明。濡れてしまっている足を拭き、清爛の前にしゃがんで顔を見上げ微笑む。

「俺は、何をしたんだ・・・?」

翠明は笑顔で顔を左右に振った。

翠明は吹き飛ばされた櫛を見つけ清爛の髪を優しく梳いた。荒れてしまった髪を整える様に優しく梳かし、顔にかかる髪をすくい上げ、後ろで束ねた。

そして再び清爛の前にかがんで顔を見上げ微笑むと、翠明は部屋を片付け始めた。

その間清爛は全く動かなかった。

玉連や吏志が来る前に翠明は部屋を片付け終わり、何事もなかったかのように竈に立つ。

そしてやがてやって来た玉連と朝食を準備し、清爛の部屋に運ぶ。清爛はまたしても口を付けなかった。

「困りましたねぇ・・・」

玉連が深く息を吐く。

翠明は筆を持ち、玉連に問いかける。

【冬瓜はありませんか】

「冬瓜?ございますよ、」

【作りたいものがあります】

「わかりました、ご準備いたしましょう。」

玉連はそう言って微笑むと、部屋を出て行った。

翠明はそっと清爛の横に座った。

「翠明・・・?」

翠明は清爛の手を取り、微笑んでうなずいた。

やがて玉連が冬瓜を用意し、翠明は清爛に頭を下げ部屋を出る。そして竈に立ち、以前清爛が熱を出した時に作った瓜の汁物を作った。あの時と同じように冬瓜を崩し、干し肉をできるだけ小さく裂き、生姜を入れ、熱くない様に少し冷まして小さめの匙を付けた。

「瓜を汁物に?」

玉連の問いに、翠明はうなずいた。

そしてそれを清爛の元へ運ぶ。

相変わらず寝床に座ったままの清爛、翠明はその横に座り、持ってきたものを清爛に見せた。清爛は汁に目を落とすも、自ら手を動かそうとはしない。翠明は匙ですくい、清爛の口元に運ぶ。そして唇に付け、口を開けるように促した。清爛はゆっくりと口を開ける。翠明はそっと口の中に汁を流し込んだ。

「おや、食べた。」

清爛は口に入ったものを飲んだ。翠明は微笑み、再び清爛の口に運ぶ。すると清爛は自ら口を開けた。

清爛は椀の中のものをほとんど飲んだ。手ぬぐいで清爛の口を拭く翠明、その光景は幼子の世話をする母親のようだと玉連は思った。

翠明は常に笑顔だった。

昼も夜も、翠明が介助した。夜には汁物以外も少し口にしたが、固形の物は口にしなかった。

そしてその夜も、三人で話し合った。

「これは長引きそうですね・・・」

吏志は深い溜息をついた。

「まるで幼子に戻った様ですねぇ。」

玉連もまた深い溜息をついた。

「戦場で何があったかは調べておきます、そこに原因があるかもしれないので。」

「そうですね、原因が分かれば何か方法があるかもしれませんね。」

翠明は筆を動かした。

【吏志様、お願いがあります】

「なんでしょう」

【清爛様の横に、私も寝られる様にしては頂けませんか】

「それは構いませんが・・・」

【私が面倒を見ます】

「ですが翠明様、これはかなり大変ですよ?」

翠明は優しく微笑んだ。

【私は清爛様に買われました。言わば救って頂きました。そして共に側にいようと約束をしました。私は一生涯孫文様と言う書官にお着きする覚悟です、側にいさせてください】

翠明のこの言葉が本当だと言う事は玉連にも吏志にもわかっていた。

「わかりました、明日のうちには準備いたしましょう。」

翠明は頭を下げる。そして再び筆を動かした。

【吏志様にもう一つだけ、お願いがあります】

「はい、何でも。」

吏志も微笑んだ。

【厠にお連れするのだけは、お願いできませんか】

吏志は固まり、玉連があらとつぶやいた。

【今日は私が定期的に連れて行ったのですが、お願いできますと助かります】

「わかりました・・・」

そこまでだったかと吏志は頭を抱えた。

「これでは本当に赤ん坊に戻った様ですねぇ・・・」

玉連も呆れた様につぶやいた。

「翠明様、同じようになった花街の娘たちは、どうなるのですか?いつかは戻るのですか?」

【戻られた方も見かけております】

それは、戻らなかった者もいると言う意味だろうと吏志は思った。

「高蓬様はご存じなのですか?」

「それが、今はまだ戦の後処理やらでお会いできていないのです。もう少ししましたら聞いてみます。」

【明日からお仕事を再開しましょう】

翠明はそう書き、吏志は驚いた。

「いや、ですが清爛様があの状態では・・・」

【書斎に座らせておきましょう、いつも通りの日常を過ごさせた方が良いと思います。文を待っている方もいるのですから】

「翠明様には本当にご迷惑をおかけするばかりです。」

【もとに戻られましたら、楽をさせてもらいます】

翠明は笑った。

翌朝も翠明は誰よりも早く清爛の所に行った。今朝の清爛は荒れている様子はなく、おとなしく寝床で寝ていた。翠明はほっと胸をなでおろす。

そして自室に戻るとその日の清爛の様子を記録として書き留めた。

翠明は清爛を湯に入れた。そして事前に吏志より預かったカミソリを持参し、清爛の無精ひげを剃ろうとその横にかがんだ。

その時、翠明は突然手を叩かれた。

そしてそれと同時に剃刀が浴室の床に転がった。

翠明は驚き固まる。

しかしすぐに立ち上がり、再び剃刀を持って清爛の横にしゃがんだ。逃げようとする清爛の手を掴み、翠明は優しく微笑んだ。しかし清爛は剃刀を再び見るや翠明の手を払おうとする。それはまるで、怯えている様だと翠明は感じた。そして、戦場で刃物による何か嫌な思い出でもあるのだろうかと思った。

翠明は変わらずに微笑み、清爛の両目を片手で覆い、撫でる様にそっと手を下ろす。

清爛はその動作に促されるように目を閉じ、そして翠明の手が離れたと同時に、再び目を開ける。

翠明は目を開けた清爛の前に顔を覗かせ、笑顔で首を左右に振った。

そして再び目を覆い閉じるように促す。

再び目を開けてしまう清爛、翠明は根気よく、目を閉じる様に教えた。

数回の後、清爛は目を閉じたまま開けなかった。翠明はそっと清爛の頬に手を当て、慎重に剃刀を当てる。そしてゆっくりと清爛の髭を剃った。清爛は黙ってされるがままにしていた。片側を剃って、反対側に回りもう片側も剃った。翠明にとって初めての作業である事と、先ほどの清爛の強い反応があったため時間がかかってしまったが、何とか清爛の顔をもとの姿に戻すことが出来た。

