私の夢について以前にも何度か書いたのだが、数年前で話が止まっていたのでアップデートも兼ねて書き直そうと思う。


私には夢が2つあった。

1つは世の中の役に立つ発明をして、特許を取得することだった。

私の父は工業高校の出身で、祖父は戦前に呉の工廠で働いた。戦艦大和などを作っていたようだ。

で、私が10歳ぐらいだったか、父とお風呂に入っていると父が若い頃に特許申請をした話をしてくれた。石油タンカーが水没した際に石油を回収する発明だったようだ。祖父の影響だったのだろうか。私はそれを聞いて夢を膨らませた。その後、私は大学時代に2件ほど特許申請をした。しかし特許申請というのは申請自体は一万円台でできるのだが、その後の審査請求と管理費にはかなりのお金がかかるのだそうだった。それで、その後は個人での特許申請は控えていた。


大学を出て30歳で転籍した今の会社には特許制度がある。発明をして認められると会社が全額負担して特許申請をしてくれるのだ。その分発明者への賞金額は微々たるものなのだが。


で、30代の初めにある優秀な方のプロジェクトに参加させていていただき、私自身初めて特許申請することになった。要するに役者志望の青年がちょっとした映画のエキストラで出演した程度のものでしかなかったのだけれども、私も発明者の一人として名前を加えていただいた。


特許申請というのは相当の歳月が必要だ。書類作成だけでも何ヶ月もかかり、それが申請されたという連絡を受け取るまでにさらにかかる。そして申請後に審査請求をして特許庁から認められてはじめて特許として成立する。ここまで来るのに数年はかかるのだ。


ところで私には2つの夢があると言った。もう1つの夢は両親、特に母親に恩返しをすることだった。発明であれソフトウエア開発であれ、世の中の役に立つ仕事をして、世間で認められた成果を両親に報告することだった。特に母親は在日韓国人二世で、親戚達も屑鉄回収、土木作業員、工事現場の警備員、タクシー運転手などばかりでいわゆる会社員、オフィスワーカーは一人も聞いたことがなかった。私は幸いにも父系血統主義の時代に日本人の父の元に生まれたので、生まれたときから日本国籍しか持たない実質普通の日本国民だった。そのために就職差別に遭うこともなかった。

兄や私が会社員になったとき、母は「息子が会社員になった」と大喜びしていた。

そんな夢を私がやらなければ誰がやるのだろう。私はこの夢も果たさなければならなかった。故郷に錦を飾るというけれども、そんなことはどうでもよく、私は両親に錦を届けたかった。


特に父が若い頃に夢見たのと同じ特許で結果を出し、それを父と母に届ける。これは私にとっては夢というよりは義だった。夢は諦められるが、義は必ず果たさなければならない。

残念なことは、私の兄以外に自分と同じ立場の人間に出会ったことがない私は心の通う同志に恵まれなかったことだ。私は一人で自分の夢を追いかけていた。同志がいないのであれば、私が一人で一騎当千でやるしかない。


そして私は自分の初めての特許が出願されるのを一日千秋の思いで待っていた。ようやく出願されたという連絡があり、ようやく私はその件を両親に伝えた。両親はよくわからず、ピンときていなかったようだ。特に母は理系に対して無学で特許がなんだか分からず、何度も説明しなければならなかった。


その後しばらくして会社から私が初めて特許出願したことを記念する盾と賞金の20万円が振り込まれた。

私はその賞金の半額の10万円ずつで父と母の両方に贈り物を買った。当初は両親にお揃いの金の指輪を買おうと思っていた。しかし父は指輪などをするような人ではないので、母にだけ銀座のティファニーのブライダルフロアで金の指輪を買った。太い指輪もあったが、小さなゴマ粒ほどのダイアモンドがついた細い金の指輪を購入した。その指輪の定価は当時6万円代ぐらいであり、特許の賞金で買えたが、その後、金相場が上がり、今では同じものが11万円するそうだ。今だったら予算オーバーで買えなかった。父には代わりにダンヒルのベルトを買った。ベルトも指輪と同じ輪なので。


私が母に金の指輪を贈ったのには2つの理由があった。1つは当時母が還暦だった。韓国には日本で還暦に当たる還甲(ファンガプ)があることを私は金笠の詩集に収録された詩「還甲宴(ファンガプヨン)」で知っていた。またバイオリン制作者として知られる陳昌鉉さんが「海峡を渡るバイオリン」の中で、韓国では還甲に母親に金の指輪を贈る習慣があると述べていた。陳さんは私の母方の祖父と同じ慶尚北道の今の金泉市の生まれの人だから少なくとも地方の風習としても間違いないのだろう。


