昨夜、昨年末に亡くなられた井上泰治監督のことを思い出してずっと病室の天井を眺めていた。監督にもう一度お会いして今まで十数年間もの間目をかけて下さったこと、昨年の入院中何度も励ましてくださりお世話になったことへのお礼を改めて述べたかった。私の退院を本当に心から喜んでくださっていた。

私は小さい頃創作が好きだった。大人の言葉で言えば、創作家になりたかった。誰も考えたことのない面白いことを思いついてそれを実現するのが好きだった。だから私は小学校の学科で言えば、図画工作と理科が好きだった。

大人の言葉で言えば、著作権で保護される絵画や音楽などの芸術、工業所有権法(特許)で保護される科学技術上の発明。そのうちのどちらでもよかった。
私は分析や細かい事務処理が苦手で、若い頃はそんなつまらないことは他人に任せておけばよいと思っていた。

それより創作だ。誰も私と同じ絵を描くことは出来ないし、せっかく何かを自力で考案し、発明をしたとても前例があれば、モノマネするのと何ら変わらず特許を取ることは出来ない。またそれは公知の事実であってはならいのだ。世界で誰よりも早くアイデアを思いつき形にして特許庁に届け出なければならない。

私は若い頃そのふたつの道のどちらを選ぶかについてずっと悩んでいた。
そして結局は父と同じ理系の道を選んだ。数学科を出てIT系企業に就職し、発明をして特許を取った。
逆に芸術の道を選ばなかったのは今考えると終身雇用のバブル期だったとは言え、その道で生涯食べていけるか不安だったから。

若い頃私には妙な使命感があり、何が何でも自分の夢を成し遂げなければならないと思い込んでいた。
しかしそのために私のような凡人が1, 2度の挑戦で物事が全てうまくいくとは到底思えなかった。そのためには何度でもやり直せるための生活の基盤が必要だった。それも全て自分が賄うのだ。

こういうと芸術系の方に怒られるかもしれないが、私は芸術で食べていけるのは本当にごく一握りの人だけで、それ以外は連日遅くまでアルバイトに追われたりしてなかなか思ったような活動ができないのではないかと心のどこかで思い込んでいた。

しかしその私の人生に一つの大きな狂いが生じた。それまでノーマークだった在日の母親の存在だった。
そのことを人生の途中で知り、それまでまるで興味のなかったいわゆる文系の世界に興味を持ち始めた。

ある意味ではウィトゲンシュタインと同じ道を辿ってしまったのかもしれない。彼も元々は工学系でプロペラの改良をする特許を取ったりしていたのではなかったかと思う。しかしいつの間にか哲学の世界にのめり込み、その方面に進んでいった。

そして私はいつの間にか理系と文系のどちらに進むかを考えるようになっていった。芸術も好きだがこちらは業務時間外に時間を取れば何とかやっていけると無理に自分に言い聞かせていた。
そして中高時代、教育に興味のない両親のもと、私は自由に自分の人生のプランを立て、実行に移すことができた。

その頃私はいつの間にか理系で日本人の私と文系で朝鮮人の私の二重人格になっていた。そしてその二人は双子の兄弟のように付き合い励まし合いながら、将来の進路と時間を奪い合うように連日喧嘩を繰り返していた。
そして一つの線を引いて私たちは停戦状態に入った。

大学進学が決まり上京するまでは理系に徹し、文系の道は大学に入ってから好きなようにするというものだった。
結局、若い頃、理系で日本人の私は文系で朝鮮人の私を押さえ込んでしまった。大学進学と東京への進出がどちらにとっても最優先課題であり、そのことは文系で朝鮮人の私も納得してくれていた。

ところが実際に大学進学をし、上京し一人暮らしを始めたところ今度は予想を超えて文系の朝鮮人の私が理系で日本人の私を押さえ込み始めた。私は大学に通わなくなり数学の勉強もしないで毎日新宿や池袋の大型書店に通い詰め岩波文庫(青)や日本近代文学に始まりいろいろな文系の本を買い漁り始めた。

大学数学の勉強をせず文系の古典を読み漁りながら本来の第一目標である発明のアイデアの検討をしていた。あの頃私はずっと寝たきりだった。体が悪いわけではなく昼まで寝たあと午後はずっと横になり文学作品を読み夜は発明のアイデアを検討し夜中は不眠症で布団の中で夜明けまで悶々としていた。

なお高校の終わり頃に知り、興味を持ちながら大学入学まで極力読むことを抑えていた作家は稲垣足穂と太宰治だった。私は大学時代にこの二人の作品をほぼ全て何度も読み漁った。
彼らは特に似ておらず、共通点も強いて言えば佐藤春夫の門下生だったぐらいだが、それぞれが私の性に合っていた。

おそらく理系で日本人の私が唯一興味を持った作家が稲垣足穂だった。
逆に太宰治を嫌い、稲垣足穂の『少年愛の美学』を激賞した三島由紀夫にはまったく興味がなかった。
しかし特許出願が最優先課題だった私はまずこれを最低限一度やってみることにした。

しかし運悪く、ちょうどこの時期から特許庁は活字以外の特許書類は受け取らないと言い出した。
自分が数学科だったこともあり当初はコンピューターとプリンターの購入を検討したが、同じ数学科の学友が中古のセットを100万円で買ったという話を聞いて、PCの購入は諦めた。

悩んでいたところワープロ専用機ならプリンター込みで20万円程度で買えることが分かった。
そこで私は数学科でありながPCではなくワープロ専用機を購入し、工業所有権法を学びながらキーボードの打ち方を習得しつつ自力で特許申請書をすべて書き上げ初の特許出願を果たした。弁理士は雇わなかった。

結局この時の特許申請は資金難で審査請求すらできずに終わったのだけれども、特許申請までの仕方が一通りわかったのでよい経験になった。
それよりもむしろ数学科なのにPCではなく、ワープロ専用機を買ってしまったのが、その後の私の人生を決定付けてしまった。

理系で日本人の私は特許書類を書こうとし、文系で朝鮮人の私は小説やエッセイを書こうとするようになり、このワープロ専用機の奪い合いをするようになってしまった。その結果、私は理系と文系の二足草鞋を履くことになってしまったのだった。

しかし理系で日本人の私が特許書類を書いても審査請求するお金もないのだから、次第にこのワープロ専用機は文系で朝鮮人の私の占有物になってしまった。
大学時代、私はこのワープロ専用機で只ひたすら文章を書き続けた。

当時はネットワークが今ほど発達していなかったため、文章を書いても、フロッピーディスクに保存して、念のために紙で印刷しておくしか私には策が思い浮かばなかった。
その印刷した紙が次第に分厚くなり、これなら本が出版できるのではないかと考え始めた。

その頃はすでに電子書籍も登場していたが、できれば国会図書館に納入できる紙の書籍で出したかった。しかしその当てがないので一冊だけでも自費出版するかと料金を調べたりしていたら、よいタイミングでアメブロがブログの書籍化サービスを始めたので、数十冊作ってネットで知り合った人たちに何冊か郵送した。一応経費から一冊2千円の値段が付けていたが、実質は無料で配った。しかし律儀な人が多く半分以上の人はこちらが辞退しているのにもかかわらず代金を支払ってくれた。

特に当時メールでやりとりさせていただいていた最も敬愛する音楽家の方が二千円を振り込んでくださったのを通帳で確認したときには震えが止まらなかった。その音楽家の方とは、あのいつも私がYouTubeからTwitterでその演奏動画を共有しているあの方だ。私はあのときの御恩を今だに忘れない。




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