いつも通り朝食の介助をし、服を着替えさせ、翠明は清爛を書斎に連れて行き書官孫文の机に座らせた。

相変わらず無気力でぼーっとしているけれど、とりあえず嫌がる事なく清爛は座っていた。

「おはようございます、孫文様、翠明様。」

吏志がやって来て挨拶を行い、翠明が挨拶をする。

「お上手ですね。」

吏志は清爛の顔を見て翠明に笑いかけた。

清爛は書斎にこそいるが筆を執ることもなく、翠明が全ての仕事を一人で行った。

時折吏志が清爛を連れ出すも、それ以外は何も変わらなかった。昼食も未だ自ら取ろうとしない清爛、それでも口を開けてくれる様になったため、翠明がかいがいしく世話をした。吏志も玉連も、このままでは翠明が倒れてしまわないかと心配で仕方なかった。そしてそれと同時に、翠明が倒れてしまったらここまで清爛の世話を出来る者はいないだろうとも思った。

この日より翠明は清爛の部屋で共に寝起きをする様になった。清爛の寝床は二人が寝ても問題ない大きさになり、翠明の私物がいくつか持ち込まれた。着替えも全て翠明は清爛の部屋に置いた。

「では翠明様、よろしくお願いします。」

夜、吏志が翠明に頭を下げ、翠明も吏志に頭を下げた。

清爛は一足先に寝かされており、翠明は机に向かい日記を付けた。その日記には今日行った事、それについての反応、会話など全てを細かく記していた。

翠明はひとしきり記録を付けると、清爛のいる布団に潜り込む。静かに寝ている清爛は自分が横にやって来た事にすら気が付かない。翠明は少しでも清爛の変化に気が付ける様に清爛の方を向いて、清爛の身体に手を置いて眠った。

深夜、清爛の動きがせわしない事に気が付いて翠明は目を覚ました。

清爛はしきりに手足をばたつかせ、何やら苦痛に満ちた表情をしている。翠明は体を起こし、清爛の身体を揺すった。

途端にパッと清爛の目が開いた。そして勢いよく起き上がると翠明を弾き飛ばす、翠明は勢いよく寝床から落とされた。驚いて見上げると、清爛は大声を出して椅子などを払いのけて暴れていた。翠明にはその声も音も聞こえないが、状況が良くない事はわかった。翠明は立ち上がり清爛に正面から抱き付く。清爛はそんな翠明を再び払いのけ暴れた。翠明は唇をかみしめて再び清爛に抱き付いた。そして必死にしがみつき、放さなかった。清爛はひとしきり暴れるとやがて動きを止め、体から力が抜けていく。翠明は息を切らし、そんな清爛を寝床に座らせた。そして清爛の前にかがんで、その手を取った。

「翠明・・・俺は、何をした・・・?」

翠明は笑顔で首を振った。

翠明はそのまま清爛を寝かしつける、すぐに静かに寝る清爛。翠明もそんな清爛を抱きしめる様にして眠った。

朝、誰よりも早く起きて部屋を片付け、その夜の事を記す。そして朝食の準備が出来た頃に清爛を起こし身支度をさせ朝食を介助した。書斎に連れて行き共に仕事をして、昼食夕食の介助、そして定期的に湯に入れる。翠明の一日は全て清爛を中心に回る事となった。

共に寝る様になって数日、夜中に暴れる事が毎日ではないと翠明は気付いた。しかし一度暴れ出すと女一人の力ではなかなか抑えることが出来ない。翠明の腕には清爛に捕まれた跡がしっかりと付き、体には無数の痣が出来た。

しかし翠明はその事を玉連にも吏志にも言わなかった。

暴れた後、いつも清爛は翠明に自分は何かしたのかと問いかけた。その問いかけはとても落ち込んでいるように見え、清爛はきっと見えない何かと必死に戦っている、翠明はそう思っていた。

そんな事が続いていたある日、本格的に事件が起きてしまった。

その夜久しぶりに清爛が呻きだし、翠明はそんな清爛に気が付いた。

何だかいつもより苦しそうに見えると翠明は思った。そしてそんな清爛を揺すり起こそうとして手を伸ばした時、清爛の目が開いた。

清爛は身をひるがえし、翠明の首を絞めた。

余りの事に驚くとともに苦しさと恐怖で翠明は暴れた。清爛の目は、今まで見たことのない様な鋭い目をしていて、まるで人殺しの様だと思った。

翠明は必死で暴れた、しかし清爛は手を緩める気配がない。いよいよもうダメなのかもしれないと思った時、清爛の手がぱっと翠明の首から離れた。

「げほっ、げほっ!げほっげほっ、げほっ」

うまく息が出来ず翠明は口を大きく開いて自分の首を抑えた。頭がくらくらして清爛の指が食い込んでいた場所が痛い、そう思った。しばらく咳きこんで、のたうつ様に布団の上を転がった翠明。少しずつ呼吸が出来る様になって体が起こせる様になると翠明は清爛を探した。

清爛は、部屋の隅に立っていた。

もうしばらく肩で息をして、それからよろよろと清爛の方に歩く翠明。清爛は震えていた。

「翠明・・・俺は・・・何をした・・・・?」

翠明は首を振った。

「翠明、俺は、何をしているんだ・・・?」

翠明は首を振るしかできなかった。

「翠明・・・・俺は・・・・いったい何をしてるんだ・・・・・?」

翠明は手を伸ばし、清爛を抱きしめる。

清爛は翠明に抱き付いて体を震わせた。翠明はひたすら、清爛の背をさすった。

翠明の目が覚めた時、清爛は寝床で寝ていて、自分も同じように清爛の横で寝ている事に気が付いた。

周囲を見渡そうとすると首が痛み、夜の事を思い出す。翠明は着替え、首に薄手の肩掛けを巻いた。そして水瓶から水をすくって飲んだ。喉が痛むが水が飲めた事を確認し安堵する翠明。

翠明は昨夜の事、何があって、清爛が何を口にしたのかを書き留めた。

いつも通りに清爛を伴って翠明は書斎にやって来る。首の件はすぐに玉連にも吏志にも気が付かれるのだろうと翠明は覚悟した。少なくとも今朝朝食の準備を共にしている玉連から、もう吏志には何か伝わっているかもしれないと思った。翠明は、覚悟を決めた。

「おはようございます、孫文様、翠明様。」

清爛はこくりとうなずき、翠明も頭を下げた。

吏志はすぐ、翠明の首に気が付いた。しかしあえてその場では何も触れなかった。吏志は、清爛がいない場所で聞いてみようと思っていた。

あえて何も言ってこない吏志と玉連に翠明もあえて何も言わなかった。二人は清爛の前で言う事を避けているのだろうと翠明も気が付いていた。

昼、翠明は清爛に筆を持たせてみた。

正しく筆を持つ事さえできない清爛、翠明は清爛に筆の持ち方を教えた。そして筆先を水で濡らし、清爛の手を取って字を書かせる。清爛はそんな自分の手の動きと、筆の動きをじっと見つめていた。

