スゴく怪しい空模様の中、順調に東北自動車道を進み、仙台宮城インターを降りて、R48に乗り宮城峡蒸留所へ。
「日本のウイスキーの父」竹鶴政孝が1918年単身スコットランドに渡り、スコッチの技術を取得、ついでに美人の妻・リタまで日本に持って帰り、1934年、最初に蒸留所を造ったのが北海道にある余市蒸留所。
仙台にあるニッカウヰスキー第二の蒸留所・宮城峡は1969年に始動しました。
森と美しい川に囲まれた環境に宮城峡蒸留所は在ります。そこに立ってるだけで心の澱が抜けて行く様な、清い空気が漂っております。
しかしウイスキー造りちゅーのは、馬鹿でロマンチストじゃないと無理ですね。
だって今日、造ったもんを、売るのはまあ10年後ですよ。
小賢しく、角っ口してるマニアには、その10年ですら「若いね」なんて云われますからね。
通常、食品で10年も20年も前のモンを、口にしませんやね。それがどうだ、ウイスキーの世界はトチ狂ってます。
今から10年、何かひとつ物事に打ち込んだら、まあまあ形になるんじゃないですか人間。
三ヶ月後には成果を出す、なんて仕事とは時間の流れが違いますよ…ウイスキーはスゴい。
だから余市蒸留所も、最初は売るウイスキーが無いから、ウイスキーの熟成を待つ何年か、リンゴジュース造って居たそうです。
で、リンゴジュース造って売って居た時の会社の名前が「大日本果汁株式会社」それが「ニッカ」と言う現在の会社名の元だそうです。
東京ドーム4個分の広さの中に、仕込み水を貯めた池が在り、コブハクチョウとヤマメが泳いで居ました。
竹鶴政孝と言う、ウイスキーど阿呆甲子園優勝者が居てくれたからこそ、世界に誇れる日本のウイスキーが、今此処にあるんですね~。
その夜は、Barで「竹鶴21年」を頂きました。
たまらん。
「日本のウイスキーの父」竹鶴政孝が1918年単身スコットランドに渡り、スコッチの技術を取得、ついでに美人の妻・リタまで日本に持って帰り、1934年、最初に蒸留所を造ったのが北海道にある余市蒸留所。
仙台にあるニッカウヰスキー第二の蒸留所・宮城峡は1969年に始動しました。
森と美しい川に囲まれた環境に宮城峡蒸留所は在ります。そこに立ってるだけで心の澱が抜けて行く様な、清い空気が漂っております。
しかしウイスキー造りちゅーのは、馬鹿でロマンチストじゃないと無理ですね。
だって今日、造ったもんを、売るのはまあ10年後ですよ。
小賢しく、角っ口してるマニアには、その10年ですら「若いね」なんて云われますからね。
通常、食品で10年も20年も前のモンを、口にしませんやね。それがどうだ、ウイスキーの世界はトチ狂ってます。
今から10年、何かひとつ物事に打ち込んだら、まあまあ形になるんじゃないですか人間。
三ヶ月後には成果を出す、なんて仕事とは時間の流れが違いますよ…ウイスキーはスゴい。
だから余市蒸留所も、最初は売るウイスキーが無いから、ウイスキーの熟成を待つ何年か、リンゴジュース造って居たそうです。
で、リンゴジュース造って売って居た時の会社の名前が「大日本果汁株式会社」それが「ニッカ」と言う現在の会社名の元だそうです。
東京ドーム4個分の広さの中に、仕込み水を貯めた池が在り、コブハクチョウとヤマメが泳いで居ました。
竹鶴政孝と言う、ウイスキーど阿呆甲子園優勝者が居てくれたからこそ、世界に誇れる日本のウイスキーが、今此処にあるんですね~。
その夜は、Barで「竹鶴21年」を頂きました。
たまらん。