翌日、母は不動産屋へ行くと言って出かけていった。
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『それでね、不動産屋の営業の人なんだけど、お母さんと同い年の女性だったの。その人もバツイチなんですって。人生色々あるわよねって意気投合しちゃってね、それで...。』

母は本気で部屋を探す気があるのだろうか...?

どうでもいい話を延々と続ける母に苛立ちを覚えた私は、母の話を遮るように質問をした。

『それで、部屋は決めてきたの?』

『それがねぇ...何部屋かみせてもらったんだけど、なかなかピンとくる部屋がなくって...。』

『お母さん。もうあまり時間的余裕はないのよ?ピンとくるこないじゃなくて、希望条件に優先順位をつけて、予算にあった部屋からピックアップするの。そこから絞り込めば、直ぐに決まるでしょう?』

『.......。』

母は黙って私を睨んだ。

きっと、私が『お母さん、もういいよ。一緒に暮らそう。』と言うのを待っているに違いない。

....私はそんなに甘くない。

非情かもしれないが、将来的に考えれば私の提案はベストなのだという確信があったし、私は正しいことを言っているのだという自信もあった。

相変わらず、母は暇さえあればH主任と連絡をとっているようだった。

母は居間でH主任と電話で話しているようなのだが、私が近くにいる時は、母は声をひそめるか、慌てて電話を切るので、〈電話の相手はH主任なのだろう〉という見当はついたが、二人がどういう内容の話をしているのかまではわからなかった。
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私が家を追い出されたのは、そのわずか三日後の深夜のことだった。

その日は仕事が忙しく(残業して)、帰宅したのは夜10時半を過ぎていた。

鍵を開けて自宅へ入ると、母はまだ起きていて、居間でお酒を飲んでいた。
ビールの缶が床に散乱していて、子どもの頃の暗い記憶が蘇った。

私は眉を顰めた。

母は私が帰ってきたことに気付くと、勝ち誇ったような表情を浮かべてこう言った。

『私、Hさんと一緒に住むことになったから。さっき、Hさんが一緒に暮らそうって言ってくれたのよ。』

『それは...お母さんが考えて決めたことなの?』

『だって、こうするしかないんだもの!!S子はHさんと別れろって言うけど、別れられないんだもの!!』

『お母さんが考えて決めたことなら...仕方がないわね。』

『フンッ。今までよくも偉そうなこと言ってくれたわね。Hさんと別れろだなんて、アンタは何様なのよ!!子どものクセに、親に指図するんじゃない!!この馬鹿娘!!』

母は床に転がったビールの空き缶を掴んだ。

次の瞬間、ビールの空き缶が勢いよく飛んできた。

ビールの空き缶は、私の背後の壁に当たって乾いた音を立てたあと、床に転がり落ちた。

”パイナップルの缶詰じゃなくて良かった...。”

4歳の頃、親の喧嘩に巻き込まれて大怪我をしたことを思い出した。

『お母さん、いい加減にしなよ。』

私は空き缶を拾って、ゴミ箱に入れた。

『人生経験も無いガキのクセして、親に向かって偉そうに!!何が〈人として正しく生きる最後のチャンス〉だよ!!笑わせんじゃねえよ!!アタシのことをお荷物扱いしやがって...アタシをHさんに押し付けて、ホッとしてるんだろ!!Hさんと一緒に暮せば、お金を貸さなくてすむもんなぁ?!このドケチ女!!守銭奴!!』

『いい加減にしてってさっき言いましたよね。お母さんはお酒を飲み過ぎです。今夜はもうそのへんで止めておきなよ。』

『うるさい!!ガキの分際で親に指図するな!!オマエなんか産むんじゃなかった。一度もかわいいと思ったことがないわ。いつも無表情で何を考えているのかわからない薄気味悪いガキ。昔からオマエなんか大嫌いだった。いつもとり澄ました顔をして、母親を馬鹿にして...。正しいことがそんなにエライのか!!』

『正しいことは、悪いの?』

『......。』

『正しく、強く生きようと努力するのが、人間の本来在るべき姿なんじゃないの...?お母さんは昔から弱すぎる。自分に甘過ぎるのよ。努力するのが嫌だからって、周囲の人間を自分のレベルまで引き摺り下ろそうとするのは止めて。だからみんなお母さんから離れていくのよ。どうして気付かないの?』

『うるさい!!親に向かって偉そうに...親に逆らうなんて...オマエなんかもう娘じゃない!!今すぐ出ていけ!!』

『明日になったら出ていきます。』

『今すぐだ!!今すぐ出て行けーッ!!』

時計の針は夜11時40分を指していた。

『荷物をまとめるのに時間をください。』

次の瞬間、灰皿(ガラス製)が飛んできた。咄嗟に避けたからよかったものの...当たっていたら大怪我をするところだった。
実際に、灰皿が壁に当たったところは大きく凹んでしまった。母はヘビースモーカーだったから、灰皿に溜まっていた灰と吸い殻が床に散乱した。

『オマエなんか娘じゃない!!もう親でも子でもない!!親の言うとおりにならないガキなんかいらないんだよ!!この役立たず!!オマエは失敗作だった!!荷物を置いて、とっとと出て行け!!』

『わかりました。今までお世話になりました。お母さんとはもう二度とお会いしません。お元気で。H主任とお幸せに。』

私はテーブルの上に家の鍵を置くと、バッグを掴んで玄関を出た。
すぐ後ろで、玄関の鍵を内側から締める音が聞こえた。
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駅まで歩いて、タクシーに乗った。
終電まではまだ余裕があったが、電車に乗るような気分ではなかった。

『H駅までお願いします。』

『お姉さん、こんなに遅くまでお仕事?』

『ええ。』

『若いのに偉いねえ。』

話好きの運転手のようで、目的地に着くまで、車内ではずっと他愛もない話が続いた。

いつもなら少々面倒くさいと感じるところなのだが、その夜は最低な気分だったから、この運転手さんで良かったと思った。
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実は私が契約したマンションの部屋は、三週間ほど前から入居できるようになっていたのだった。

東京電力と東京ガス、水道局の手続きはまだだったが...。

真っ暗な部屋に入ると、私は気が抜けてへたり込んでしまった。

失望と無力感、喪失感で涙が溢れた。

”多分、私の人生の中で今が一番最低なんだろう。最低ということは、ここから下は無いということだ。”

そのことに気がついたら、涙は止まった。

”これからどうやって生きていこう...。”

窓の外から見える空は、白み始めていた。
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結局、この日から今日までの約20年間、私は母とは一度も会っていない。

(この後の【壊れた家族(私小説)】の続きは、アメンバー限定記事となります。)
2018年6月14日(23:00)