~アラフィフ親父の「日本蜜蜂」奮闘記~ -38ページ目

~アラフィフ親父の「日本蜜蜂」奮闘記~

私、「toratoralion」=tora=飯田友一が、「日本蜜蜂」で養蜂を始めた日々を綴ります(*^o^*)

ある方のブログを読んでいて、「あ~なるほど!」と観じたことを本日は書かせていただきますm(__)m

最近は、「悟りとは?」ということを考えています。

「悟り」とは、何かをしたから、開かれるものでもなく、いつそうなるか、どうしてそうなるか、思考しても仕方のないことであると。

例えるなら、この画像↓
tora(飯田友一)の傾奇者日記

をみて、「あっ、キリストの顏が見えた!」と感じた瞬間と同じだと。

こういう瞬間を「アッ、ハー体験」というらしいですが、、、(アッ、は~んー(~_~)体験ではありません。。。)

で、「悟りとは?」ということに関して、「アッ、ハー体験」をした今日この頃です!
7月22日に「モチベーションについて」という題で、ブログ記事を書きました。

そのときに自分の中でどうもしっくりしない部分がいろいろとあったのですが、やっと解消しましたので、それを本日は書きたいと思います。

ある方から、「ビジョン」が明確ではないのが原因では?というメッセージをいただきました。この点は、私の中では、「そうなんです、確かにビジョンがはっきりしていないのです・・・」という感じでした。

それで、私の中で、どういう所が腑に落ちていなかったかというと、「ビジョン」を持つことが果たしていいのかどうなのか?ということでした。

もっと、自分の中を掘り下げていくと、「ビジョン」を明確にしようとしたときにそれが、「本来の自分から発せられたもの」なのか、「エゴから発せられたものなのか」どう区別すればいいのだろうか?というところが引っかかっていました。エゴから発せられたものを「ビジョン」として設定してしまうと、まさに「エゴちゃん」の思う壺に自ら嵌ってしまうのではないかという「恐れ」があったのです

この部分、またまたある方からのアドバイスで、「ハートが開いている状態かどうかが一つの判断基準になる」というコメントをいただきました。

このコメントを聞いた瞬間、「なるほど~!!!!!!!」という感じで納得しました。

ということで、今後、「自分の望む人生は、自分で創造する」ということを意図することにいたしました。

それでは、ごきげんよ~


前々回のブログ記事で、ある方のブログ記事を読んで、とても不愉快になりましたが、その感情を手放すことができた話を書きました。

その後、私のブログ記事をご覧になったいろいろな方々から、「自分にとって厄介だと感じる人は、何かを気付かせてくれる貴重な人ではないでしょうか?」という意味合いのメッセージをたくさんいただきました。

以前の私であれば、「そんなきれいごとは、たくさん!しゃらくせい!!!この私の名刀で、叩っ切てやる!私の感情を不愉快にしたのは、確かなのだから・・・」と訳わからないことをのたまわっていたと思います。

ただ今回は、本当に正直に

「私を不愉快にしてくれて、本当にありがとう\(^-^)/いろいろな気付きができましたm(__)m」

と思っています。


ただ、まだまだ私も大人じゃないのは、私を不愉快にしてくれた本人に

「本当に損な役回りをしていただいて、ありがとうございます!もう私に対するあなたのお役目は、終わったようなので、とっとと私の目の前から消えてくださいm(__)m」
と言ってやりたい衝動にかられています。


「なんだ、全然toraさん成長してないじゃん!」というお声が聞こえてきますが、
まあ人間そんなものです。。。(^_^)v
本日は、映画「インセプシション」の考察を濱田さんのブログから、そのまま引用させていただきます
(^_^)v

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はじめて観た時は、潜在意識の深い領域での観念、思い込みが、現実を創り出すってところが、おおー、深いなぁって思っていたのですが、自分の日常の人生での洞察が深まってくると、実はとんでもなく深い映画だってことが、どんどん分かってきました。

ここからは少し内容に触れますので、これからはじめて観られるという方は、ご了承のほどを。

はじめて観た時は、潜在意識が人生に大きく影響を及ぼす、しかも、潜在意識は階層になっていて、より深い領域の思い込みがが、人生に大きな影響を及ぼすってところが、これまで自分が探求、研究してきたテーマとばっちり合致していて、すげー、深いなぁ&こんなテーマの映画が一般向けに公開されるようになったんだなぁって、関心&感動しておりました。