「翠明・・・」

清爛は翠明を呼ぶ。背後から手を取っていた翠明にその声は届いていない。

「字が、書きたい・・・」

その声を聴いて、吏志が翠明にその言葉を伝えた。

翠明は清爛の正面に回り込み、屈み、清爛と目線を合わせ、笑顔でうなずいた。

食事にはまだ介助が必要だけれど翠明は清爛に箸を持たせた。湯もまだ一人で入れないけれど服を持たせ帯を持たせた。そしてその日課の中に、夜寝る前に筆を持たせ字の練習をする時間を設けた。筆の持ち方すら忘れ、自ら書く事は出来ないけれど、翠明は背後から手を取って古書の模写をさせる事にした。初日は一行、少しずつ根気よく続けて行けばいつかきっと戻ってくれるだろう。翠明はそんな希望だけで清爛に尽くし続けていた。

 

清爛が寝た後、翠明は重い足取りで書斎に向かった。

そこには玉連と吏志がいて、昨夜の事を説明しなければならなかった。翠明は毎日つけている清爛の日記を持参していた。

翠明が書斎の戸を開けると、吏志と玉連が笑顔で迎えた。

「もう寝ましたか?」

吏志の言葉に翠明はうなずいた。

「いつもご苦労様です翠明様、」

玉連が労い、椅子に座るように促した。

翠明は静かに座った。

「翠明様、それは?」

吏志は翠明が持っている紙に気が付く、翠明はそっとその紙を吏志と玉連に差し出した。

吏志と玉連は、その書に目を通した。そこには毎日の清爛の様子が細かく記されてあり、夜中の事も全て書いてあった。

そんな内容を読み続ける吏志の目が、怒りにも似た表情になった。翠明は、そんな表情の吏志を見たのは初めてだと思った。

「・・・翠明様、首を見せて下さい・・・」

吏志に、まるで罪人のごとく問われる翠明。

翠明は立ち上がり、首に巻いた肩掛けを外した。

「まぁ・・・なんてこと・・・」

玉連が言葉に詰まった。

翠明の首にはくっきりと、清爛の大きな手形が付いていた。

「・・・翠明様、着物を脱げますか?」

翠明は躊躇いなく、着物を脱いだ。袖と丈の短い下着一枚になった翠明、覗いている手足には赤や青のあざがいくつもあり、掴まれた様な手形もあった。そんな姿を見れば、下着で隠されている身体がもっとひどいだろう事は、吏志にも玉連にも容易に想像ついた。

玉連は口を押え、吏志はそんな翠明に目を細める。

「大変失礼を致しました、どうか、着物を着てください。」

翠明は黙って着物を着て、そのまま立っていた。

吏志は立ち上がり、机に両手をついて頭を落とす。

まさかこんな事になっているとは思っていなかった吏志、気が付かなかった自分を悔いた。そして翠明の記した書の内容と現状を見て、これはいよいよ決断しなければならないと唇を咬んだ。その決断は、吏志にとっても身を斬られるよりも辛い事だった。しかし、このままでは翠明が殺されるかもしれない、そう思うと、清爛を最愛の人を手にかけた罪人にする方が耐え難かった。

吏志は顔を上げる。

「清爛様を、地下牢に拘留します・・・」

「!?」

その言葉を見た翠明は放たれた弓の様に書斎を飛び出し清爛の部屋に走った。

「翠明様!」

玉連が叫ぶ。

そんな声は翠明には聞こえなかった。

翠明は寝ている清爛の上に覆いかぶさるようにして清爛を全身で庇った。吏志はそんな翠明を見て心が痛くて仕方なかった。もし清爛にわずかでも今の状況が分かる理性が残っているのなら、きっと自ら拘留を望むだろうと思った。しかし、今の清爛にはそんな意識はない。翠明がいなければ廃人になるだろうと言う事は容易に想像ついた。

清爛を取るか、翠明を取るか、本来ならば清爛を取ることは明白なのだが、今この状況では答えを出すことは非常に難しいと吏志は思った。

吏志は、清爛にしがみつく翠明の元へ足を進めた。

「翠明様、どいて下さい。」

吏志のその声は翠明には聞こえない。

翠明の姿は、まるで鷹から雛を守る親鳥のようにも見えた。

吏志は翠明の肩に手を掛ける、翠明の身体はビクッと跳ね、より強く清爛にしがみついた。

「翠明様・・・」

吏志の言葉は、翠明には届かなかった。

無理矢理はがそうとすれば翠明は全力で抵抗した。

吏志も、こんな事はしたくなかった。吏志は力ずくで翠明を清爛から引き離し、床に座らせた。翠明は嫌がって暴れ、吏志はそんな翠明を力で押さえつけた。

「翠明様!!」

吏志は大きな声を上げ、翠明の身体を一度強く揺らした。

翠明は大粒の涙を流し吏志を見上げる。吏志の心は潰れそうだった。

「このままではあなたは、殺されてしまいます・・・・・」

翠明はわかっていると言わんばかりに二回ほど首を縦に振り、その後左右に何度も首を振って見せた。

「あなた一人では清爛様には敵わない、今まで何とかなってきたかもしれないが、これから先そうとは限らない、清爛様を、罪人にはしたくないんです。」

翠明はひたすら左右に首を振り続ける。

翠明の嫌がり方を見て、吏志の心も揺らぐ。今ここでこの二人を引き離すことは両方の崩壊を招くのかもしれないとも思った。そうなればその先は絶望しかないのではないかと思った。そしてそんな二人にしてしまった自分もまた、正常ではいられないだろうと思った。

今ここで、何が最善なのか、吏志は必死で考えた。

清爛ならどうするか、宮中の秩序を管理する首席官僚吏志としてどう決断すべきか。

長い沈黙の中、翠明のすすり泣く音だけが響いていた。

「・・・わかりました・・・」

吏志はつぶやく。

そして、翠明を押さえつけていた手から力を抜いた。

翠明はそんな吏志の変化から、背けていた顔を吏志に向けた。

「私も、お供致します。」

翠明は相変わらず涙を流しながら、身を固くしながら吏志を見つめた。

「私もここで共に夜を過ごしましょう、そうすれば、あなたを巻き込まなくて済みます。」

吏志はそう言って、翠明に微笑んだ。

「私が責任もって清爛様をお止めします、ですから、安心されてください。」

翠明は泣きながら何度もうなずいた。

「大変なご苦労をおかけいたしました、これからも清爛様を、よろしくお願いいたします。」

吏志がそっと手を離すと、翠明は再び清爛にしがみついて、泣いた。

吏志は立ち上がり、玉連の元へと向かう。

「お辛いですね、吏志様も・・・」

「ここをお願いします、私の寝床も用意しなければならなくなりましたので。」

「かしこまりました。」

吏志は静かに部屋を出た。

吏志は廊下の梁にもたれ夜空を見上げる、清爛にいったい何があったのだろうかと輝く月に想いを馳せた。

長い事清爛を見てきたつもりだった吏志、しかしこんな事は初めてであり、他でも見聞きした事がなかった。戦と言うものがどれほど残酷で、どれほど人の心を蝕むのか、吏志は清爛を通じて知る事になった気がした。