また私の両親が結婚したのはようやく日韓の国交が回復したかどうかの頃で両家の反対が強く、両親は結婚式もできなかった。私は何か結婚祝いをしたいと思っていた。息子が両親に結婚指輪を買うというのも変な話なのだけれども。なお、指輪は薬指ではなく中指のサイズで購入した。母親は父親から薬指に合う指輪を買ってもらえるのを待っているのだと。


私はそれぞれを購入し、それぞれにメッセージカードを添えた。


「お母さん、大切にしてくださいね。」

「お父さん、大切にしてくださいね。」


それから2、3日して母から電話がかかってきた。


「指輪、ありがとうね。

お母さん、涙が出るかと思うたよ。

勿体のうてね。」


それから母はずっとその指輪をしていた。私が贈った金の指輪は護符のように母を守り続けた。


最初の特許申請がなされ、その賞金で両親に贈り物をすることが出来た。これでようやく最低限の夢が実現出来た。

しかし、これはまだ不完全だった。まず、特許申請はなされたが、それが特許として成立していなかった。もしかすれば前例が見つかり、特許としては成立しないで終わる可能性があった。しかも今は受験生が合格発表を待っているような状態で自分で出来ることは何もなかった

また、この最初の特許は先輩の特許に協力させてもらっただけで、自分が主体となって発明をしたわけではなかった。


なおその後この特許は承認され会社から賞金が振り込まれた。大した額ではなかったが、両親にルイヴィトンの財布を買って贈った。


母親は恐縮し首を傾げていた。


「お前の賞金なのだから、お前の好きな財布を買えばいいだろうに。」


それに対して私は何も言わなかった。


(親より高い財布を使う馬鹿な息子がありますか。)


私は夢を確実に叶えるために、次の発明をし特許出願をすることにした。しかし実際には、それがなかなか難しく二の足を踏んでいた。私は焦らず努力を積み重ねることにした。


その後、数年が経ち、ようやく最初の特許が成立した。私はその時点で両親が二人とも生きていてくれたことに感謝した。私は両親に電話をして、特許が成立したことを伝えた。

また、後日会社から特許成立の額縁に収められた賞状が贈られ、賞金が振り込まれたため、再び両親に贈り物を購入して、賞状とともに両親のもとに送った。両親から受け取りの連絡を受けて、私はようやく最低限の夢を必要最低限だが完全な形で成し遂げることが出来た。

父が若い頃に見た夢を私は果たして、父と母に見せることが出来た。

私は最低限の夢を成し遂げることは出来たが、それで人生が終わるわけではない。

最初の夢は叶うまでは天空にあるが、叶ってしまえばただの足場に過ぎなくなる。これからが本番だ。


私は自分の夢をさらに引き上げることにした。次の夢は自分がメイン発明者となって特許をとることにした。

そしてさらに夢が膨らんできた。できれば最初の2つの夢を融合させられないだろうか。

その頃1つの社会問題が見えてきた。いわゆるヘイトスピーチだ。

SNS上であからさまに特定のマイノリティに対して心ない発言をする人たちが目立ってきた。

その頃から私はSNS上でのヘイトスピーチを分析する手法を考案できないかと考えるようになった。しかしそのためには従来のITの技術だけでは不十分だということに気がついた。

何が足りないのだろう、何が必要なのだろう。私は真剣に考え、調べ始めた。そして最終的にSNS上での人間のやり取りを社会心理学の理論に基づいて心理分析することを考え始めた。社会心理学の教科書に乗っているような古典的で単純な理論を色々と学習して、現代のSNS上での人間同士のやりとりをテキストマイニングなどのIT技術と組み合わせたSNS分析に使えないかと考え始めた。かれこれ10年近く前の話だ。

ちょうど基礎研究所のITの研究員の人たちが同じ意図で感情心理学に基づいたSNSぶんせきの検討を始めていたところで、私も大学の心理学者の教授からのレクチャーに参加させていただいたりした。どうも自分の考えている方向は必ずしも間違ってはいないようだという手応えがあった。


その後、私は社会心理学の理論を用いたSNS上のヘイトスピーチを含む人間関係の風評被害を分析する手法をいくつか考案して、社内の知的財産部に持ち込んだ。しかし他の技術評価者も含めて、多くの人からこういった題材は民間企業において扱いにくいのではないかというアドバイスをもらった。

そこで私は分析対象を一般的な商品やスーパー銭湯の評判や好感度などに置き換えて再度話を伺った。

すると今度はその分析でどういった価値が創造できるのか、要するに自社としてビジネスバリューは何かということを問われた。

そこで今度はそういったことも踏まえた実益的な利用方法も想定して考え直した。


試行錯誤を繰り返した結果、最終的にSNS上の風評分析手法について2件の特許出願がなされることになった。1つ目はケリーのANOVA(分散分析モデル)を参考にしたものであり、2つ目はハイダーのバランス理論やスノーボールサンプリングなどの社会心理学に基づいた発明だった。