が、自分自身が、虚無=空(くう)の体験をして、そこで無から有が創造されるってのを、体験を通して目の当たりにしてから、空(くう)に堕ちた渡辺健が、孤独に老いたのが、あれ?なんで?
って気になりだしました。
映画を最初に見た頃は、「虚無に堕ちる」って言葉の雰囲気から、そこに堕ちたら、「虚しく辛い思いを
しないといけない場所」くらいにしか、思わず、特に不思議にも思わなかったんですね。

ですが、自分自身が空(くう)の体験をして、「虚無」って実は、「空」のことだって、気がついたんですね。

で、それから虚無と空の違いを調べてみたら、虚無と空の区別をする明確な定義はなくて、虚無とは、空を表す言葉の一つらしいんですね。

実際映画の中で、ディカプリオと彼の奥さんは、意識が目覚めた状態で、虚無に入っていって、そこに街を創った(創造した)と言っています。

わたしたちが空を経験する時は、普通は、眠ってしまってしまっています。

が、目覚めた状態で空を体験する時、なにもない無から、有が創造されるのを
体験します。

この映画も、まさにそうなんですね。

つまり、この映画に登場する虚無とは、空をあらわしているんですね。

ということは、渡辺健が入っていった場所は、すべての創造の場ってことになりますよね。

じゃあ、本来は、孤独に老いていく、辛い場所ではないはず。

でも、映画で渡辺健は、
孤独に老いています。

いったい何故?

わたし、5回目に映画に言った際、この謎を解きたくて、行ってきました(笑)。

で、5回目にしてやっと、「あ!なるほど!」、「こういうことだったのか!」って、超、超、感動!

この謎、ぜひ実際にご覧になって、ご自身で解いてみてください。

ヒントは、2回同じ台詞が出る場面が、何度かあること。

それと何度か出てくる「アドリブ」って言葉です。

で、ラストシーンも、実は単に、どちらか分からないってオチじゃなくて、まさにこれからのわたしたちへの深遠なメッセージを伝えてくれています。



前回のブログ記事で、「間合い」という切り口から、人間関係において非常に「不愉快」な感情を持ったということを書きました。

今回の記事は、その続きです。

それで昨日、いいようのない「不愉快さ」をある方に感じたのですが、以前の私であればそれを無理やり抑え込んだり、若しくは直接その相手に自分の感情をそのままフィードバックしていたりしたのですが、今回は別のことをしてみました。

今回は、自分の感じた不快感(むしろ、怒りと表現したほうがいいかもしれません)をそのまま涌き出るままにし、それを客観視することをしてみました。すると、いつの間にかその不快感は、泡のように消えてなくなっていました。

これって、結構不思議な感覚でした。
あ~、これが「手放す」ってことなんだ~って感じです。

そして、またそれから後の話が実はあります。

私がこの「不愉快さ」を感じたのは、ある方のブログを読んでそう感じたのですが、その「不快感」が泡のように消えてなくなった後にもう一度その方のブログ記事を読んだらどうなるんだろう?っと思って、もう一度そのブログ記事を読んでみました。

そうすると、また一番最初に感じた怒りに近い「不快感」がマグマのように湧き上がって来たのです。
「ありゃ、この不快感って、さっき手放したんじゃないの?」と感じつつ、またその「不快感」を客観視していると、また泡のように消えてなくなるのです。

なんか「面白い!」と思って、もう一度その方のブログ記事を読んでみました。するとまた同じような感じで「不快感」が湧き上がり、また泡のように消えてなくなりました。

ここから何を感じたかというと、今回の「不快感」の繰り返しと同じように普段の生活でも、同じようなパターンを繰り返していることはないのかな?ってことです。
この点について、次回のブログ記事に書いてみたいと思います。

それでは、ごきげんよっ~
私は、剣道・居合をやっていました。

その時に痛感したのが、「間合い」の重要性です。

翻って、日常生活における人間関係においても、この「間合い」の重要性を感じる今日この頃です。

絶妙な間合い(遠からず、近すぎず)で、人間関係を続ければ、双方にとって有意義な時空を共有することができると私は感じています。。

しかしながら、人間関係の「間合い」を間違えると、一方にとって、非常に「不愉快」な状況になってしまうこともあります。

そして、私はいまとても「不愉快」な気持ちでいます。(剣をもっている場面であれば、相手を一刀両断にしているくらいです。。。)