翠明がいなければ清爛は間違いなく地下牢に幽閉されただろうと吏志は思った。もし自分が清欄に対し翠明と同じことをしろと言われたのならば、何日持つだろうかと考えた。いくら自分の生涯を捧げる主であったとしても、きっと五日がせいぜいではないだろうかと思った。

清爛と翠明の関係は、清爛の一方的なものだと思っていた。しかしこの状況を見る限り、翠明の想いもまた強いと言う事を知ることが出来た。

吏志は、二人の絆を信じることにした。

その日吏志は清爛の部屋にある長椅子で夜を明かした。

その夜は静かなものだった。翠明の記録を見る限り毎夜ではないことはわかった、数日間隔で発作の様に暴れ、その後は少しばかり意識が戻っているのではないかと推測で来た。

吏志は清爛の部屋の隅に自分が横になれるだけの簡易的な寝床を用意した。

そして吏志が共に夜を過ごすようになって初めて、清爛が暴れた。

その光景を見た吏志はぞっとした。

大きな声を上げ、力まかせに暴れ机や椅子を薙ぎ倒す清爛。それを必死で止める翠明は清爛に払いのけられ床に転がった。翠明とは違い声が聞こえる吏志にとって、その光景はまさに異様だった。

吏志はすぐに清爛を背後から抑える。そして清爛の力が想像よりもはるかに強いと言う事に気が付いた。

「清爛様!」

吏志は何度も清爛の名を呼んだ。

やがてがくっと清爛の力が抜け、翠明が駆け寄り清爛の正面に回る。

「翠明・・・俺は・・・・・?」

翠明はいつも通り、笑顔で首を振った。

吏志によって寝床に運ばれる清爛は、横にされるとすぐに眠りについた。

吏志は転がっていた椅子を一脚拾い上げて、力尽きるように腰を下ろした。翠明がそんな吏志の元にやってきて頭を下げる。

「翠明様、すごいですね・・・」

吏志は翠明を見上げて深く息を吐いた。

これでよく翠明は死ななかったと吏志は思った。もっと前に殺されていてもおかしくないと思った。

翠明は苦笑いしかできない。

「これ、毎晩だったら私なら間違いなく地下牢に入れてますよ・・・」

翠明は笑った。

数日前より、高蓬は前線に出て兵を引いていた。

その日も陣の中は清爛と秀雲、そして数人の軍人だけだった。それ自体は珍しい事ではなく、よくある事だった。清爛は部屋で、現在の軍勢、兵数などを読み、やっとこの戦が終わりに近づくだろうと思っていた。もう少し攻めれば必ず相手よりの使者が来る、そう読んでいた。高蓬が前線に出ると言う事はもう秒読みだろと清爛は思っていた。

いつも通り地図を見ながら頭を動かしていた清爛、その時誰かが部屋を訪れた。

「失礼します!」

内から秀雲が戸を開ける、そこには男が膝を着いて頭を下げていた。

「高蓬様からの早馬がお越しです!」

今早馬が来るとはどういう事だろうと清爛は思った。まだ状況が変わる事はないと清爛は踏んでいた、何か早馬を飛ばさねばならない程急な用件があるとも思えなかった。

清爛はなぜか、胸騒ぎがした。

何か変だと感じた。

清爛はそっと、剣を手に取った。

「・・・いいだろう、通せ。」

清爛はそう言うと、机の前に回り、立った。頭を下げた男はすぐに使いの元へ去る。

「秀雲」

「はっ!」

「馬の準備をしろ。」

「・・・えっ」

「そこの戸から裏に出られる、馬の準備をして待て、すぐに行く。」

「どういうことですか・・・?」

「聞こえなかったか、すぐに行け。」

清爛の目が、いつにもまして鋭い気がして秀雲はすぐに馬の所へ走った。

それとほぼ同時ぐらいに、男の大きな悲鳴が上がる。

成程やはりかと清爛は思った。

これだけの策を引いているにもかかわらず、どうにもうまく当たらないわけだと思った、陣を張って数か月、何かがおかしいと清爛はずっと思っていた。どう考えても策の一部が漏れている様な気がしていた。清爛は早々に、内通者がいる予感がしていた。

バタバタと男達の足音がして、剣がぶつかり合う音が聞こえた。そしてその中に男達の声が聞こえる。

「さて、優勢か劣勢か・・・」

陣に残っている兵は少数、攻めて来た人数は何人だろうかと清爛は思った。

こちらが手薄であり、策士清爛がただの策士だと思って踏み込んでくるのならば数名程度、しかし策士清爛が剣を使えるとわかって踏み込んでくるのなら、それなりの人数を用意してくるだろうと思った。

清爛は、剣を鞘から抜いた。

勢いよく戸が開いて、飛び込んできたのは男二人だった。男二人は崔国の軍服を着て顔を布で巻いていた。

「やはりか、そんな事だろうと思った。」

「清爛様、あなたさえいなければ高蓬様の軍は落ちます。」

「それはどうだろうか、俺がいなくとも高蓬がいればこの戦は終わる。」

男二人は清爛に剣を向けた。

「死ねぇ!」

剣を振って向かってきた二人の男、清爛はあっという間にその二人を薙いだ。

そしてそのまま廊下に出る、数人の兵士がすでに斬られて倒れていた。

もはやそれが敵なのか味方なのかわからない、清爛は周囲をうかがいながら歩いた。するとさっき斬り捨てた男の様に顔を布で巻いた男が青巒の前に飛び出て来てた。剣が激しくぶつかり合う音、清爛は男の剣を弾きそのまま薙ぎ倒した。

