若い頃に悩み考えたことの一つに「私が求める人生の妙味が他人と違いすぎて周囲と話が合わない」というものがありました。
私が求めているのは「素晴らしさ」なのですが、周囲の同世代の若い人たちが求めているのは「楽しさ(享楽)」や「オイシさ」に限られているように思えてなりませんでした。私も楽しいことは否定しないですが、それだけではもの足りません。
これは味覚に例えると「美味」に対する「甘味」や「うま味」の関係に似ています。
味覚は、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つからなりますが、私がその組み合わせからなる美味を求めているのに対して、周囲の若い人たちは甘味かうま味のいずれかにしか興味がないようでした。言い換えれば、彼らは酸味、塩味、苦味に興味がないように思えてなりませんでした。
例えば、ある若い子が「勉強はしたがらないのに、テレビゲームなら何時間でもやりたがる」のなどが、その典型例です。
私は彼らの「面白いことなら何でもやります。いくらでもやります」「面白いことのためなら嫌なことも厭いません。嫌なことにも積極的に取り組みます」という考え方に馴染めなかった。
ある子どもは言います。
「あのおもちゃを買ってくれないのなら勉強しないぞ。」
ある青年は言います。
「私は将来いい思いがしたいから高学歴が欲しい。そのためなら喜んで猛勉強します。」
私は悟りました。
「それは違う。
要するにあなたたちは『人生の甘党』であって、人生の深い妙味がわかっていないのだ。」
ある知人は、私が何か変わったことをしていると、こう聞いてきました。
「それの何が楽しいの?」
「それの何がオイシいの?」
そう聞かれるたびに、私は辟易して、逆にこう聞きたくなった。
「あなたの人生の妙味はそれしかないのか?
あなたの妙味から甘味とうま味を差し引くと何が残るのか?」と。
(続く)