以前であれば、その感情を無理矢理抑えていましたが、今は感情が涌き上がるそのままの状態にしつつ、ただその状態を観察している自分がいます。

本日は、単なる独り言でしたm(__)m


「モチベーション(やる気)」というのは、なんなんだろうか?ということを今日は考えてみました。

私の場合、「モチベーション」は、自我ちゃん(=エゴ)のご機嫌に左右され、常に変動し、それに振り回されてきたように思います。

ここで子どもが砂場で砂遊びをするときのことを考えてみました。
遊び始める前に「さーて、僕はこれから砂遊びをするぞ!そのために気合を入れて、有意義に遊べるようにしよう・・・」と考えてから遊び始め子どもは、皆無でしょう。おそらく、瞬間的に体が動いて砂場に直行するのが普通だと思います。
そうだとすると、子どもは「本来の自分」から発せられる衝動で動いているのではないかと。。。

だとすると、意図的に「モチベーション(やる気)」をコントロールすることは、ナンセンスなのではないか?と最近気付きました。

ただ私の場合、「モチベーション」をコントロールしないと、「寝ていたい」、「酒を飲んでいたい」、「ボーっとしたい」・・・といった感じで、ぐうたらしたいということしか、思い浮かばないのです。。。これって、「本来の自分」から自然と「起こった」ものなのかどうか?

そしてよくよく、考えると「寝ていたい」、「酒を飲んでいたい」、「ボーっとしたい」という欲望も自我ちゃん(=エゴ)から発せられた欲求のような気がしますし、、、

そうすると、「寝ていたい」、「酒を飲んでいたい」、「ボーっとしたい」という衝動は、「本来の自分」の状態から自然と沸き起こるものではないな?、、、ということをツラツラと考えていました。

ということを考えてたら、思考の迷路に迷い込んだようです。。。
本日は、シュリー・ニサルガダッタ・マハリジ氏の言葉を引用いたします。

『探究者とは自分自身を探している人だ』

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「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。

結局、あなたが確信できる唯一の事実とは

あなたは在るということだけだ

「私は在る」は確かだ

「私はこれだ」は確かではない

真実のあなたとは何なのか

それを見いだすために努めなさい

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それでは、次回も続きます。
ごきげんよ~!!!



最近、二日に一本の割合で映画を観ています。

映画で、仮想体験をすることによって何らかの「気付き」があるのでは?というスケベ心で観ています。

今後、観た映画の感想を自分自身の備忘と何らか皆様のお役に立てるのでは?という目論見で書いて行きたいと思います。

第1回目は、
「バブルへGO!!タイムマシンはドラム式」です。

この映画は、バブル崩壊を食い止めるために現在からバブル絶頂の1990年代前半にタイムマシンで遡るというストーリーです。

観る前は、全然期待をしていなかったのですが、なかなか面白かったです。

特に現在、40歳以上の方で、青春時代がバブルの真っ最中だった方は、当時の東京の状況が本当にそのまま再現されています。

あ~、そんなこともあったなーという感じで懐かしかったのが、タクシーがなかなか拾えないので、タクシーを止めるためだけに1万円札をヒラヒラさせる場面が、今じゃ絶対にない光景ですが、当時は普通の光景だったなーと思い出されました。

観る前は全くのおちゃらけた映画なんだろうなーと思って観ましたが、バブルはアメリカ等に日本を売り渡すために計られたのかもしれない?という部分は、的を得ているかもしれません。

また、最後の方の記者会見の阿部寛のコメントは、「確かにそうだよな~」という感じでした。

40歳以上の方、必見です。どうぞ、ご覧くださいーい!!!

それでは、ごきげんよ~




本日は、約10年前に居合の師匠にいただいた資料をそのまま皆様にご覧いただきたいと思います。
資料をいただいた時には、「ふ~ん・・・」という感じで、私は受け止めたという覚えがあります。その資料を今読み返してみると「!!!」って感じです。

「その時」がこないと人間は、「読んでいないし、聞いていないし、見ていないし、わかっていない。」ということをあらためて痛感しました。

そして、この資料を理解できたことに感謝するとともに師匠とは、ありがたいものなのだな~と感じております。(現在、居合の師匠とは交流が途絶えておりますが・・・)

それでは、ちょっと長い文章ですが、ご覧ください!