「清爛様!」

そんな時背後から上がった声に清爛は息が止まった。

「何事ですか清爛様!」

そこには馬小屋に行かせたはずの秀雲がいて、切り裂かれ絶命している男達を見て叫んでいた。

「愚者が!」

清爛は吐き捨てる。

「戻れ!秀雲!」

「清爛様!お助けいたします!」

「戻れ!!来るな!!」

秀雲は腰の剣を引き抜いてこちらに走ってきた。

「来るな!!!秀雲!!!」

清爛にまた一人男が飛びかかる、秀雲に気を取られていた清爛は着物の袖を薙がれた。

自分に飛び掛かって来る男の方を向き応戦する清爛。その時、背後で秀雲の悲鳴が上がった気がした。

「秀雲!!!」

清爛は男を蹴り飛ばし秀雲の方へと走る、秀雲は床に倒れていた。

すぐに向かってくる男達、清爛はそんな男達二人を華麗に切り裂いた。

「秀雲!しっかりしろ!」

秀雲は正面から一太刀されていた。

抱え上げられて、秀雲はうっすらと目を開けた。

「バカなことを!なぜ命を聞かない!」

「清爛・・・様・・・」

「だからお前は軍人には向かないと言ったのだ!」

秀雲はうつろな目で口を動かしている。

「・・・・とうさん・・・・かあ、さん・・・・」

秀雲の最後の言葉だった。

清爛の怒りは頂点に達していた。

「なかなかの腕ですね、清爛様。」

背後からかかる声に清爛は立ち上がり剣を構える。

男はやはり、崔国の軍服を着て、顔を布で隠していた。

「ただの策士ではなかった、侮ったな。」

二人は剣を構え向かい合う。

「お互い全滅か、」

「こっちはあんた一人にやられたがね。」

一発で決まる、そう清爛は思った。

剣を構え、にらみ合う二人。

「関わっている者の名前を言え、そうすれば腕の一本くらいは残しておいてやる。」

「お優しいお言葉、感謝申し上げます。」

二人は同時に地面を蹴った。男には、目の前で清爛の姿が消えた様に見えた。

清爛は男の剣を弾き、男の真横に立って首元に剣をあてていた。

それはあまりに静かな動きだったと男は思った。

「もう一度言う、内通者の名前を全部言え!」

男は笑った。

清爛は剣を握る手に力を込める。

「うっ・・・・」

突如男が声を漏らす、清爛が視線を下げると、男は短剣を自分の腹に刺していた。

清爛は怒りに任せ、男の首を跳ね落とした。

人の気配がなくなった建物、清爛は再び秀雲の元に歩み寄った。

目を開けたまま、涙を流して絶命している秀雲。清爛はそっと額に手を当てて、その目を閉じた。わずか十数年、身体能力に自信があるわけでもない農民の子が、親の生活を楽にするために軍を志願し命を落とす。果たしてこんな末路を秀雲の親は望んでいるのだろうかと思った。

若い民兵に払われる命の対価など微々たるものだ、そんな金を稼ぐために、そんな金を親に渡すために命を捧げる。こんな事が許されて良い訳がないと清爛は思った。

清爛の憤りは完全に振り切れ、何かが千切れた気がした。

清爛は剣を腰にしまい、先ほど跳ねた男の頭を雑に掴んだ。

そしてそのまま馬に乗り、高蓬の軍を目指し全力で走った。

返り血を浴び、男の首を掴んで飛び込んできた清爛を見て、高蓬でさえ恐怖を覚えた。その目は自分の知っている清爛ではないと、高蓬は思った。

清爛は高蓬の前に、男の首を投げ捨てた。

「この男は・・・!?」

高蓬は、男の首に見覚えがあった。

「陣が襲われて壊滅した、内通者がいる。探し出して、始末する。」

「なるほど、進みが悪いわけだ、わかった。全員殺す。」

高蓬と清爛のやり取りを聞いていた男の中で、一人その場を離れようとした男がいた。高蓬がその場にあった槍を男の足に投げつけた。

男は悲鳴を上げその場に崩れる。

「連れて来い!」

その男は高蓬の元へと連れて来られた。

「知っている事を全て言ってもらおう。そうすれば、楽になれる。」

闘将高蓬と悪魔の様な清爛、男はそんな二人の前にその首を差し出された。

 

戦が終わったと、城に早馬がやって来た。

あと数日で戻って来るとの報告に城は宴の準備に大騒ぎになった。

その報告は吏志から翠明に告げられた。

「もう少しですね。」

翠明は笑顔でうなずいた。

そしてその日、戻ってきた軍を見て翠明はもちろん、吏志も玉連も息を飲むこととなった。

高蓬および軍の幹部は馬で、それ以外の兵は徒歩で城内までやって来た。後宮大広場にやって来た兵たちは英雄のごとくすごい歓迎を受けた。

その中に一人、見慣れない男が馬に乗っていた。

無精髭、荒れた髪を乱雑に束ね表情なく騎馬に乗った軍服の男。吏志でさえ、それが清爛であると気が付くのには時間を要した。

高蓬と清爛はそのまま宮廷に入る。そして皇帝に状況を説明した。

「清爛、お前も宴に来ないか。」

高蓬は清爛に声をかけるも、清爛は答えなかった。

「おい!清爛!」

清爛は黙って高蓬に背を向け歩いて行った。

翠明もまた、変わり果てた清爛の姿に少なからず驚きを覚えたが、それでも廊下に立って、そんな清爛を待った。翠明にとって清爛の容姿などどうでもよかった。今はただ、無事な姿に触れたいと思っていた。

清爛はやっと自分の住む別棟までやって来た。そして廊下に立つ翠明を見つけた。

しかしなぜか、清爛の気持ちは動かなかった。

清爛はそのまま静かに翠明の前に立った。翠明はじっと清爛を見つめ、清爛も翠明を見つめた。そしてやっと、そこにいるのが翠明だと気が付き、清爛は翠明を抱きしめた。

翠明も清爛に手をまわし、抱きしめてその喜びを分かち合う。清爛の目からは涙が零れ、翠明もまた涙が零れた。清爛の変わってしまった顔に翠明はそっと手を寄せる。真っ白かった肌は浅黒く、もはや書官孫文の面影はなかった。

一通り二人が落ち着いたのを確認し、吏志が声をかけた。

「お帰りなさいませ、孫文様。」

「あぁ・・・戻った・・・」

清欄のその声色に若干の違和感を覚えたものの、吏志はいつも通りにふるまった。

「湯に入ってしまいましょう、そのままでは翠明様がかわいそうですよ。」

「あぁ・・・」

清爛は力無げにふらふらと湯へ向かった。

吏志は浴室に孫文の着物を置き部屋を出る、玉連と翠明は以前のように笑い合いながら食事の準備をし始めた。これでやっといつも通りになると吏志は思い、書斎で文をまとめ始めた。

最初に清爛の異変に気が付いたのは、たまたま鉢合わせた翠明だった。

翠明は食器を清爛の部屋に運んで戻る途中、湯から上がったであろう清爛に出会った。そしてその姿を見て驚いた。翠明はすれ違い去ろうとした清爛の手を思わず掴んだ。

清爛は足を止め、振り返り翠明を見る。その目はどこかうつろだった。

翠明は一生懸命清爛に事情を問おうとした。しかしなぜだか清爛に伝わらない。翠明は清爛の髪を触って、訴えた。

清爛は湯上りのはずなのに、髪を洗っておらず、服もそのままだった。

明らかにおかしいと翠明は思った。

翠明はそのまま、清爛の手を引いて、湯へと連れて行く。そして浴室を見て、畳まれた服、濡れていない手ぬぐいを見つける。

それらに指をさしてその理由を問いかけても、清爛は反応を示さなかった。

これは良くないと翠明は思った。すぐにでも玉連か吏志を呼ぶべきなのだろうと思ったが、今この手を離すと清爛はまた歩き出してしまいそうな様子だった。

翠明は仕方なく、清爛の服を脱がせた。

無抵抗で何も反応しない清爛、翠明は清爛の衣服を全て剥ぎ、髪を結っていた紐を外し、浴槽へと連れ込んだ。そして自身も袖と裾をまくり上げ、清爛を湯の中に押し込むと、髪に湯をかけた。

