

僕の母親
母親は昭和56年に黄泉の世界へ旅立った。享年70才。僕の好きな井上陽水に「人生が二度あれば」という歌がある。あの独特の声で陽水がこの歌を歌うと父や母の事を思い出し、涙がこぼれそうになる。2番の歌詞をここに書き留めよう。
母は今年九月で六四
子どもだけのために年とった
母の細い手
つけもの石を持ち上げている
そんな母を見ていると 人生が
だれのためにあるのか分からない
子どもを育て
家族のために年老いた母
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
母親の思い出と言えば、山で芝刈り、農作業など働いている姿、夜なべで繕いを祖母としている姿、味噌造り、醤油造り、甘酒造り、お茶作り、渋柿の皮むき、祭りの時期の鯖寿司作り、彼岸のおはぎ作りとその時々の行事に併せていろいろな物を作ってくれた。もちろん三度三度のご飯作りとゆっくり休んでいる姿を見たことがなかった。
このおかげで二四節季を母や祖母の姿と重なり思い出すことができ、思い出豊かな少年時代を送ることができた。母親は学問がなかったが、生活の知恵はすごかった。その当時、ご飯はかまどで炊いていた。最初、柴や薪に燃え移すのがなかなか苦労である。最初に使うのは、杉の木の枯れ枝である。このため、杉の木の枯れ枝(杉柴といった)が必要であった。風の吹いた後に杉山に行き、集めてくるのが子供の役目であった。最初その杉柴に火を付け、その上に置いている柴や薪に燃え移らせるのである。ある時、僕が母親の代わりにかまどに火を付けようと吹き竹でフーフー吹き、一生懸命風を送り、薪に火を付けようとしたが、なかなかつかないのを側で見ていた母親は、「明久、お前は学校で何を習っているの。ちゃんと空気がまわるように杉柴の上に薪をおかんとあかんやないの。」とアドバイスした。僕は薪をいっぱい詰め込んでいたのだ。この言葉は母親を思い出す度に突いて出てくる。
母親についてよく、山に行った。薪は父親の仕事であったが、柴については母親が小さな枝をうまく適当な長さにナタで切って束ねていた。見ていると楽そうであったが、やってみるとすぐ腕が痛くなった。その柴を適当な大きさに束ね、背負って急な山道を降り、家に運んだ。畑で野菜をつくるのも母親の仕事であった。そして、春は山菜採りに朝早くから出かけ、ぜんまい、わらび、山ぶきなどを、どんごろす(大きな袋)いっぱい採ってきた。その当時、我が家は瓦葺きであったが、茅葺き屋根家が多かった。そのための大きな茅を育っている部落共同の山があった。そこが山菜の宝庫であった。その山も荒れ果てて山菜も採れないということであった。
生まれ育った上湯川にも山越えで良く帰っていた。二月頃、上湯川から清水に帰って来る時は、途中の池に卵を産みに集まった山に住んでいる大きな蛙をたくさん捕まえて「どんごろす」という麻の袋に入れて帰って来た。それを焼くと雀のようなコーバシイ味がしてとても旨かった。まむしの皮を剥き、天日でカラカラに乾かし、薬研(やげん)で粉にして蜂蜜とすりつぶした黒ごまを混ぜ、練ったものに滋養があると言ってよく作って食べさせくれた。長兄の結核が治ったのは、この練りものと鶏1羽の内蔵を取り、空になった腹に餅米やニンニクを詰め込んで一昼夜煮込んだスープのおかげだとも言っていた。黒ごまのねりものは、日本蜂蜜の味でマムシの臭いも気にならなく、練りお菓子のようにおいしかった。
自分のために時間を費やすことのない母に「おかちゃんは何の楽しみのために生きているの?」と聞くと笑いながら「子供が成長しているのを見ているだけでおかちゃんは今でも十分幸せだよ。夢と言えばお前らが結婚して孫の守りしにあちこち行くことかな。」と言った。好き勝手にしている父親に不満を言うこともなかった。
50才を過ぎるころ母親が変調を来した。よく前つめりになり、倒れるようになった。歳のせいにしていたが、だんだん歩幅も小さくなってきたので、病院で検査してもらうと「パーキンソン」という難病に犯されていたのだ。病気は徐々に進行し、ついには寝たきりになった。発病して約15年間、病と闘うことになり、「孫の守りをしたい。」というささやかな望みも叶うことなく生涯を終えた。揚水の歌が身に滲み、哀しみとともに、心にこだまする。
母の死後、何人かの人々にお母さんから優しい声をかけられ、子供の頃、時にはお菓子ももらった、と言う人に何人かに出会った。母親は周りの人の心に残る人だったことを知った。
写真は娘時代の母親と姉。向かって右側が母である。池田に養女として入ったが、大事に育てられた事が分かる。
もう一つの写真は昭和40年代の母親。死ぬまで顔の形は余り変わらなかった。優しく芯の強い女性であった。