      ↓
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巌 喚 主 人( がんかんしゅじん ) 
            
【 無 門 関・第 十二 則 】           
            (瑞巌和尚は、毎日自ら主人公と呼び、また自ら応諾した。)      

 瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答えていた。そして「はっきり覚めているか」と問い、「はい、覚めています」と答えるのであった。「いつ、どんな時でも、他人に瞞(だま)されるな」と言い、「はい大丈夫」と答えた。

  瑞巌禅師は、巌頭(がんとう)禅師の法嗣(ほっす/法を継ぐ者)である。時代としては唐の時代であり、晩年の趙州禅師と同じ時代に活躍している。この「巌喚主人」の公案は透徹した揺るぎない禅的境涯を示している。

瑞巌禅師は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答えていた。一体何のことであろう。さらに、「はっきりと覚めているか」とは、何を指しているのであろう。
その「主人公」とは、趙州禅師の言う「無」のことであり、無門禅師の言う「内外打成の一片」のことであり、倶胝禅師の示した「一指」のこととわかるであろうか。
 この、「主人公」とは、絶対主体のことなのである。これは、唯心・根本主体ともいう。あるいは、六祖・慧能はこれを「本来の面目」と言っている。さらに、臨済宗の開祖・臨済義玄は、これを「無位の真人」と呼んでいる。これらは、全て同じ一つの真理を指している。
「主人公」と呼びかけて、次に「はい」と自分で答える。「無」の中では、主体と客体の区別などない。「はっきり覚めているか」という問い返しも、同じ「唯一不可分の全体」の中で言っている。「唯一不可分の全体」は、切り裂くことも、分割することも、部分を作ることもできない。つまり、不可分ならば、主体もなく客体もない。現象とは「無」であり、「一指」であるということである。そして、現象とはこのようなものだと知り、それを実践して行くのが禅の道なのである。
  現象には切れ目がない。おわかりか…・・

この瑞巌禅師の公案、「無」に成りきっているか、「内外打成一片」と成りきっているか、と自己の覚醒を確かめている。
 
無門の評語
 老瑞巌は自ら売り、自ら買う。たくさんの鬼、化物の面をもてあそんでいるが、いったいこれは何故か。ニイ(意味を強める感投詞)。呼ぶもの、答えるもの、はっきりと覚めているもの、他人にだまされないもの。これらさまざまな相をほんとうに存在するものと思い込むならば、それはとんでもない誤りだ。だがもしまた、瑞巌をまねるならば、それは野狐の見解である。

 この評語で、無門禅師は瑞巌の言っていることを「鬼」・「化物」と、こっぴどくこき下ろしている。しかし、その真意はまさに絶賛なのである。さらに無門禅師は、
 「これらさまざまな相をほんとうに存在するものと思い込むならば、それはとんでもない誤りだ。」と言っている。これらすべての鬼は、「内外打成一片」の内にあり、まさに一つのもの。そして無門禅師は最後に、ただむやみに瑞巌和尚のものまねをするのは、許さないと戒める。真似るのではなく、自ら学ばなければ、野狐の禅になってしまうというのだ。野狐禅とは、とんでもない間違った、実体験のない物知り顔の禅修業という意味である。

無門の頌 (じゅ)

求道の人が真に目覚めぬのは、
旧来の分別意識にとらわれるためである。
これは果てしない生死輪廻(りんね)のもとである。
だが愚かな人々はこれを本来の人と思い込む。
( 長沙禅師の作った詩。無門禅師は公案を評する「頌」として使った。)

 なかなか、旧来の分別意識を捨てきれない。そして、それゆえに、「真」に目覚めることが出来ずにいる。
 愚かな人々は、旧来の分別意識に座標軸を置き、そこから「真」を求めている。それゆえに、「真」に目覚めることが出来ない。禅で繰り返し示しているのは、旧来の分別意識の「座標軸」そのものを捨てよと言っているのである。知らず知らずのうちに、「識神」( 阿頼耶識《(あらやしき)人間の分別意識の源 》 こそが自己の根源だと思い、それが捨てきれないのである。その「自己」こそが、まさに邪魔物。その「自己を捨てた時」、悟りはおのずとそこに輝く。「悟り」とは、理解するのもではなく、「真」に目覚める(はっと気がつく)ということによって、生ずるものなのである。 

 道元禅師は、    
  仏道を学ぶということは、自己を学ぶことである。自己を学ぶということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、総てのものごとが、自然に明らかになることである。
と述べている。                   ( “正法眼蔵”/現成公案より ) 

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