全く抵抗を見せない清爛に、異常事態を悟る翠明。翠明はそのまま清爛の髪をていねいに洗った。

いくら待っても戻ってこない翠明に玉連は首をかしげる、途中で清爛とでも会って話をしているのだろうかとも思ったが、それにしてはあまりに時間が経っていた。玉連は清爛の部屋へ向かった。

吏志もまた清爛の湯が長い事に気が付いていた。戦上がりで長湯をしていたとしてもあまりに長いと思った。そして清爛の部屋へ向かった。

「吏志様、翠明様を見ませんでしたか?」

「玉連様、清爛様はまだ湯ですか?」

二人は顔を見合わせ足を止める。そしてまさかと思い浴室に急いだ。

浴室から音がする、吏志と玉連が戸を開けて中を覗くと、翠明が浴槽に腰を下ろしている清爛の背を洗っていた。

「翠明様!?」

「清爛様!?」

翠明にその声は当然届いていないが、清爛もまた振り向かなかった。

慌てて吏志が翠明の横に駆け寄り、翠明の肩に手を置いた。

驚き見上げた翠明。同じように驚いている吏志に、翠明は何かを訴えていた。

「どう、されましたか・・・?」

翠明は首を細かく左右に振り、何かを訴えている。

「清爛様、どうかされたのですか・・・?」

「あぁ、吏志か・・・」

清爛の言葉は、それだけだった。

これはおかしいと吏志は思った。

「翠明様、変わりましょう。」

吏志は翠明に声をかける。翠明はうなずき、立ち上がった。

「さぁさぁ、翠明様、こちらに。」

玉連が翠明を浴室から外へと連れ出す。そしてそのまま書斎へ連れて行き、事情を聴いた。

必死に文字を書き訴える翠明、玉連もまたおかしいと思った。

「そうでしたか、それは困りましたね。とりあえず入浴は吏志様にお任せしてお食事の準備をしてしまいましょう。お食事をされたら、落ち着かれるかもしれません。」

翠明はゆっくりとうなずいた。

吏志は無気力状態の清爛を清め、服を着せる。そしてそのまま部屋へと連れて行った。ぼーっとしたまま特に何かを話すわけでもない清爛。

吏志は初めてこんな姿の清爛を見た。

今まで戦に出たことは何度かあったが、こんな事は一度もなかった。吏志は、清爛は自身の外見を気にする方だと思っていた。着物もきちんと着て、爪もきちんと手入れし、髭を生やした姿など見たこともなかった。この戦で、いったい何があったのだろうと吏志は思った。

「さぁ清爛様、こっちへ。」

玉連がいつも通り、清爛を座らせる。

清爛は黙って椅子に座った。

目の前に並べられた食事は、比較的清爛の好きな物ばかりだと吏志は思った。

「お疲れでしょう、お好きな物を食べてください。」

玉連はそう言って微笑み、四人は卓を囲んだ。

そして食事を始めても、清爛は手も動かさずずっと黙って座っていた。

翠明は清爛を覗き込む。清爛はぼーっと食卓を眺めているだけだった。

「どうかされましたか?」

玉連は努めていつも通りに声をかける。

清爛は、しばらく食卓を眺め、口を開いた。

「わからない・・・」

三人は手を止めた。

「清爛様・・・?」

吏志が驚いた顔で声をかける。

「よく、わからないんだ・・・」

翠明は再び清爛の顔を覗き込む、清爛はただ、ぼーっとしていた。

翠明は立ち上がり、清爛の手をそっと引いた。それに従って清爛は立ち上がる。翠明は優しい顔で清爛を見て、そのまま寝室に連れて行った。そしてそのまま清爛を寝床に座らせ、体を横にさせる。清爛は何の抵抗も反応も示さず、促されるまま横になった。

翠明は寝床のへりに腰を下ろし、優しく清爛を見下ろす。清爛はそんな翠明を見ることもなく天井を眺めていた。頭を撫で、目を閉じる様にそっと手を目の上に置いた。しばらくそのまま手を置いていてあげると、やがて清爛は静かに寝息を立て始める。翠明はそんな姿をしばらく見つめ、そして静かに立ち上がった。

翠明が部屋に戻ると、玉連と吏志が待っていた。翠明は二人に頭を下げる。

「どうでしたか?」

吏志の言葉に、翠明は筆を執った。

【寝ました】

「そうですか・・・」

吏志と玉連は深く息を吐いた。

翠明は、記憶を辿って筆を動かす。

【昔、花街で同じような状況になった遊女を見たことがあります】

「遊女、ですか?」

翠明はうなずいた。

【男に捨てられて、心を壊した遊女です】

玉連と吏志は黙った。

【男に捨てられ、心に強い傷を負った遊女は、時に身を投げ、時に心を壊し廃人の様になりました。無気力になり、食事もとれなくなり、やがて衰弱していく、そんな女を何人も見ました】

吏志は慌てた。もし清爛がそうだったとして、自害でもしようものならこの国は崩壊すると思った。

翠明は更に筆を動かす。

【清爛様は、まだ会話が出来ていますから、遊女達とは違うのかもしれません。ですがこの度の戦で、心が壊れるような何か、あったのかもしれません】

吏志は清爛を風呂に入れている時、清爛が日に焼けている事を不思議に思った。清爛は策士であり本陣に篭っているため日に焼ける様などと言うことは起きない。それとは逆に、前線を飛び回る高蓬は常に日に焼けており浅黒く見た目も力強い。吏志は今回の戦でいったい何が起きたのかを調べる必要があると思った。

「もう数日、様子を見ましょう。」

玉連がそう言って、微笑んだ。

「清爛様は翠明様の事をきちんと認識しておいでです、記憶を失っているわけではないと思います。でしたら少し時間を差し上げましょう。きっと元に戻りますよ。」

玉連はそう言うと翠明を見て微笑んだ。

「そうですね、翠明様にはもう少しお仕事をお願いすると思いますが、よろしいでしょうか。」

翠明はうなずいた。

「明日の朝、また見ましょう。」

玉連はそう言うと、そっと翠明の腕に手を添える。

「坊ちゃんはいつも、翠明様にご迷惑をかけてばかりですね。」

翠明は首を振った。

「坊ちゃんの事、よろしくお願いします。」

翠明は、うなずいた。

その夜はそのまま各自部屋に戻った。その後一度翠明は清爛の部屋を訪れるも、清爛は静かに寝ていた。

翠明はそんな清爛の寝顔を見て、最後まで尽くそうと心に決めた。

戦の本陣は校外の町だった。住民は皆町から出され、住居は軍が占領していた。清爛は一番大きな屋敷に入れられる。部屋の中心には大きな机があり、そこには大きな地図が広げられていた。高蓬が先に入り、先に待っていた軍人達が一斉に膝をつき頭を下げる。そしてその後に続いて入って来た男に、頭を下げていた男達が思わず息を飲んだ。その男は長い髪を高く結いあげ、切れる様な目、溢れた黒い髪が輪郭を伝い、より冷たさを感じる。これが策士清爛の姿だった。

