my picture town

my picture town

...きまぐれにっき

Amebaでブログを始めよう!

自分の恋愛能力が中二すぎて泣ける。

自分の胸が小2すぎて死ねる。

恋愛ってなんでみんなそんなしたがるの。

「恋した瞬間から付き合うまでが一番楽しいんだよ」

とかリア充の友達が言ってたけど、

今日、たぶんそうだと思うんだけど、好きになったんだよね。

でもその瞬間、おなか痛くなってトイレ駆け込んだし。

OPPでしたよ。

こーいう気持ち、たぶん4年ぶり。

こーいう感じ、落ち着かないから好きじゃない。

おなか痛くなって、トイレ行きたくなるんだよ。

今だって、おなかぎゅるぎゅるいってんだよ!

4年間、ホント穏やかだったのに。

2次元の中でぬくぬくしてたのに!

考える事はアニメのことばっかりだったのに。

今日、仕事中とか帰り道とか風呂入ってる時とか今とか、

ずっとその人のこと考えてて、もう全然落ち着かない。

明日、なんて話そうとか、どんな服着て行こうとか。。

中学生か!!

嫌になる。自分が。

この歳になると、妄想することが「もし付き合ったらどんなかなー」じゃなくて、

「どんなふうにフラれるかなー」ていう妄想をし、すごくへこむ。

例)
昔から付き合っている幼なじみの彼女がいる(←失恋の鉄板。勝ち目なし)

仕事仲間としか見れない。(←女子力を磨いてこなかったツケですね。)

やっぱりおっぱいは大きいほうがいい(←私に成長期をもう一度。)

実はゲイ(←いろんな意味でおいしい。)


はーー嫌になる。鬱だよ鬱!

いつもだったらこの時間は深夜アニメを見てウヘヘて楽しんでるのに!

こんな中二みたいな恋愛難民ブログを書いてるとは。。

まだなんにも始まっていないのに、すでに面倒になっているんだから、

恋愛したらもっと面倒なんだろう。

あーやだやだ。

まだ何もしてないのに、もう嫌だ。


でも、ちょっと待て。

冷静になったら、本当に好きなのか?

最初は「将来の夢とかやりたいことを持っている人ってステキー」と思ったけど、

実はちょっと優しくされたからじゃね。

「ほら、私って男に優しくされるとすぐ好きになっちゃう子じゃん」

『でも恋に落ちる瞬間ってそんなものだよ』

と、誰だか知らない私の中の人がせめぎあっています。

確かに今までも何回かちょっと優しくされて好きになっちゃうけど、

何もアクションを起こさず、好きだったの忘れるパターンあったしな。

そうやって傷つかないように、恋愛しないようにしてきたのかもね。

でも仕方がないんです。

私、こーいう性格だから。

画面の向こう側には飛び出せない、待つしかできない2次元女子だから。

自分の中の恋とかトキメキ消滅させるの、慣れちゃったんです。

ほら、なんか文章書いてたら、ちょっと落ち着いてきて、

実は好きじゃないと言い聞かせてる。

一瞬なんですよ。輝きは。輝きのタクトなんですよ。

そこでもっと輝きたいと思わない私がいるのは、認めますよ。

はいはい、傷つくの怖いんですよ。

今日だって、久々に恋しちゃってどうしよーって電車の中で泣きそうになって、

まじおまえ中学生以下のレベルだな!幼稚園児か!アホ!!

