五月の風にのって
英語の朗読がきこえてくる
裏の家の大学生の声

ついで日本語の逐次訳が追いかける
どこかで発表しなければならないのか
よそゆきの気取った声で
英語と日本語交互に織りなし

その若々しさに
手を休み
聴いていれば

この失敗にもかかわらず・・・・
この失敗にもかかわらず・・・・
そこで はたりと 沈黙がきた
どうしたの? その先は

失恋の痛手にわかに疼きだしたのか
あるいは深い思索の淵に
突然ひきずりこまれたのか

吹きぬける風に
ふたたび彼の声はのらず
あとはライラックの匂いばかり

原文は知らないが
あとは私が続けよう
そう
この失敗にもかかわらず
私もまた生きてゆかねばならない
なぜかは知らず
生きている以上 生きものの味方をして
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かなり長くなってしまいましたが、読んでいて印象深かったので全部載せました。

最初のストーリー展開もさることながら、
「原文は知らないがあとは私が続けよう・・・」
のくだりに、茨木のり子さんの共感と深い愛を感じます。

蛇足ですが、自分ならなんと続けるかなと思い考えてみました。

この失敗にもかかわらず
私もまた生きていかなければならない。
しばらくはただ痛みに耐えて、
いつかはそれを必然に変えて

「目標は達成されるべきもので、語られるものではない。達成のための努力を続けている人は、他人に自分の目標について語るような時間的余裕はない。いまだ達成されていない目標は他人に語ることで意志が「拡散」する。目標は自らの中に封印さていなければならない。だから目標を持つのは基本的に憂うつなことなのである。」


これは最近読んだ本で、身につまされる思いがしました。


10代のころ、いつまで今のような大きな夢を語っていられるだろうか、その他大勢のような人生ってつまらないだろうなあ、と思っていました。


20代の前半では、何とか夢を語れるような職場に入ることが出来て、合コンなんかでは、大物然として振る舞いそれなりに効果がありました。


しかし流石に20代中盤から後半になってくるとボロが隠しきれません


今振り返ってみると、私の夢は、人にどう見られるかをかなり意識したものであり、「目標」という、よりリアリティーのある次元に落とされていませんでした。


それは、女の子に自分を大きく見せるツールとしてはある程度機能しましたが、本来の自分の夢の実現につながっていません。


今の夢も大枠では、本当に自分が何を求めているのか、ずれていないと思うので、もう少し細部を詰めて、目標にして、実現したいと思います。

「夫婦は健三を可愛がっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美しい女を囲っている人が、その女の好きなものを、言うがままに買ってくれるのと同じ様に、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動することが出来ずに、ただ健三の歓心を得るために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかし自ずから知らなかった。」


このエピソードは初めて読んだ高校時代からとても印象に残っています。なぜか未だに不明ですが、思うことをいくつか


この夫婦にしても、養子の健三から気を引こうと玩具を与えることがそんなに悪いことだとは思えません。不安になって、こういう行動に出てしまうことも仕方ないことのように思えます。 少なくとも悪意からこういうわけではないはずです。


健三にしても、こういう反応をしてしまうことも理解できます。


こういうお互い悪意でなくても、どうしてもうまくいかないということがあるというのが象徴的に現れているように思います。


更に付け加えると、この夫婦の愛には悪意からではないにし

ても健三を自分のものにしたいというエゴイスティックな所有欲

が含まれており、それが全体をだめにしてしまっているところ

に悲しさがあって印象に残っているの」かもしれません

(同じことは、ストーカーの話にも言えるような気がします。

 ストーカーのもともとの思いは純粋なものといえるかもしれま

せんが、そこに所有欲などのエゴイズムが入ることで、変質してしまいます。)