策士清爛と言う男の存在はもはやうわさでしかなかった。その姿を見たことがある者は宮中のわずかな者だけ、もしくは軍の中でも高蓬に近い中枢の者だけだった。

「清爛、こっちだ。」

戦の時の清爛は感情を殺した。人ともあまり関わらず、私的な会話はしなかった。それこそが完璧な策士清爛である時の姿だった。そこには何の感情もなく、ただ勝つためだけの策を冷静に客観的に判断する。どこで誰がどんな状況で戦っているかなど、清爛の耳には一切入らない。清爛はただ、盤上の駒を動かす策を講じるだけだった。

「状況を説明してくれ。」

座った清爛はただ一言、そう言った。

 

翠明はただ黙々と仕事を行った。とは言え、皇族に宛てた手紙も全て目を通さなければならない、それは非常に多い仕事量だった。見かねた玉連と吏志がお茶を運び休憩を促すも、翠明はすぐに机に戻ってしまった。

そんな翠明を見て、玉連と吏志は顔を見合わせてため息をつくしかなかった。

何かをしていなければ落ち着かない翠明は、働くことで自分の中の処理しきれない想いをかき消そうとしていた。その想いは不安や悲しみや恐怖で、何もしていないと潰されてしまいそうだった。

この気持ちには覚えがあると翠明は思った。

花街に売られ、下女となった時、働くことで自分の身に起きた受け入れがたい現実を全て忘れようとした。

そんな翠明の心の内が玉連と吏志にもわかっていた。わかっていたからこそ、翠明を止める事が出来なかった。二人には翠明の心の葛藤が収まるのを待つ以外、見守る事しかできなかった。

 

「清爛、小間使いだ。この街の人間だから使えるだろ、自由に使え。」

打ち合わせの後高蓬がそう言って清爛の前に連れて来たのは、まだ幼さの残る青年だった。

青年は清爛を見るなり床に膝をつき頭を下げる。

清爛は表情を崩すことなく、目を細めてその青年を見た。

しゅううんです!よろしくお願いします!」

「あぁ、」

清爛はただ一言、そう言った。

秀雲は清爛とすべての行動を共にした。会議の時は後ろに立ち、部屋に篭り策を練っている時はその外でずっと立っていた。

ある夜の事、清爛が部屋で一人地図を見ながら駒を動かし策を練っていた時だった。

   ガコッ!

戸の外から大きな音がして清爛は勢いよくその方向に体を向ける。手に剣を持ち戸の方に向かい辺りをうかがった。

「・・・秀雲、いるか。」

「はい!」

清爛は戸を開けた。

「何の音だ、」

「いえっ!何でもありません!」

秀雲は焦った様な口調でそう答えた。

「何の音かと聞いている。」

「・・・・・」

黙る秀雲、清爛は何となく察した。

「悪いが、ここの番を頼む。」

そう言って清爛は秀雲を残して部屋を出て行った。

「高蓬、いるか。」

「なんだ清爛、」

清爛は高蓬の部屋へとやって来た。清爛の登場に高蓬の周囲にいた軍人達は皆膝を着く。清爛はそんな男達には目も向けず、高蓬に真っ直ぐ歩み寄る。

「悪いが部屋の前の番は軍兵に変えてくれ、あれでは心もとない。」

「ここは陣の中だ、兵を付けることもないだろう。」

「気に入らないなら俺は降りる。」

「わかった、そう言うな。すぐ手配する。」

清爛は身をひるがえした。

「おい、今着いている若いのはどうする?」

「あれは小間だ、中で使う。」

清爛はその場を去った。

戻ってきた清爛に秀雲は膝を着き頭を下げた。清爛はそんな秀雲の横に立ち、足を止め、頭を下げている秀雲を目を細めて見下ろす。そして戸を開け、再び足を止めた。

自分の横で全く動かない清爛に、秀雲は恐る恐る顔を上げた。清爛は表情なく、ただ真っ直ぐと部屋の中を見て立ち止っていた。

「・・・・?」

「ここは他の者が来る、中に入れ。」

そう言って部屋の中に入る清爛、秀雲は慌てて追いかける様に部屋の中に入り戸を閉めた。

清爛は机に向かい、再び地図を眺める。秀雲は呼ばれたもののどうしていいかわからず、戸の前に立っていた。

「そこで寝ていろ。」

清爛は秀雲を見ることなく、そう言った。

その言葉に秀雲はビクッと体を跳ねさせ、背を伸ばす。

「お前は私の小間だ、張り番をする役ではない。私がお前に用がない時は寝ていようが構わない。」

清爛は先ほどの音が秀雲が眠りをしたがために壁にぶつかった音だと気が付いていた。秀雲はその事に気が付かれたと察し、慌ててひれ伏した。

「申し訳ありませんでした!」

秀雲は大きな声で叫んた。

清爛はそんな秀雲の叫びを聞いて、フッと息を吐き秀雲を見た。

「お前は軍人だろ、ならばたとえ寝ていたとあっても剣を身から放さず、かすかな物音でも起きるぐらいでなければならない。それが出来る様に戸の前で寝ろ。」

「はっ!」

「そして私が呼べば何をしていようと私の小間となる、それが前の仕事だ。」

「はっ!」

「そこに座って、番をするんだな。」

清爛はそう言うと再び地図を睨んだ。

感情を殺して生きている清爛は、軍の中では非常に冷徹な策士に映っていた。熱く皆を鼓舞し引っ張る高蓬とは対照的な弟清爛を演じることで、高蓬に対する支持を絶対的なものに押し上げた。そしてあえて冷徹な姿を覚えさせることで、温厚な孫文の存在と結びつかない様にしていた。

その後いくらか地図とにらみ合った後、ふと秀雲の方を見た。秀雲は剣を抱え、戸に背を付けて座ったまま寝ていた。

まだ若い秀雲の姿を見て、清爛は改めて戦の残酷さを思い知った。まだ十数年しか生きていないような若者さえ、命を掛けた争いに巻き込まれなければならない。策のため、勝利のため、前線の兵士の事など考えない様にしていた清爛だが、さすがに秀雲を見ていると心がざわついた。

少なくともこの青年だけは無事に帰そうと清爛は思った。

清爛と秀雲が共に行動をする様になってだいぶ日数が経った。

戦況は平行線で、兵士の数ばかりを失った。今は我慢の時だと清爛は思っていた。近隣の同盟国に文を出し、兵を要請する。そして一般町民にも有志を募った。

清爛は耳に入る情報を書き起こし、整理し、陣の動かし方などを考えていた。

相手は最強との呼び声高い騎馬民族、行動力は今までの戦と桁が違った。

清爛はまるで碁を打つ様に地図の上を眺めていた。

秀雲はそんな清爛をずっと見ていた。

清爛が何を考え、どうやって駒を動かそうとしているか、必死で着いて行こうとしていた。いつの間にか秀雲の清爛を見る目は憧れへと変わっていた。

そんな秀雲の視線を清爛は感じていた。そして、もしかしたらこの青年は軍よりも内部に置いた方が使えるのかもしれないと思った。その時ふと、清爛は高蓬の言葉を思い出した。

