2016年8月6日。母親がいよいよ末期症状。今日も父が病院の屋上に母を連れて行っていろいろ話しかけていたが、あまり反応がない。

そのあと、私は広島市街地北部の白島にある韓国の惣菜店、大村商店に行って、エゴマの葉やタラのムンチ、岩海苔などを購入。

明日も親子でご飯が食べられたらよいな。




以上は当時のFacebookから。


以下はその後のTwitterでのツイートに加筆訂正をした追加文。


この頃すでに母は歩行能力がなくて、運動不足や閉塞感の解消のために介護していた父はよく母を車椅子に乗せて廊下を廻ったり屋上に連れて行ったりしていた。私も帰省すると父の代わりに同じことをしていた。

屋上からは広島湾と瀬戸内海を一望することが出来た。



考えてみるとうちは貧しい上に両親に貯金癖があって娯楽にも教育にもお金を使わなかった。そのせいかうちは家族で記念写真を撮るような習慣がなかった。そのため家族の写真がほとんど全くない。下の写真はその数少ない写真の一枚。母は黄緑色の袖ぐらいしか写ってないが、それでも貴重な両親の写真だ。



呉で生まれ育った日本人の父と山口の田舎で生まれ育った在日韓国人二世の母はともに終戦の前年に生まれ高校生の頃から付き合い始めた。母が義伯父が経営する呉の喫茶店で働いていたのが出会いのきっかけだった。その頃はまだ日韓の国交は回復していなかった。

周囲の強い反対の中、二人は一緒に暮らし始めた。その後兄が生まれ私が生まれた。それからちょうど50年の歳月が流れた。私がこの間50歳になったから。しかし両親はそれよりも長く60年以上前からともに生きてきた。二人とも最後まで一度も離れたことがなかった。


私が自分のアイデンティティのことで長年悩み苦しんできたのは、兄以外に同じ立場の人に会ったことがなかったから。私はいまだに実生活で父系血統主義の時代に日本人の父親と在日韓国人の母親の元で生まれ育った日本国籍の日韓ハーフに出会ったことがない。

そこには日本の中にあるという在日社会でお互いに多くの同胞に囲まれて育った在日の人たちとはまた異なる孤独感があった。

それは日本人社会で日本人に紛れて日本人のように暮らす朝鮮系の人間の異質な孤独感だった。

私たちにはうちへ帰れば外行きの服を脱ぐように寛げる場所やなんでも話せる仲間たちはいなかった。

そんな私と母とでさえ最後まで心を開いて話し切れないことが数限りなくあった。そんななか最後まで父は母の心の支えであり続けた。

母は私の知らない父のことを知っていたし、父は私の知らない母のことを知っていた。

二人は最後まで一つに結ばれていた。


二人は屋上のベンチに腰掛けると、長年ともに暮らしてきた広島の市街地を見下ろしながら、なんでもない話をしていた。

私はその二人のやりとりを遠くはなれて、後ろから眺めていた。

全く血縁のない二人のやりとりを、その二人の血を両方引く私はただただ他人のように後ろから眺めている他なかった。


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