『そこは、ピュアだと言ってほしい』

誰だよおまえ。

もういいよ。

このブログに終わりはないよ。

自分の中にいる、いろんな自分が言いたいこと言ってるだけだから。

こういやって吐き出して落ち着かせてるだけだから。

不器用な私はこうやって自分を見つめることしかできないのです。

あなたにとって、どうでもいいよね。

私にとっても、どうだっていいわ。




最近、視野が狭くなってきたと思うのです。

いや、もともと視野は狭かったのかもしれない。

それ以上に、もっとぐっと視野が狭くなったような気がする。

大学の時のほうが、いろいろなことを考えて、

いろいろな意見を持っていたような。

でも社会人になったら、逆に、社会で起きている出来事も、

身近に起きている出来事さえも、

どうでもいいというか、考える事をしなくなった。

人と会っても、会社の愚痴とか、休日何をしているとか、恋愛の話とか、

どうでもいい話、とは言わないけど、昔自分が、

「こんな話をしていて何の答えが見つかるのだろう」と思っていたことを

自分も話すようになっている。

私は、前の会社で働いている人たちを

なんてかわいそうな人たちなんだろう、と思っていた。

こんな息苦しい組織の中で、上司の目をいつも気にして、

数字と金に支配された世界で、何を目指して生きているのだろう、と思っていた。

それは人生を無駄にしていると思っていた。

もっと楽しく生きることできるのにって思ってた。

本当につい最近までずっとそう思っていた。

でも、そういう生き方もある。

その人の生き方に、私が間違っているとか、言う権利はない。

楽しくないとか言う権利はない。

仕事に追われて、自分が本当にやりたいこともわからず、

そもそも自分がやりたいことなんてないのだから考えることもせず、

つかの間の休息にたわいもない話を家族や恋人や友人と共有し、

時間だけが経って行く。

そういう生き方もある。

実際に、少し前まで自分はそういう生き方をしていた。

いや、もしかしたら今だってそんなに変わらないのかもしれない。

妥協する生き方。折り合いをつける生き方。

ただ私は、今後、そういう生き方をする予定はない。

今のところ。

受け入れるけど、自分は選ばない。

それでいいと思えるようになった。

「人間」の良いところは、選ぶ権利があることだと思う。

選ぶ権利もない境遇で生活しているという人もいるかもしれないが、

そういう人でも選ぶ権利は絶対にある。

選択肢があることを知らないだけだ。

選択肢はいつでもどこでも私の前に現れる。

ただ、視野が狭いと、その選ぶ権利に気付くことさえできない。

でも、選ぶ権利に気付かないで生きるのも、やっぱりその人の人生だから、

私が「視野を広く持てよ」なんて言うのは間違っているのかもしれない。

うん、矛盾だらけだ。

矛盾と葛藤。

なんか小説のタイトルみたいなんだけど、

私はそれがついて回る人生のほうがおもしろいと思う。

矛盾と葛藤の中で、納得がいくまで、生きてみる。

納得いかずに終わっても、それが私の人生だと、選んだのは私だと。

とりあえず、受け入れることができたので、

少しは成長したかな。

2年くらいかかったけど。

なんか、なかなか書きたいことが終わらないので、

強制終了!

おやすみなさい!






最近、いろいろなことを思い出す。

前の会社のこととか。

大学時代の好きな人のこととか。

高校時代の部活のこととか。

良い思い出も悪い思い出も思い出す。

あのとき、こうしていれば違っていたのか、とか、

あのとき、こんなこと言えばよかったのか、とか、

なんでそんなことを思うのかはわからないけど、

気付くとそういうことを考えている。

卒業シーズンだからか。

世間的に節目だからか。

気候があたたかくなってきたからか。

人恋しくなる季節なのか。

これから自分がどんな道に進んで行くかはわからない。

今は本当に、どうなるかの境にいると思う。

つかの間の休息。。いや休息ではないか。

休むな、HTMLもっとべんきょーしろよ!

定義型リスト全然理解していないよ!

てかぶっちゃけ、nameとかidとかいらないんじゃね!

まあそれは明日からべんきょーするとして。

よく「学生時代に戻りたい」という人がいるけれど、

それはそれでいいと思うけど、

私はなぜか卒業してから今まで一度もそう思った事がない。

就職して全然たのしくもおもしろくもないピンポン営業の仕事をして、

まさにストレス社会、いや会社にいたけれど、

それでも学生時代に戻りたいとは思わなかった。

学生時代が暗くて孤独で楽しくなかったわけではない。

むしろ、いろんな人との出会いがあって、毎日が充実していて、

思い返せば、自分輝いてたな!みたいな学生時代だった。

でもそこに戻りたいと思わなかったのは、

やはり自分の中で次の目標みたいなものがぼんやりとあったからで、

それが「何か」ははっきりとはしないけど、

今、その目標にどんなルートで近づいているのかも実は曖昧だったりするけど、

前に進むことのほうが楽しいと思ったからだろう。

それがどんなに不安定で、ぼんやりとしていたとしても。

進むことに意味がある。

なんかとても積極的な文章になった。

自己啓発本みたいだ。

自己啓発本読んだ事ないから、わかんないけど。


データ整理してたら、最初の頃に練習で描いた絵が出てきた。
なんと白猫が。予知絵!








新年、あけましておめでとうございます。

昨年はいろいろありましたね。

振り返ると、なんかものすごくいろいろありましたね。

世間で起こった事は、まあニュースとか新聞記事で思い出してください。

自分に起こったことだけでいうと、必要な一年だったと思います。

決して、人生において貴重な良い経験だったとは言いません。

そこまで過去を美化する気はありません。

ただ、必要だったと。それだけです。

今年もきっといろいろなことが待っているでしょう。

悪いことも良いことも全部ひっくるめて、一年終わったときに、

昨年ありがとう、今年もあけましておめでとう、と言える年にしたいですね。



ようやく、『A3』を読み終わった。

私、読書は家でできないみたいです。

よくわからないんだけど、家で集中できないらしい。

かるく『A3』の詳細書いておくと、
森達也さんの著書です。
オウムのこと書いてあります。
『A3』の前には『A』『A2』という映画があります。
これ以上は説明が長くなるので、もっと知りたい方は自分で調べてください。

