晩夏の東北の美味し食材を地酒で堪能した後は、仙台市の奥にあるニッカウヰスキー、仙台宮城峡蒸留所を訪ねます。

この蒸留所は日本のウイスキーの父、竹鶴正孝により1969年に操業が始まったニッカウヰスキー第2の蒸留所です。

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ニッカウヰスキー第1の蒸留所は北海道・余市蒸留所。

竹鶴は日本国内に異なる風土気候を持つ場所に2つの蒸留所を造り、異なる個性のモルト原酒を合わせたブレンデットウイスキーを造るのが目標だった様です。酒ってのは作られた土地の自然環境が多いに影響するものの様です。

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海っ際の吹きっさらしの荒々しい北の土地で作られたモルト「余市」と2つの川に挟まれ、周りを原生林で囲まれた湿潤な環境で作られた繊細なモルト「宮城峡」をブレンドして作られたブレンデットウイスキーが「竹鶴」となり彼の夢は結実されて、我々酒飲みを多いに楽しませてくれて居ます。

竹鶴正孝と言う人物は、アポも殆ど取らずに単身英国に渡り、押し掛け女房もかくやと言う図々しさ(失礼)で英国のウイスキー作りを学び、それを日本の土地へ持ち帰り(英国人の嫁も同時に持ち帰り)忠実にウイスキー作りを始めた偉人です。

私は残念ながら余市蒸留所は訪れる機会がまだ有りませんが、この宮城峡蒸留所は2回目になります。

約50年前、竹鶴正孝はこの土地に蒸留所を造るにあたり指示した事は4つ。

「建物は赤レンガで造りなさい」

「電線は地下に埋没させなさい」

「元からある木はなるべく伐採せずに残しなさい」

「傾斜のある地形もこのまま生かしなさい」

ホリ○モンならこの逆行くかな(笑)

その土地の形が、そのまんまお酒の個性になる、人間はお酒を作る時に、少しだけお酒に言う事を聞いて貰うだけ。

極めて東洋的、日本的自然観を竹鶴の建築指示から感じざるを得ません。

しかしバリバリの帝国覇権国家であった当時の英国であっても、日々ウイスキー作りに関わる人達は、こんな自然観を持ってウイスキーを作って居た事でしょう。

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今日作ったものの真価が分かるのは最低でも数年後。ひと区切り10年。

ウイスキービジネスとは何ともロマンがある商売だと思います。