私にとっていずれも初めての単独出願だった。この発明に取り組み始めてからすでに数年の歳月が流れていた。


そしてさらにその数年の歳月が流れて、2回目に出願した方が先に日本の特許庁において特許として成立した。それから数ヶ月してその特許の額と賞金を受け取った。


その年、ちょうど母が亡くなった叔母の後を追うように高血圧による心臓病で倒れてしまい、病院に入院したところだった。私は会社から初めてもらった私の単独による特許の賞状を病床の母に届けた。それは社会心理学の理論に基づいたSNS上のヘイトスピーチなどの風評被害を分析するための発明に関する特許だった。表向きの利用方法はいろいろと考え追加したものだったが。

また私はその賞金でタラバガニなどの食材を買ってきて実家で調理したものを病院に持ち込み両親と昼食をともにした。両親との昼食はとても楽しいものだった。


私は母にその発明の内容について説明しなかった。かえって心配すると思ったから。しかし、母は私の名前が入った賞状にひどく喜んでいた。


また同じ時期に私が先輩にご指導いただいて書いたクラスター分析とテキストマイニングによるログの解析システムに関する社内論文が入選し、いただいた賞状も同じ年に病床の母に届けた。それだけではなくこの時期色々な特許や論文に関する賞状を届けた。


そして、その翌年にもう1つの特許が成立し、同じように病床の母に届けた。それは一昨年の年末のことだった。


私が病院に駆けつけると、病床の母は私が見知らぬ若い大学生の男女と話をしていた。彼らは母の見舞いにきてくれていたらしい。私はその女の子を見てすぐに誰だか分かった。私が大学に通うために実家を離れたあとで生まれた私の伯母の娘であるいとこのお姉さんの娘だった。私は当時から電話で母からその小さな女の子の話を聞くばかりで、会ったことはなかったが、彼女がいとこのお姉さんの若い頃にそっくりだったのですぐに気がついた。


私は彼らの前で気恥ずかしかったが、昨年同様、特許の賞状を母に贈って見せた。彼らも珍しそうに覗き込んでいた。


その翌日以降、その特許の賞金を握りしめて地元の大型スーパーに行き、そこで買った食材で正月料理や牛すじの煮込みカレーを作り、年末年始のお昼に両親と一緒に食べた。


これで私がやりたかった2つ目の夢も成し遂げることが出来た。私はふたつの義をどちらも果たすことが出来た。


小さい頃、風呂で父から特許の話を聞いてから自分が見た夢を叶えるのまでに35年以上の歳月がかかった。それまで私は自分の夢を誰にも話したことがなかった。私は自分の夢を両親にも話したことがなかった。ただ多少匿名のブログに書いたことがあるだけだった。誰にも邪魔をされたくなかったし、母親を心配させたくなかった。


振り返ると大変な長旅だったが、成し遂げられてよかった。


(私は、お父さんと結婚し私たちを産み育てたあなたの人生が無駄でなかったことを証明したかった。)


なおその年も深層学習による私の社内論文が入選したので、私は母の枯れ木のようになってしまった手を握りながら「賞状をもらったらまた届けるからね」と言って帰京した。


それまで、私の帰省は年末年始、ゴールデンウィーク、お盆の大型連休に限られていたが、この賞状については貰い次第早めに届けるつもりだった。母親が老いやつれて幾ばくもないことが明らかだったからだ。しかしその年からうちの会社で社内論文の賞状が発行されない方針に変わったため、それを母に届けることが出来なかった。止むを得ないので、GWに通常通り母に見舞いに行くつもりだった。しかしそのGWの初日に母は亡くなり、私は母の死に目に会うことが出来なかった。


その後、数件の特許出願をしていた私は、2度目の特許関係の重要な顕彰状を会社からいただいた。私のそれまでのいろいろな特許出願の業績に対するものだった。しかし私はこれも生前の母に届けることが出来なかった。そのため私はこの間の年末に実家の仏壇の横に設けられた母の祭壇にその賞状を供えた。生前に届けられなくてもったいなかった。


これからも少なくとも数年かけて数枚の症状が届く予定なので、届き次第、母の祭壇に届けるつもり。




「お前の賞金なんだから、お前の財布を買えばいいじゃないか。」

「私自身の財布を買って何が嬉しいのですか。」

「お前の財布を見せておくれ。

お前はなぜこんなボロの財布を使っているのか。」

「親よりも贅沢な財布を使うバカ息子がありますか。」