そしてこれから書くことは、単なる読書感想文みたいなもんです。

私のオウムの印象は、まず麻原彰晃という不気味な教祖の存在と、地下鉄サリン事件を起こしたキチガイ宗教団体ということでした。

地下鉄サリン事件が起こったとき、私は確か小学生くらいで、

麻原彰晃に似た髪型をしていた人に会うと、「麻原しょーこーだ!」と言っていたのを覚えています。

そんな印象で『A』を見たとき、最初何かとても受け入れ難いものを感じました。

信者たちの日常生活を見て、嫌悪感が出てきました。

たぶん、初めてちゃんと自分が想像していたキチガイ宗教団体の人や生活を見たからです。

最初は今まで自分の中にあったオウムに対する想像の嫌悪感が拭えなかった。

でも見ているうちに、想像していたオウムと何か違う。いや全然違う。

映っている信者たちは、ご飯を食べ、笑い、ときには腹をたて、悩む。

私が思っている以上に、彼らは普通だった。

昨年大晦日に、指名手配中の元信者が出頭したことで、新聞やテレビでは、オウム事件の新たな事実が明らかになるのでは、とありました。

オウムは何を言っても事実を話さないから新事実なんて期待しないという人もいます。

ところで、そもそも事実とは何か。

私は、A、A2、A3を見て思います。

オウムが犯した事件とは何か。

今まで社会はオウムの一連の事件から本当に、事実を拾ってきたのか、と。

なぜオウムがあんなに凶悪な犯行に至ったのか、実行した本人たちだって本当はわかっていないのではないか。

その事実を拾うことを、社会のほうからやめました。

誰ともなく、みんなでやめました。

凶悪な暴走信者による史上最悪のテロ事件として、元信者は全員打ち首もしくは村八分。

そんな社会が事実を話せとか、包み隠さず白状しろとか言えるのでしょうか。

12月に金正日氏が亡くなりました。

情報操作されたメディアから流れる"事実"をほとんどの北朝鮮の国民は信じているそうです。

日本人はそれを見て、北朝鮮の人ってかわいそうだと思います。

日本は独裁者もいないし、言論の自由もあって、『自由』が確立されているから。

でもそれは本当だろうか。テレビや新聞から入ってくる情報を鵜呑みにしているのは日本人も同じでしょう。

自由が確立されているからこそ、その情報に疑問を持たない。

私たちの国には独裁者はいません。そのかわり経済とお金という支配があります。

テレビ局も新聞社も企業。言論の自由なんてお金の前では空気同然。

みんなが見たくなるものを作って利益を上げなければいけない。

みんなが作り上げたオウムの像をもっと大きくしなければいけない。

そうして出来上がったオウムの像は、絵に描いたようなキチガイ凶悪宗教団体になりました。

そんな人たちが犯罪を犯すのは当然であるように。

でも、A、A2、A3を通して、私には信者たちが凶悪な人々には見えなかった。

とても普通の人たちに見えた。普通よりもっと、むしろ純粋に見えた。

実際に会ったわけでもないし、話したわけでもない。全員が全員、そうではないかもしれない。

でも映し出される彼らは、社会から作り出された人物と全く違った。

だからオウムは良い団体とか、実行犯の減刑を望んでいるわけではない。

本書にも書いてあった通り、良い人も罪を犯す。

世俗との関わり合いを捨て出家し、穏やかに生きたいと願った人でさえ、

罪を犯す。

私たちは考える必要がある。オウムがなぜあんな事件を犯したのか。

A3の最後のほうに、中川受刑者のことが書いてある。

簡単に書くと、彼は医大を出て、医者をしていたが、ある癌患者の最期に衝撃を受け、オウムに入信した。
当時の病院の同僚は中川受刑者のことを、「犯罪をするような人には全く見えなかった」というが「悩んでいるようだった」と言っている。

私は、なぜ癌患者の死期を見て、オウムに入ろうと思ったのか、がわからない。

その時、彼を救うものが麻原彰晃もしくは信仰宗教しかなかったのだとしたら、

なぜかとても寂しく感じるのは私だけだろうか。

宗教に頼るなとか、言いたいわけではなくて、

彼が悩んでいる時、それしか支えるものがなかったとしたら、それはとても寂しい。

今、社会には、支えてくれるものが少ない人がたくさんいるのではないか。

それを寂しいと思わない人がたくさんいるのではないか。

そして、自分の周りに何もないと気付いたとき、藁をもつかむ思いで、何かにすがりたいと強く願うのではないか。

A、A2、A3には、なぜオウムが一連の事件を起こしたのか、その事実は書かれていない。

当然、その事実は誰も知り得ないからだ。

だからこそ、私はどんなに無知でも、言葉が足りなくても、考えることは必要だと思う。

読書感想文以上。