「秀雲、お前はこの町の人間だったな。」

「はい!生まれも育ちもこの町です!」

清爛は背を伸ばし、目を細め、秀雲を見つめる。

「ならば聞く、この時期、風はどっちから吹く。」

「はっ!この時期でしたら東から乾いた風が吹きます。」

「秀雲、こっちへ。」

「はっ!」

清爛は地図の正面に秀雲を立たせた。

「地図で説明しろ。」

「はっ!」

膠着状況の続いている最中、他に打つ手立てはないかと模索していた清爛にとって、地元民であり気象状況を把握している秀雲はまさに助け船だった。以降清爛は秀雲を近い所に置くようになった。

 

清爛が戦に出て一月以上が経過し、翠明はただ書と向かい合い仕事をする日々を送っていた。

以前の様にたわいのもない話をしたり、心を動かすような事がなくなり、翠明の表情は徐々に薄くなってきていた。抱く感情は不安だけ、ただ清爛の無事な帰城を祈り待つのみだった。

そんな翠明の心情が玉連と吏志にもわかった。

「翠明様の表情が以前のようになってしまいましたねぇ。」

「えぇ、清爛様がいなくなって、話すことも減りましたから・・・」

吏志と玉連は、自分達にはどうすることもできないのだろうと察する。話しかければ翠明は笑顔で返してくれた。しかしそれはほんの一時で、続かない会話ではすぐに仕事に戻ってしまう。吏志も玉連も自分の仕事もある為、常に翠明とずっと一緒にいる訳にもいかない。ましてや翠明は清爛の分も仕事をこなさければならない。吏志は、何とか翠明の心の負担を軽くしてやりたいと思っていた。

ある日の仕事中、吏志は翠明の視界にそっと手を入れた。

そんな自分を呼ぶ合図に翠明は顔を上げ吏志を見上げる。

「お茶にしましょう。」

にこやかに微笑む吏志、翠明はうなずいて立ち上がった。

机に向かい、入れられたお茶に手を掛ける翠明。その香りは茉莉花の香りだった。

「お心の疲れに良いと思いましたので。」

吏志はそう言って微笑んだ。

翠明は目を閉じその香りを嗅いだ、懐かしさを感じるその香りに、心が落ち着くのを感じた。

「清爛様なら、大丈夫ですよ。」

顔を上げた翠明に吏志がそう問いかける。翠明は少し疲れたように吏志に微笑んだ。

「今まで何度か戦に行っておられますが、傷一つなく、まるで町から帰って来るかのように戻って参ります。まぁ、小言はひどいですけどね。」

そんな吏志の言葉に、翠明がクスリと笑った。

「翠明様は、清爛様が剣を持たれる事をご存知ですか?」

翠明はその言葉を気いて、以前園遊会で剣劇をしていた事を思い出した。

【園遊会で劇を披露されたとうかがいました】

その文字を見て吏志は一瞬驚くも、微笑んだ。

「ご覧になったことは?」

【お部屋で練習されているのを見かけました】

「見られてしまったのですか、じゃぁ仕方ないですね。」

吏志は優しく微笑んで、言葉を続けた。

「清爛様は高蓬様の様な軍人になることをやめて、文学にその身を投じました。しかし元より武芸の筋も捨てがたかったお方です。芸として続けていらっしゃいました。」

吏志は清爛の剣を握った姿を思い出していた。

「今は芸として握られておりますが、組手をさせてもまさに芸事そのもので、美しく無駄なく、流れる様な剣捌きでした。翠明様が来られてからは組手をされていませんが、中級兵士程度であれば太刀打ちできない程の腕前でしたよ。」

翠明は清爛が誰かに剣を向けている姿を想像できなかった。一度見た清爛の剣劇は美しさこそ感じたものの、そこには敵意や殺意はなかったと思った。

「・・・だから、清爛様は大丈夫ですよ。」

吏志が自分を安心させ様としている事に翠明は気が付く。そして頑なに自分の心だけに気を向け不安から一人逃れようとしてきた自分を恥じるべきだと翠明は思った。

周りがこんなにも自分に気を使っている、その事を痛感した。

翠明は以前のように微笑むと、筆を動かす。

【早く帰ってきて頂かないといけませんね】

「えぇ、そうですね。」

翠明の微笑みに、吏志もまた、翠明を守らなくてはならないのだと痛感した。

 

それからどれだけの日数が経ったのか、戦の状況も少しずつ変わり始めていた。気象条件を読む策がうまく回っていると清爛は思った。清爛はふと、横に立つ秀雲に声をかけた。それは策士清爛としては比較的珍しい行為だった。

「秀雲、お前はなぜ軍を志願した?」

「はい!崔国の高蓬様の軍が兵を募っていると聞いたので志願しました。」

「では、それまでは。」

「農民です、この辺りは作物がうまく育たず生活が苦しく、軍に入ればいい賃金が得られると聞きました。国の為に役に立った賃金を両親に送れることは誇れる事だと思います!」

平民が軍を志願する理由はほとんどがこの理由だと言う事を清爛は知っていた。

確かに軍に身を置けば農民などよりも良い対価が得られた。しかしそれは命の値段であり、それを思うとこの青年に付けられた命の値段はとても低いのだろうと清爛は思った。

「武術の経験は?」

「ありません!」

「武器は扱えるのか?」

「入隊前に剣と槍の指導を受けました!」

民兵が数日武術訓練を受けた程度で使い物になるわけがない事は清爛もわかる、秀雲は当然捨て駒の一人だった。

この戦が終わり、軍に残して鍛えたとしても、この青年はあまりいい駒にはならないだろと清爛は思った。軍人としての粗さや勢い、骨の太さを秀雲から感じなかった。この青年は優しいと、清爛は思った。

「戦が終われば対価が支払われる、それで親の元に戻るんだな。」

「自分はそのまま軍に残りたいと思っています!」

「お前は、向かない。」

「・・・えっ、」

秀雲はぽかんと清爛を見上げた。

「国に帰ることをすすめるよ。」

清爛はそう言い放った。

秀雲は清爛に言われた言葉の意味が今一わからなかった。自分は軍人には向かないとそう言った清爛の言葉はすごく冷たいと感じた。今すぐ辞めろと言われている様に感じた。

「自分は!」

秀雲は清爛に声を張った。

「自分は軍に行きます!剣技武術に励み崔国の為にこの身を捧げます!いつか高蓬様の部隊に入るのが自分の夢です!」

清爛はそんな秀雲を横目で見た。

「・・・そうか、なら、励め。」

「はっ!」

戦とは人の運命を大きく狂わすものなのだと、清爛は改めて思った。

戦などなければこの青年はこんな考えを持つ事はなかったはずだった。悪い夢を見させてしまったのだろうと、清爛は秀雲を哀れに思った。